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「侘びしさ」の正体 ―太宰治が抱く女性―

フェリス女学院大学 日本文学科
奥村七海

一、「氾濫してゐる感受性」

私達は、人付き合いを円滑に進める為、時に愛想笑いや建前と言った「芝居」を必要とする。それは自然なふるまいであったり、はたまた「苦肉の芝居」であるかもしれない。あまりに生活の一部となり過ぎて気づかずにいることもあるが、ふと、そんな「芝居」や「道化」が嫌になる夜が来はしないだろうか。

 昭和の作家、太宰治は、『女生徒』の中で、若い女性の心情を、こう描写している。
私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないんだもの。いまに大人になってしまへば、私たちの苦しみや侘びしさは、可笑しなものだつた、となんでもなく追憶できるやうになるのかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していつたらいいのだらう。(『女生徒』(1) 一九〇頁)

 『女生徒』は、当時二十歳であった一読者、有明淑より受け取った一冊の日記に基づいて書かれ、昭和十四年四月発刊の「文學界」創作欄に掲載された、太宰治による女性独白文体の小説である。起床から就寝までの短い一日を綴った、同作家の女性独白文体の小説の中では『斜陽』に次ぐ長い作品で、当時の文壇に於いても高い評価を得た。

 右にあげた一節は、『女生徒』の語り手である若い女性、「私」が、夜中に洗濯ものを片付けながら、若さゆえの戸惑いをあらわにする場面である。ここに描きだされた「私」の心情には、太宰治が作家として描き続けた「侘びしさ」が最も色濃く現れているように思う。というのも、彼の残した小説の多くを女性の視点から描かれた作品が占め、その作品のなかで彼は「氾濫してゐる感受性」(『火の鳥』(2) 三三八頁)を主軸に細かく女性を観察、描写している。特に『女生徒』にはその洞察力に基づく描写が顕かだ。彼は、自らの内面に「氾濫する感受性」を、女性という自分とはまったく異質な存在に語らせることで女性の物語を書いていたとも考えられる。すなわち、太宰治の女性の物語は、彼の得意とする女性の視点を通して、自らの抱く「侘びしさ」、「苦しさ」を描いた作家自身の独白文なのではないだろうか。

 角川文庫版『女生徒』の解説(3) に、小山清は「女の物語には、太宰治という作家の、いろんな時期の心の投影が色濃く出てい」ると述べている。彼の主張によれば、太宰治が様々な時期に女性独白文体による作品を残し、またその中に様々な作家自身の姿を描き出していたことがうかがえるはずだ。

 ここでは、『女生徒』をはじめとする女性独白のスタイルが用いられた作品、また太宰治が自らを描こうとしたと言われる『思ひ出』、『人間失格』を通し、太宰治があえて女性に託そうとした、作家自身の「苦しさ」「侘びしさ」、そしてなぜ女性を用いて描こうとしたのか、について考察していきたい。

二、作家「太宰治」の独白

 でははじめに、太宰治の作品における「苦しさ」、「侘びしさ」にはどういった意味があるのだろうか。ここでは、彼の作品の様々な場面に登場する「道化」というフレーズ、またそれを連想させる言葉たちをキーワードに見ていきたい。
橋の上での放心から目覚めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行く末を考えた。橋をかたかた渡りながら、いろんなことを思い出し、また夢想した。そして、おしまいに溜息ついてこう考えた。えらくなれるかしら。その前後から、私はこころあせりをはじめていたのである。私は、すべてに就いて満足しきれなかったから、いつも空虚なあがきをしていた。私には十重二十重の仮面がへばりついていたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかったのである。(『思ひ出』(4) 四七頁)

 作家自身が、幼時からの思い出を、悪を、飾らずに書いておきたかったと述懐する自伝的小説、『思ひ出』を引用した。叔母に育てられた小学校以前から、中学校に上がった後までの、いわば、作家が津島修治であった頃、を書いたもので、まさに作家の根底にある「道化」を告白した文章と言えよう。

 さらに右の引用と酷似する語りが『女生徒』にあることにも注目すべきだろう。
人のものを盗んで来て自分のものにちやんと作り直す才能は、そのずるさは、これは私の唯一の特技だ。本当に、このずるさ、いんちきには厭になる。(中略)そのような失敗にさえ、なんとか理屈をこじつけて、上手につくろひ、ちやんとした様な理論を編み出し、苦肉の芝居なんか得々とやりそうだ。(こんな言葉もどこかの本で読んだことがある)
 ほんたうに私は、どれが本当の自分だかわからない。(『女生徒』一六〇頁)

