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芸術と少女の嘘

関西学院大学美学芸術学専修
タカサゴ


 ―――芸術は嘘を重ね、少女は嘘を纏っている

 こんなことを考えるようになったのは高校二年生の夏からだった。同級生の少女たちが化粧をするようになったのだ。そんな様子を「もったいない」と横目で見ていた。せっかくかわいいのだから、化粧をするのはまだ早いのではないだろうか。高校を卒業してからでも良いだろうに。彼女たちは「少しでも背伸びをしたい」という気持ちを秘めていたようだが、まだ素肌がきれいな時期にどうしてそれを隠してしまうのか、わたしには理解できなかった。もうすぐ少女でなくなるのに、そのままを見せてくれればいいのに――そう、思っていた。そんな姿はいわば仮初めの姿であり、彼女たちの全てではなかった。化粧という嘘で隠されたものは決して本質ではないのだ。現実と云う物はだいたいそうだ。とびきりの笑顔を向けてくれても目の奥は笑っていないし、真面目そうなあの子が実はアブノーマルな恋愛を求めていた、なんてこともあった。

 しかし、芸術はそうではない。例えば、映画や演劇、文芸。こういった芸術は現実に存在しながらも非現実を体験させてくれるものだ。いわば現実の中の非現実である。少女の嘘と芸術の嘘との大きな違いは、後者はただの嘘で終わらないところである。映画や演劇には配役があり、いつもの自分とは違う自分を生み出す。文芸は特定の人物に自分の作り上げた世界を生きてもらう。それらにお金を払った人に暫しの間、非現実を体験してもらう。そしてそのあと考える。作者が伝えたかったこと、物語の続き、伏線の整理……と思考は自由に広がる。そこが芸術の醍醐味だろう。こちら側が好きに想像できる余地を与えてくれている。その与えられた余地を埋めるものの大半は「嘘」である。けれどもこの場合の「嘘」は、本質を見せてくれない彼女たちとは違う。己の中で膨らんだ「嘘」は、元の物語に肉付けされる。そしてその肉付けされたものも含め記憶される。少女の嘘は本質に纏わりついているだけのものだが、この「嘘」は芸術の本質と同化していく。「嘘」として生まれたものが最終的に本質の一部になる。お気に入りの文学作品が舞台化・映像化されたが期待外れだった……そんな体験は誰しもあるだろう。それはおそらく記憶されたもの(「嘘」が本質と同化したもの)と見たものの間に齟齬が生まれたからだ。「思い出は美化させるもの」なのだ。

 とどのつまり彼女たちの化粧は芸術ではないということだ。それらは物語を展開させてくれなく、ただただ重ねられるだけである。それ以上もそれ以下もない。また、芸術自身も物語を展開させてくれなく、どうこうするのは芸術に触れた者だ。この部分においては大差がない。しかし、上述したように芸術は嘘を嘘だけで終わらせない余地を与えてくれる。その余地を埋める「嘘」には当然のように違いが現れるが、優劣が生まれるわけではなく、その違いも含めて芸術として飲み込めるのだ。こういったところが芸術と少女の持つ嘘の差なのだ。
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