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合理性、非合理性

KMIT
サイトウ


 現代社会という我々が生きる世界を、文芸が変えられるか否かという問いに、私は否と応えるであろう。

 文芸作品は往々にして社会をテーマに描かれる。それは、社会への反発、疑問から来る、環境改善への働きかけである。しかしながら、それらが生み出すのは流行である。流行が巻き込んでゆくのは主に大衆であって、環境ではない。環境を変えるのは技術である。

 現代は、技術によって打ち出された近代合理主義に支配されている。最早それは、我々の生活の隅々に浸透して、そこで暮らす人々をコミュニティから分断し、個人を覆っている。そのことを最も実感しているのは、他ならぬ我々の世代であろう。

 さてここで、文芸、芸術とは、合理性という枠組みの外に存している。これは芸術というものが、技術や論理の介入しない場所から生まれ出るものであることに因る。芸術はまるで非合理 的で、時に非現実的なものである。では、芸術とは、文芸とは何か。それは、感受すること、表現することである。

 芸術的な事物(芸術作品に限らない。きれいな海など)に出会ったとき、人は自身の感受性を刺激される。そうして体感し、感受したものを表現しようと試みる。家族や友人らにその素晴らしさを語り聞かせるだけで満足する者もいるだろう。むしろ、そういった人が大半のはずだ。しかし中には、それだけで足りず、もしくはそういった会話の中で更に別の感動を得て、それを形にしようとする人がいる。彼は、絵を描いたり、或いは歌詞や楽譜を作ったり、詩を書いたりしたいという衝動に駆られている。それこそが芸術という活動の根源である。感受と表現とは二つで一つのことである。

 こうして生まれた作品には当然、作者の内面が強く現れる。物語世界とはまさに、作者によって作り上げられた、一つの下位世界である。

 ところで、小説や詩を書きたい、という文芸への衝動は、文芸からの感受によってしか生まれないと私は考えている。小説を書きたいという者の衝動は、恐らくその殆どが誰かの小説に感銘を受けたことに因っている。文芸に感銘を受けるということは、他者の内面にある一つの世界を受け入れることである。その作業は、時に読み手の価値観を壊し、より洗練されたものへと再構築する。また、文芸を用いて表現するということは、そうして新たに生まれた、価値観としての世界を具現することに他ならない。

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