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夏目漱石『行人』論 手紙の機能と物語内の時間

熊本大学文学部文学科
伊藤祥太

はじめに

 『行人』は漱石三部作の一つであり、修善寺の大観後の則天去私に至る過程における作品の一つとして読むことができる。「友だち」「兄」「帰ってから」「塵労」の四部構成となっているのだが、このうち前半三部と最後の「塵労」には形式的な相違があることは明白である。

 この「塵労」だけを違う構成にしたことには、物語上どのような効果があったのだろか。また、この小説における時間の流れはどうなっているのか。それらのことについて、適宜先達の考えを引用しながら考えていきたい。

手紙という形式について

 前半三部までは二郎を視点とした一人称小説であるが、「塵労」では語り手が一郎の友人Hに変わる。さらに特徴的なのは、後半部分が兄一郎の友人Hからの手紙という形式をとっていることである(注1)。この手法は、後期三部作として『行人』に続く『こころ』と似たような形式だと言える(注2)。『こころ』では先生に関する事象に重きが置かれていた。しかし、『行人』では実に巧みに主人が入れ替わっており、主人公が一人ではないということ事実には、読み進めていくうちに気付くこととなる。

 物語は初め、二郎とその友人三沢を軸にして進んでいく。兄一郎の登場までは、当然のことながら、一郎が介在することはない。ところが三沢と別れた後、次第に兄一郎に焦点が当てられるようになり、「塵労」にいたっては一郎の独壇場となってしまう。この主人公の入れ替えという荒業をスムーズに、読者に違和感を抱かせることなく行えた理由が、この手紙という形式にある。主人公の視点は確かに変わっている。しかし、形式的には視点が変わっていないというところに、この手法の妙がある。手紙を読んでいるのは二郎だと考えれば、固定焦点は守られている。ゆえに、私たちは視点が変わったということを感じないでいられる。

 この場面のスムーズな転換というのは、手紙という形式のみによって完成されるものではない。「兄」「帰ってから」を読めば、ここで二郎と一郎という二人の主人公が混じりあっており、これも主人公入れ替え装置の一つとして機能していることがわかる(注3)。この二人を繋ぐものはいったい何であろうか。勿論、同じ血が流れていることも理由の一つである。しかし、一郎の妻である直の存在はさらに大きい。絆ではなく、軋轢として二人を繋ぐ役割を彼女は果たしている(注4)

 この軋轢は、双方の主人公にとって重要な意味をもたらす。二郎については「友だち」から引きずっている男女間の問題をより一層浮き彫りにさせる。一郎に関しては、ある種の毒(注5)を持った近代的知に囚われた悩みをより一層深刻化させることになる。主人公が入れ替わることによって、私たちは二郎の悩みに親しく寄り添い、一郎の悩みにも「塵労」の部で深く感情移入することができる。

『行人』における時間

 次に、この小説に流れる時間の問題について見ていきたいと思う。この作品は、二郎の回想形式で書かれている。どうやら、全てのことが終わって、しばらく経った頃の二郎であるようだ。であるから、二郎は過去の自分を少し冷静に見ることができるようになっている。これが過去語りではなく、現在語りであったならばどうなっていただろう。きっと、友人三沢とのやり取りについてもっと感情的に描かれていたに違いない。しかし、作品中ではひどく自己分析的に書かれているし、また、他人のことについても考察した上で書かれていることがうかがえる。

 自分の「あの女」に対する興味は衰えたけれども自分はどうしても三沢と「あの女」とをそう懇意にしたくなかった。三沢もまた、あの美しい看護婦をどうする了簡もない癖に、自分だけがだんだん彼女に近づいて行くのを見て、平気でいる訳には行かなかった。そこに自分達の心づかない暗闘があった。そこに持って生れた人間のわがままと嫉妬があった。そこに調和にも衝突にも発展し得ない、中心を欠いた興味があった。要するにそこには性の争いがあったのである。そうして両方共それを露骨に云う事ができなかったのである。(「友だち」二十七)

 二郎の冷静さがわかる部分を引用した。文末は、全て過去形となっている。二郎が三沢を何故か快くないと思い、三沢も二郎のことを快くないと思っている。この事実は、二郎もこの時点で感じ取っていただろう。しかし、この時点では何故快く思っていないか、分かっていなかったに違いない。私にも身に覚えがある。家に帰ってみて、あるいは一週間経過して、そうかあれは嫉妬なのか、そうかあれは羨望なのかなどと、時間が経過してからその感情に名前をつけたり、説明したりすることができる。二郎もこれと同じだ。しかも、非常に高度な分析を行っている。ところで酒井氏はこの性の争いについて書かれた場面について次のように述べている。

