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フォークナー「エミリーに薔薇を」における人称の特殊性

熊本大学文学部文学科
伊藤祥太


 ウィリアム・フォークナーの「エミリーにバラを」では特殊な視点が採用されている。文学作品の視点は普通、主人公の視点で物語を描く一人称か、いわゆる“神の視点”で物語を描く三人称のどちらかである。二人称の小説も存在するが、数としては少ない。この作品では一人称の視点が採用されているが、通常の一人称小説とは少し異なっている。

 一人称は普通、一人の人物が語り手となる。しかし、ここで用いられているのは複数の一人称だ。“I”ではなく、“We”の視点で語られている。視点が複数あることによって、見える範囲が広がり、情報量が多くなる。見える範囲が広いというのは三人称の特徴だ。しかし、「エミリーに薔薇を」における視点は、主人公であるエミリーのプライベート空間や心の中には入っていけず、三人称としては不完全である。

 また、ここで用いられる人称「わたしたち」はエミリーが住んでいる町の住人全てを指しており、その内部で大きく二つの人々に分けることができる。男性視点と女性視点である。男性の視点では、エミリーは憧れの対象として描かれている。一方、女性の視点に立ってみると、エミリーを敵視しているように感じる。

 このような人称の特殊性はどのような効果をもたらしているのだろうか。まず、エミリーが町の住民全員の注目を浴びているという状況がよくわかる。そうでなければ、このような大人数の視点は生まれえないからである。次に、男女二つの視点を含めることができたのも人称の恩恵によるものだ。通常、二つの視点で物語を語ろうと思えば視点の変更と共に物語を一度区切らなければならない。しかし、最初から人称の中に男女二つの視点を導入することによってその手間を省き、スムーズに物語を展開することができる。また、男と女の心情が連続して語られるので、比較が行いやすく、その態度の差が分かりやすい。そのような効果をフォークナーが狙っていたのかどうかはわからないが、少なくとも私はこの人称設定が上に述べたような効果を付加していると感じた。

 このような“We”視点で描かれた作品を私は初めて読んだ。古今東西、探せば同じような視点を持つ作品を見つけ出すことができるかもしれない。是非探し出して、どのような特徴があるのかを探ってみたい。



(このエッセイは、大学一年生時の講義で提出課題用に書いたものに若干の修正を加えたものです)
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