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私が考える自殺と文学の行く末

志賀陵磨


 自殺と言うと何かと物騒で陰鬱な感じがしないでもない。一方で『The Book of Bunny Suicides』は自殺を笑いに変えていたりする。『The Book of Bunny Suicides』が文学と言えるかと言えば中身は限りなく漫画に近い絵本だから恐らく文学とは言えない。それでも日本では自殺をネガティブに捉える本がとても多くて、例えば『The Book of Bunny Suicides』のようなイラストを中学生が書いたりする。その中学生が自殺でもしようものなら日本のメディアはこぞって心の闇が云々とシリアスな音楽と共にイラストが全国に流されてしまう。私はそう言うことにいい加減飽きていて、どうせならもっと開けっ広げに、人間が自由に決めた行動の一端のように認めた方が良いと思っている。その点で法律に“自殺罪”が無いのはとても良いことだと私は思う。つまり私は自殺肯定派の立場なのだが、手元に丁度2冊ほど自殺がかかわる本があったので、それらを参考にして今回のレポートの条件に合わせたい。

 まず1冊は『人間失格』である。言わずもがな太宰治の代表作だが、フィクションにしては作者の人生とシンクロする点が多い気が私はしているが、一応フィクションとして今回は位置づけようと思う。主人公の大庭葉蔵の半生が語られるわけだが、死のうとしたり死にかけたりしても一向に死ぬ気配がない。勿論、主人公の独白で物語が進む関係でページ半ばに死ぬようなことは中々考えられないが、それにしてもしぶとい。タイトルからして文章全体にもネガティブな雰囲気が漂うが、これは恐らく主人公は死なないのだと私は読了後に思ってしまった。

 さて、もう1冊を参考にしなければならない。『卒業式まで死にません』である。2000年に出版された南条あやによるエッセイである。主に1998年5月から1999年3月までの作者の日記によって構成されている。日記ではあるが、その文章の受け取り手が存在し、文章も一般的な日記よりも自分以外の受け手を意識した文章である。読んでいると多数の向精神薬の名前が挙がり、医師からの処方無視も良いところ、オーバードーズも軽々こなす作者で、リストカットも日常茶飯事に行う。文体は基本的に明るい。しかし一方で常に危うくて、読んでいていつ死んでしまうのか気が気でない。ページ数から予想してまだ死なないだろうと考えられても、死んでしまう不安は消えない。日記は3月17日にレキソタン20mgを服用したところで終わっているが、その後の1999年3月30日に作者は死去した。蛇足だが、後づけの作者の略歴を読む限り自殺ではないようである。

 2冊の時代の隔たりが大きく、またその文学的な価値も大きく異なるものの、これら2冊は自らの命というものを人間が意識した時の心情を表現していると私は思う。また、自殺が良いのか悪いのか、そのように考えるのはあくまで周囲の役割で、実際に自分が死ぬべきと考え行った結果を担う中枢がどこにあるのかを表している。また、自殺という方法で自分の命をどれくらいコントロール可能なのか挑戦しているようにも見える。物理的には常に死ねるように私達の環境は整っているから、後は選択の問題である。現代の包丁は十分尖っているし電車も十分なスピートで走っている。一方でそれを選択しないのは、単純な意志とは別の次元にあると私は思えて仕方ない。死のうとして死ねない大庭葉蔵も原因の断定は難しいが死去した南条あやも、死のうと思うことはあるのである。一方で、そこで死ねるのか否かは別の次元の問題で、ではその次元は一体どこにあるのかと言えば分からない。死ねない人は死ねないままだし、死ねた人に尋ねることはできない。それをまるで意識できる問題として捉えていく考え方には理解の限界があると私は考えている。

 では、そのような問題に文学はどう関わっていくべきなのか。自殺肯定派の私としては、自殺を題材にしたポジティブな作品があっても良いと思っている。暗く重苦しい自殺のイメージを払拭すれば少なくとも自殺が悪いことであり、また自殺を思う者は悪であるといった印象は薄れていくように思う。自らの命を自らの力で終わらせようとする人間に生半可な言葉で語りかけるような文学は無礼であるし、生きることを奨励する文学はむしろ対極で、死のうとする者はそのような正論にあえて抗っているのである。

 そういった人々に一体どれくらい文学に託したメッセージや作者の思いが届くのか分からない。ましてや自殺を思うまで繊細な読者がどこまで感じてしまうのか、自殺を題材にした文学の影響力を私達はまだ知らない。一方で、自殺をしようと思わない人々に向けた文学は、人々の自殺に対する概念を壊しにかからなければならないだろう。自殺大国日本としての文学はまだ自殺はネガティブなものとして捉えているようである。勿論、ないに越したことはないだろうが、だからといって自殺がなくなればそれで良いということもなく、自殺に至らないような水面下の動きがなくなる時まで自殺の問題は終わらない。




参考文献
Andy Riley(2003). The Book of Bunny Suicides Hodder & Stoughton, Ltd
太宰治(1990). 人間失格 集英社
南条あや(2000).  卒業式まで死にません 新潮社
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