 『思ひ出』の「私」と合わせて見ると、『女生徒』の「私」にも、作家の「道化」が色濃く書き出されていることが分かる。

 佐藤泰正は太宰治の文学について、「本当のおれって何だという、そこまで自意識が分裂したというか、あるいは人間性、人格が解体したというか、そういうところまで追いつめられたところから彼の文学は出発している」(『漱石・芥川・太宰』(5) 二三六頁)と述べている。

 確かに、初期作品の『思ひ出』、『道化の華』、そして後期作品である『人間失格』にも、「道化」で以て自らを傷つけぬように「芝居」をしながら生きてゆこうとする登場人物らが描かれた。そしてその「道化」や「芝居」をせねば生きられない彼らの「侘びしさ」「苦しさ」が、読者にも容易に理解できるよういくらか具体的に書かれているのが『女生徒』ではないだろうか、というわけなのだ。

 以上のように様々な作品を並べてみると、太宰治の作品に独白の文体が多く見受けられるのは、作家自身の「道化」が為せるものだと考えられはしないだろうか。「自意識が分裂した」、あるいは「人格が解体した」彼にとって、創作活動というのは、いわばアイデンティティの復活をもくろむものであったのだ。

 彼の作品の多くは私小説のように書かれており、巧みな語りで物語を展開していく。彼の語りの多くは、太宰が津島修治であった時期からの、自己に対する「芝居」とも言えよう。

 また『女生徒』は、実在の女性である有明淑の手記であった。原本は現在、青森県近代文学館に所蔵してあり非公開となっている。『女生徒』は、一人の女性の日記を書き写したものとも言えるだろう。しかし、『「女生徒」のこと』(6) において、最後の部分はほとんどが太宰治による創作であると、作家の妻である津島美知子は語っている。すなわち太宰治は、日記の中の少女に自らを重ねることで、作家自身でも、また有明淑という一人の女生徒とも異なった、まったく新しい「私」と自称する人物を作り、「道化」によって小説を編み出したのだ。

 作家、太宰治は、「道化」、「芝居」をなくしては生きることすらままならない「苦しさ」、「侘びしさ」を、作家が女を装って「芝居」することにより、「私」の言葉として語らせるべく、女性独白文体を用いたのであろう。

 太宰治の小説とは、虚構の中に、事実を織り交ぜた、フィクションでありながら、読者にはノンフィクションとの境を見失わせるような作品へと仕立てた、作家自身の「道化」の形なのだ。

三、女性であるということ

 作家の「道化」的性向の体現が、独白であるならば、彼はどうして、あえて女性になりきることを選んだのだろうか。ここに、いくつか女性の物語を例に挙げていく。
・私は人間をきらひです。いいえ、こはいのです。人と顔を合せて、(中略)言ひたくもない挨拶を、いい加減に言ってゐると、なんだか、自分ほどの嘘つきが世界中にゐないやうな苦しい気持になつて、死にたくなります。(『待つ』(7) 三六頁)

・胸がうづくやうな、甘酸つぱい、それは、いやな切ない思ひで、あのやうな苦しみは、年ごろの女のひとでなければ、わからない、生地獄でございます。(『葉桜と魔笛』(8) 二一八頁)

・女つて、こんなものです。言へない秘密を持つております。だつて、それは女の「生れつき」ですもの。泥沼を、きつと一つずつ持つて居ります。(『皮膚と心』(9) 八六頁)
 『待つ』、『葉桜と魔笛』、『皮膚と心』は、一九四二年博文館より発刊された太宰治による女性独白作品のみを集めた作品集、「女性」に『女生徒』の他多数の女性独白文体にの作品とともに所収された。

 これらは、『女生徒』とおおよそ同じ時期に書かれた作品であり、いくらか『女生徒』に似た描写も多く、ここにもやはり、「氾濫してゐる感受性」が描かれている。
・まるで嘘ついて皆をだましてゐるのだから、今井田御夫婦なんかでも、まだまだ私よりは清純かも知れない。(一七九頁)

・毎日、幾百、幾千の見たり聞いたりの感受性の処理ができなくなつて、(一五七頁)

・だんだんいけない娘になつてしまつた。ひとりきりの秘密を、たくさん持つやうになりました。(一八五頁)

 このように並べて見ると、「大人になりきるまでの、この長い厭な期間を」、「苦しさ」、「侘びしさ」を持て余しながら過ごしている若い女性の姿がみえてはこないだろうか。

 太宰治は、何故巧みに女性の言葉を操り、心情の描写を出来たのだろうか。『皮膚と心』にはこうある。
女には、一日一日が全部ですもの。男とちがふ。死後も考えない。思索も、ない。(八五頁)