 「友だち」の章では、後の章に頻出する「後から知って」(「兄」七)、「今から顧みると」(同・四十二)、「今になつて」(同)といった回想形式が導入されていない。つまり、「友だち」では、語っている時点の二郎による心理分析が施されていないのである。したがって、「自分達の心付かない暗闇」を析出するのは、二郎ではなく、作者であろう。

 つまり、酒井氏は私の述べていることの逆を述べていることになる。これに対する反論を、私の論を組み立てる足がかりとしたい。まず、「回想形式が導入されていない」からといって、「心理分析が施されていない」と結論づけるのは性急である。それは形式的な問題であって、文章の内容を捉えた内容となってはいない。確かに、「自分達の心付かない暗闇」というように、心理分析については曖昧な結果しか出ていない。しかしこれはむしろ、心理分析をしたうえで、それが曖昧な結果だとしても一応結果は出せたのだと解釈するべきだ。「性の争い」と二郎と三沢、二人の間にあるそれまでは曖昧模糊であった感情・現象に名前をつけていることが、分析が入った証拠である。

 また、私にはどうしても酒井氏の言う「『自分達の心付かない暗闇』を析出するのは、二郎ではなく、作者である」ということがわからない。読み手が析出するのなら分かる。テクスト論的な考え方になるが、作者の手から離れた瞬間、そのテクストは読者のものになる。この場面にどんな解釈を加えても、読み手の勝手である。しかし、作者が析出するとはどういったことであろうか。作者の考えはそのまま二郎に反映されているといってもいい。二郎、一郎は当然、漱石の分身である。いや、二人だけではない。『行人』に登場する人物は総じて漱石の分身でしかない。その意味において、二郎が析出できないものを作者漱石が析出できるとするのは、おかしなことなのである。従って、この「性の争い」に関わる部分でも、漱石の過去語りの効果は十分にある。他の部分の過去語りについては、酒井氏が指摘している通り明確に回想とわかる語が付随しているので、より読み取りやすくなっている。

終わりに

 さて、ここまで主人公の入れ替え、手紙、過去語りについて考察をしてきた。漱石は『草枕』や『虞美人草』では漢語表現を多用しているが、『行人』では平易な表現を用いて説明しようとしている。これは、漱石の後期三部作に共通していえる特徴である。修善寺の大観後の則天去私に至る過程の一つとしてこの『行人』があると考えれば、できるだけ平易な言葉で人間の深みをつかもうとする気持ちの表れであろうと推察することができる。言葉が重くなりすぎれば、内容はそれに伴わなくなってくる。漢文表現を使わなくなったことは漱石作品にとってプラスに働いている。言葉自体によって作品の質を保つのではなく、語り方の手法によって質を向上させ、作中人物の言動・心情がより伝わりやすくなっているからだ。




注1. 大久保氏によれば「この書簡体小説の方法を漱石は18世紀のイギリス小説から学んだ」という。

注2. 大橋氏は「結末のHの手紙も、例えば次作『こゝろ』の「先生の遺書」のような、視点人物である青年「私」と表面的には完全に別な世界を描き出している部分なのではなく、むしろ、二郎が「兄から今何う見られてゐるか、何う思はれてゐるか」知りたいという利己的な動機から、両親が心配しているからと「嘘」をついてHに書いてくれるように頼んだ結果であり(<塵労>二十二)、「塵労」とはただ一郎だけでなく、二郎にも、そしておそらくすべての人間にかかわっているのだ」と述べており、同じ手紙ではあるが、その中身には多少の差異があることを示している。

注3. ただし、二郎が下宿を借りてからは主人公が一郎一人のみとなる間がある。これも、一旦兄から離して、読み手の興味をそそる効果がある。

注4. 板垣氏は「弟(二郎・執筆者注)は言葉や心持に現わしはしなかったが、暗黙の間に、心のなかだけで不遇な嫂を温かく抱きとっていたといわれるかも知れない」と言う。北川氏も「二郎の回想という形で進むこの物語を読めば誰しも、無意識的なものであれ、二郎が直にどうしようもなく惹きつけられていることに気づくだろう」と指摘している。行動にこそ移さないものの、暗闇の中で嫂の姿にドキリとするなど、二郎にもやましい心がなかったわけではない。この気持ちが、三角関係を生む。

注5. この毒によって、一郎は言葉では説明できない存在の直に苛立ちを覚えることになる。その結果、彼はついに新しい宗教に向かうことになる。この転換を書き記したのが、「塵劫」の後半にある手紙だ。




参考文献
板垣直子『漱石文学の背景』 1984年 日本図書センター
大久保純一郎『漱石とその思想』 1974年 荒竹出版
大橋健三郎『夏目漱石 近代という迷宮』 1995年 小沢書店
北川扶生子『漱石の文法』 2012年 水声社 
酒井英行『漱石 その陰翳』 2007年 沖積社




(このレポートは、大学二年生時に課題提出用として執筆したものに若干の修正を加えたものです。)
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