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熊本大学文学部文学科
伊藤祥太
夏目漱石の『倫敦塔』は漱石自身の二年のイギリス経験をもとにして書かれたものだ。作中で漱石も述べているように、これは単純な紀行文ではなく、半分は漱石の想像で書かれたものである。
小説とは文字の芸術である。小説を通して伝えたいこと、あるいは小説の主題などというものはもちろん重要なのだが、芸術である以上そこに美しさが求められる。美しさとは、つまり文体によって表出するものである。同じ内容を伝えようと思っても、言葉の使い方は無限にあるといって良い。そんな中で、漱石は文章にリズムをつけている部分を多く見ることができる。リズムをつけることによって、漱石は小説を芸術として成立させたように思う。今回は、この『倫敦塔』におけるリズムについて探ってみる。漱石はどのような方法を用いて、文章にリズムをつけていったのであろうか。
なお、本稿における抜粋文は 1994年岩波書店発行の「漱石全集 第二巻」『倫敦塔』に拠る。まず気になる箇所を抜粋し、それに私がコメントをつけていく形式とする。
行つたのは着後間もないうちの事である。其頃は方角もよく分からんし、地理抔は固より知らん。(p.3)
「らん」の繰り返しが用いられており、それがリズムを生み出しているといえる。このように繰り返しによってリズムを生み出している文章は、作中に多くみられる。この箇所が、この作品の中で最初にリズムを作り出しているところである。また、分からない・知らないではなく、分からん・知らんとしたところもこの箇所の特徴であるだろう。こちらの方が、より軽やかなイメージを文章に与えることができる。
過去と云ふ怪しき物を蔽へる戸張が自づと裂けて龕中の幽光を二十世紀の上に反射するものは倫敦塔である。凡てを葬る時の流れが逆しまに戻って古代の一片が現代に漂ひ来れりとも見るべきは倫敦塔である。人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。(p.4)
この箇所も繰り返しの表現が使われている。終わりが全て「倫敦塔である。」で揃えてあるから感じられるリズム。そして、三文目はそれ単体でリズムをつくりだしている。これは、「人の血、人の肉、人の罪」と人の持つものを三つ列挙したのに対して「馬、車、汽車」とさらに三つ列挙したことによって生まれたものである。何度も倫敦塔という言葉が繰り返されるために、私たちの脳内にこの倫敦塔のイメージが強く焼きつくことになる。
空濠にかけてある石橋を渡って行くと向ふに一つの塔がある。星は丸形の石造で石油タンクの状をなして恰も巨人の門柱の如く左右に屹立して居る。其中間を連ねて居る建物の下を潜って向へ抜ける。中塔とは此事である。少し行くと左手に鐘塔が峙つ。真鉄の盾、黒鉄の甲が野を蔽ふ秋の陽炎の如く見えて敵遠くより寄すると知れば塔上の鐘を鳴らす。星黒き夜、壁上を歩む哨兵の隙を見て、逃れ出づる囚人の、逆しまに落す松明の影より闇に消ゆるときも塔上の鐘を鳴らす。心傲れる市民の、君の政非なりとて蟻の如く塔下に押し寄せて犇めき騒ぐときも亦塔上の鐘を鳴らす。塔上の鐘は事あれば必ず鳴らす。塔上の鐘は事あれば必ず鳴らす。ある時は無二に鳴らし、ある時は無三に鳴らす。祖来る時は祖を殺しても鳴らし、仏来る時は仏を殺しても鳴らした。(p.6~p.7)
文章のリズムを考えるにあたって、この文には様々な要素が含まれている。まずは、鐘が鳴る箇所の描写である。「鳴らす」あるいは「鳴らし」という単語がここでは八回も登場している。くどいほどの繰り返しであるが、これが良いリズム感を出しているそして重要なのが、最後が「鳴らす」で終わらずに「鳴らした」で終わっているということだ。講義の中でも、ル形とタ形の話は講義中で何度も出てきた。ル形が現在形でタ形が過去形という区別ではなく、ル形は前景的表現、タ形は光景的表現ということだった。ところが、ここでは鐘が鳴るということが一貫して前景的表現として描かれていると考えられ、最後の「鳴らした」という部分だけが後景的表現と考えることはできない。では何故ここ最後だけタ形を使ったのかといえば、リズムを壊すためではなかったろうか。「鳴らす」の繰り返しはくどい、と言った。この言葉だけで終わっていれば、この部分はただくどいだけの描写で終わっていただろう。ところが、最後をタ形で終わらせることによってリズムをクズことによって味を出している。また、鐘の描写が始まる前からこの部分の描写は全てル形なので、この部分全体のリズムの結びとしてもこのタ形は機能している。また、無二無三という言葉を解体して「ある時は無二に鳴らし、ある時は無三に鳴らす。」としてリズムをつくっているところも面白い。
