忍者ブログ

LITECO

HOME > ARTICLE> > [PR] HOME > ARTICLE> レポート > 谷崎潤一郎「母を恋うる記」 「私」のアニマ像としての母

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

谷崎潤一郎「母を恋うる記」 「私」のアニマ像としての母

茨城大学 日本近代文学専攻
十寸見 惇


○谷崎潤一郎「母を恋うる記」……初出は「東京日日新聞」一九一九(大正八)年一月十九日~二月二十二日紙(うち十八回の休載を挿み、「大阪毎日新聞」にも併行して連載)。のち、『小さな王国』(天佑社、一九一九年六月)に収録。

(作品梗概)
 月が深い雲の奥に呑まれつつも、どこからか洩れて来る光で外が白々と明るくなっている、闇夜とも月夜とも考えられるような晩に、両側に松並木が眼のとどく限り続いている田舎の街道を、七つか八つの「私」は歩いていた。「私」は歩きながら、自家の没落を悲しみ、華やかであった東京・日本橋での暮らしを儚む。

 浪の音や松風の音、松原の右にある真暗な海のような平面のところどころに見える、青白いひらひらしたものがカサカサと鳴る音に耳を傾けたり、しょざいなさに電信柱の数を数えたりして歩くうちに、「私」は明るいアーク燈に出逢った。その光を頼りに例のカサカサと云う皺嗄れた音の方に目を向けると、その真暗な平面はたくさんの蓮が植わっている一面の古沼であり、沼の向こうに、沖の漁り火のような一点の人家の灯が見えた。

 「私」はその人家が事によると自分の家で、中では年を取った両親が待っているのではないかと考え、勝手口の縄暖簾を透かして中を見ると、手拭いを被った田舎のお媼さんが夕餉の支度をしていた。しかしそのお媼さんは、自分は「私」の母親ではないと云い、さらに空腹の「私」が喰べるものを要求しても冷たい反応をする。仕方なく外に出た「私」が、銀のように冷たい明るさの月が光る海の浜辺を歩いていると、日本橋にいた時分に聞き覚えのある三味線の音が耳に這入ってきた。それは「私」を抱いた乳母が、新内語りの三味線を「天ぷら喰いたい、天ぷら喰いたい」と聞こえる、と云っていたその音であった。

 音の方へ長い間歩いていくと、一二町先に、編笠を被った、襟足と手頸の白さだけが際立つうら若い女の姿を認めた。「私」はその女を狐が化けているのではないかと疑い、近づいてまじまじと確かめてみると、その三味線を弾いている女は、まぎれもなく美しい女の人の顔をしている。ふと立ち止まって月を仰いだ女の頬にきらりと輝き転がり落ちる涙を見て、何が悲しくて泣いているのかと訊ねる「私」に、女は悲しいのは月のせいだ、お前も一緒に泣いておくれ、と返す。共に涙を流しながら、女のことを何と呼べばいいのかと「私」が云うと、女は「私はお前のお母様じゃないか」と云って、「私」をしっかりと抱きしめた。………

 ふと目を覚ました、今年で三十四歳になる「私」は、一昨年の夏に母を亡くしている。母との邂逅は夢であったのだ。しかし「私」の耳の底には、「天ぷら喰いたい、天ぷら喰いたい」という三味線の音が、あの世からのおとずれのように響いていた。


参考一.野口武彦、大久保典夫、笠原伸夫、出口裕弘、野村尚吾『シンポジウム日本文学16 谷崎潤一郎』(学生社、一九七六年)より「第一章 谷崎潤一郎――その文学的出発」

 笠原 ただ、谷崎の場合に、母親の面影が女性像の背後に重ね合わせて出てくるわけですが、母親が死ぬのは、確か谷崎が三十二かそこらのときですね。『母を恋ふる記』というのは、その数年後に書かれるわけです。谷崎の母親はたいへん苦しんで死んだらしいですが、そういうことは作品の上ではまったく回避しています。写真を見ると、谷崎のお母さんはたしかに美女ですね。しかし、母を恋うるというのは、彼の想像空間の中で一つ屈折して、彼の幼児体験へずっと絞られたかたちでしか、母親像が出てきにくいような感じがするんですが。全部そうだというふうには思いませんけれども。

 そうすると、谷崎の感受性の特質のような谷崎における母というものも、かなり屈折した回路で出されてきているような感じがするわけです。


➀先行論について……今回の発表に当たって、前田久徳氏の「谷崎文学の〈母〉:「幼年時代」・「母を恋ふる記」・「鬼の面」」(金沢大学語学・文学研究 26号 59‐73 1997‐07)を紹介する。前田氏は、この論の「二 母性回帰の夢―「母を恋ふる記」」の項において、「母を恋うる記」が小説として夢の構造を取っている意味について、次のように分析している。

 この一篇は、紛れもなく谷崎が魂の深層で求めていたものを形象化した、その意味で自己確認の作品であったわけだが、それを夢の形で語ったことは、単に〈一昨年の夏以来此の世の人ではなくなつてゐる〉母への回帰の不可能性や、母の許へ辿り着く〈私〉の魂の道程として描くために採用した幻想的な展開に論理的整合性を与えるための小説作法上の問題という表面的な理由だけでなく、もう少し別の意味合いも含まれている。自らの全き至福のありようを、文字通り夢の領域へ封じ籠めたということは、それは実現不可能な正に〈夢〉でしかあり得ないことを語っているからである。作家にそう認識させる背後には、この〈夢〉には、母子相姦の夢が潜んでいたからである。