切れぬ筈だよ女の頸は恋の恨みで刃が折れる。(p.20)
生へる白髪を浮気が染める、首を斬られりゃ血が染める。(p.20)
この二つの文は、男が歌う歌の歌詞として書かれたものである。歌詞として意識して読むから意識してリズムをつけて読もうとするせいもあるだろうが、それだけでこの二つの文のリズム感を説明することはできない。では、どうしてこの文からはリズムを感じ取ることができるのだろうか。それは我々日本人が幼いころから和歌や俳句に慣れ親しんでいることに由来していると私は考える。一つ目の文は「切れぬ筈だよ/女の頸は/恋の恨みで/刃が折れる」と分けることができ、七七七五のリズムができている。また、二つ目は「生へる白髪を/浮気が染める/首を斬られりゃ/血が染める」となって、こちらも七七七五のリズムである。和歌や俳句とは七と五の並べ方が違うが、日本人の耳は七と五の組み合わせを一定のリズムとして捉えるようになっているようだ。
私の感じた特徴的な文体はこのくらいである。全体的な印象として、この作品では出来事が淡々と述べられている印象を受ける。ル形が続いて最後にタ形でリズムを崩している箇所を指摘したが、そうではなくて、最後までル形で書ききっている箇所もある。倫敦塔の外見における描写にはリズムを感じられる部分が多かったが、内部に入り込んで後は、リズムを排除しているように思われる。あくまで私の読んだ感想であるが。
私は以前に漱石の『坊ちゃん』を読んだことがあり、また『虞美人草』を読んだことがある。この『倫敦塔』という作品は、どうもこの二つの作品のおよそ中間にある作品ということができるだろう。『坊ちゃん』は軽い文体で書かれている。読んでいて難解な語句なぞは出てこず、巻末にあった注を参照せずとも、時代背景さえわかっていれば難なく読みこなすことができた。ところが、『虞美人草』はそういうわけにはいかない。漱石は固より知識人であり、特に漢籍についての知識量が多かった。そのため、『虞美人草』には漢籍から引っ張ってきたような難解な言葉が多い。読むときには必ず注を参照しなければ漱石が何を言わんとしているかが全く伝わってこない部分がある。『虞美人草』では、自分の知識をひけらかそうという思惑が漱石にあったのではないかと私は思うのだが。さて、この『倫敦塔』でも多少注に頼らないと読み解けない箇所はあるものの、それは時代による違いも大きいと思われる。私たちに馴染みがないだけ、という言葉もあるようだ。しかし、やはり『坊ちゃん』ほど簡単な文章ではない。しかし私は、この文体はいささか中途半端でつまらない気がするのだ。『坊ちゃん』の場合は洒落っ気があり、とても滑稽な文体が用いられていた。私が初めて読んだ漱石の作品は『こころ』であったのだが、本当に同じ作家が書いたのかと思うほどの洒落っ気だった。『虞美人草』も語彙の豊富さという点で、同じ作家かと疑ったのは同じである。だから、中間に位置する『倫敦塔』は物足りないように感じる。
そう考えると、漱石は巧みに文体を使い分けている。今回は『倫敦塔』にだけ焦点を当てて考察をしてみたが、他の作品を考察してみても面白そうであるし、また、作品間の比較をしてみると、漱石という人を深く知る端緒となるだろう。
参考文献『夏目漱石全集第二巻』「倫敦塔」1994年 岩波書店
(このレポートは、大学一年生時に課題提出用として執筆したものに加筆修正したものです。また、レポート中で一年生時に文学科開講科目「文章作成演習」で福澤先生にご教授いただいた内容に依る所がありました。この場を借りて、お礼申し上げます。)