 この前田氏の論に限らず、これまでの「母を恋うる記」の先行論には、谷崎の母子相姦願望について指摘したものが多く見られる。例えば、野口武彦氏は『谷崎潤一郎論』(中央公論社、一九七三年)において、「谷崎の創作活動の道程は、ゆっくりと長い時間をかけて母親との失われた性的結合を取り戻してゆく過程であったといえるのではないか」と述べており、千葉俊二氏も、「母があくまで官能的な肉体性をそなえたうら若い美女として「私」の夢に現出したところに、「私」が彼女を性愛の対象として認めていたということが微妙に暗示される」(『鑑賞 日本現代文学 8 谷崎潤一郎』、角川書店、一九八二年)と指摘している。

 しかし、これらは作者谷崎の実体験(彼は「母を恋うる記」を書く二年前、一九一七年に実母関を亡くしている。)を下敷きにして論じられたものであり、さらに言えば、その実体験に些か寄り掛かりすぎた解釈であると私には思われる。では、谷崎自身の体験を度外視してこの作品を再度読んでみると、どのようなことが見えてくるだろうか。「母を恋うる記」が夢を描いた小説である点に注目して読み解いていく。

➁発表者の見解
 アニマ像の発展の母胎となるものは母親像である。

 夢、というキーワードに関連して、ユング派の心理療法家である河合隼雄氏が、夢の具体例の分析を基に無意識の深層を解明した著書、『無意識の構造』(中公新書、一九七七年)中の一文を上に引用した。

 スイスの心理学者ユングは、夢の中に現れる異性像の元型について、男性の心の中の女性像をアニマ、女性の心の中の男性像をアニムス、と名付けた。男性は社会で生きていく上で、周りが期待する強くたくましい「男らしさ」という属性を持ったペルソナ(仮面)を身につけなければならず、そのことで彼の女性的な面が抑圧され、無意識界に沈み込む。それは時にアニマ像として人格化され、夢に出現してくる、というのがユングの主張であると河合氏は解説している。

 「母を恋うる記」のテクストに、次のような描写がある。

 松と影とは根元のところで一つになっているが、松は消えても影は到底消えそうもないほど、影の方がハッキリしている。影が主で、松は従であるかのように感ぜられる。その関係は私自身の影においても同じであった。(P76, L7~L9)

 本来、物体にくっついているだけで物体よりおぼろげである筈の〝影〟は、この場面でその関係が逆転し、〝影〟が主、「私」が従、という構図へと変わる。
さらに、P82には、

 私がゆっくりと歩いて行くにもかかわらず、女の後姿は次第次第に近づいて来る。(中略)私が一尺も歩く間に影はぐいぐいと二尺も伸びる。影の頭と女の踵とは見る見るうちに擦れ擦れになる。

 とあるが、これはまさに、〝影〟が従である「私」の意思を置き去りにして行動する様であると読み取れないだろうか。

 先に引用した、〈アニマ像の発展の母胎となるものは母親像である。〉という河合氏の言葉を思い出してほしい。「母を恋うる記」は、夢の物語である。ならば、夢の中に現れる異性像アニマを、「私」が夢で出逢った母に見ることもできる筈だ。

 母を「私」のアニマ像として認識すると、この〝影〟の行動はまた違った様相を帯びてくる。アニマ像をユングの文脈に従って解釈すると、「私」のアニマである母は「私」の女性的側面、ということになる。つまり、母の背を伝わっていく〝影〟の動きは、「私」自身のアニマ像(母)を夢の中で取り込み、それまで抑圧され、無意識界に沈んでいた「私」の女性性(その女性性は、母親像と深く結びついているものだが)を補完しようとする試みであるのではないだろうか。

 あらゆる関係性が反転していく夢の世界で、「私」に代わって主導権を得た〝影〟が母という「私」のアニマ像を摑む。河合氏によれば、夢の中のアニマ像は必ずしも実際の母親の姿を取るわけではない、ということだが、告白されるまで「私」が新内流しの女を母だと気付かなかったことや、〈母がこんなに若く美しいはずはないのだが〉という「私」の言葉などからも、夢に現出した母が実際の母の容姿と同じであったとは考え難い。しかし、「私」の意思から離れ、新内流しの女の姿を捕らえた〝影〟の行動は、アニマ像の裏側にある母親像を逃さなかった、という点で、非常に暗示的なものであったと言えるだろう。






*このレポートは二〇一四年前期の演習の講義で発表原稿として用いたものである。使用テクストは、『ちくま日本文学014 谷崎潤一郎』(筑摩書房、二〇〇八年)中の「母を恋うる記」(P55~P94)。
PR

Comment0 Comment

Comment Form

  • お名前name
  • タイトルtitle
  • メールアドレスmail address
  • URLurl
  • コメントcomment
  • パスワードpassword