 この短い一節に対し、作家が女性の姿をよく捉えていることが伺える、という見方をする研究者も多い。しかし、彼の描く女性は誰もが瞑想し、考える。『女人創造』(10) に於いては、「ああ、僕は、女ぢゃない。女は、瞑想しない。女は、号令しない。女は、創造しない。」(一二五頁)と、改めて男性の立場から女性をとらえることによって批判ともとれる言葉を残した。この言葉と、創作において太宰治が綴ってきた女言葉の上にある矛盾は、なんであろうか。

 斎藤明美は、太宰治の女性独白文体に対し「女性語りの方法は、現実社会で敗者となった太宰の心情を表現するのにふさわしいもの」(『太宰治大事典』(11) 一七五頁)と考察している。彼女の言うように、作家自身の私生活は常に不安に脅かされており、乱れた生活が下地となって、作家として苦しめられた時期もあったようだ。そういった点では、当時、思想を持つことをよしとされない弱者であり、私的な生活の中のみにあった市井の女性に、生活によって正当な評価を得ることができなかった、つまり社会的弱者の様でもあった作家自身を重ね合わせているようにも見える。

 また、太宰治は「一刻一刻の、美しさの完成だけを願つて」(『皮膚と心』八六頁)いる女性の、その「一刻一刻」に身を任せるような独特の話し言葉を用いることで、作品に軽快なリズムが生まれることもわかっていたようである。女性の、次々に興味が移り軽やかに話題を変えていく、対話の独特なリズムが、読者のみでなく、その女性のリズムに乗せた表現を試みる作家までをも巻き込み、まるで読者のうちの個人と談話しているかのような自然さが成立するからこそ、「自己の伝えたいことが自然に投影でき、形として、一つの表現方法として、意識的に用いられた」(『スタイルの文学史』(12) 一四七頁)のだ。

四、「道化」の青年、大庭葉蔵

 しかしながら、太宰治の独白文体による作品は、女性視点のみというわけではない。「道化」は女装にとどまらず、男性を中心とした物語にも見られる。「大庭葉蔵」こそ、その代表的な例であろう。

「大庭葉蔵」とは、初期作品の一つ、『晩年』と、作家が最後の年に着手した『人間失格』に登場する青年だ。どちらの「大庭葉蔵」も、己を傷つけまいとして「道化」を演じ、人とつながりを持とうとする青年であるが、この二作にも、『女生徒』に通じる描写があるのだ。
・彼らは、腹の底から笑へない。笑ひくづれながらも、おのれの姿勢を気にしてゐる。彼らはまた、よく人を笑はす。おのれを傷つけてまで、人を笑はせたがるのだ。(『道化の華』(13) 一二二頁)

・それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れてゐながら、それでゐて、人間を、どうしても思ひ切れなかったらしいのです。さうして自分は、この道化の一線でわづかに人間につながることが出来たのでした。(『人間失格』(14) 四〇四頁)
両作品ともに、必死の「道化」が見受けられる。ここで、もう一度『女生徒』を振り返ることにしよう。

・上手につくろひ、ちやんとした様な理論を編み出し、苦肉の芝居なんか得々とやりさうだ。(こんな言葉もどこかの本で読んだことがある)
 ほんたうに私は、どれが本当の自分だかわからない。(『女生徒』一六〇頁)

・「自分は、ポオズを作りすぎて、ポオズに引きずられてゐる、嘘つきの化けものだ」なんて言つて、これがまた、ひとつのポオズなのだから、動きが取れない。(同一六八頁)
 「大庭葉蔵」と「私」この二人の、あるいは三人の人物には共通した面を持っているように見えないだろうか。右へ引用した『道化の華』、『人間失格』、また『女生徒』からは、一章へ記したように、自らを偽った彼ら自身、言うなれば「十重、二十重の仮面」をはずすことができずにいる彼らの姿が浮かんでくる。語り手たちは「道化」を見事に演じ、自身の「人格が解体」してゆくのをただ虚しく見送っているか、すでに「解体」した「人格」を再び取り戻そうとあえいでいるのだ。

 特に、『人間失格』は、「作家が自身の文学の最高の形で書き上げた遺書」(「『人間失格』をめぐって」(15) )とも評される。太宰治は、自身の心情を、『思ひ出』から『道化の華』、そして中期の女性独白文体の作品、最後には『人間失格』へと、徐々に明確にしていったのではないだろうか。作家と親交のあった臼井吉見は、評論「『人間失格』をめぐって」の中で、太宰治の独白文体についてこう触れている。
近頃の作品には女を主人公にしたものが多く、女をかりて逆説的に、いわば小出しに自己を語って来ていたが、今度はいよいよ真正面から全面的に自己を語るのではなかろうか(後略)(六〇六頁)

 右に見られるように、作家、太宰治の死後から現在に至るまで、「大庭葉蔵」と太宰治は同一視されがちであった。それは、『人間失格』という作品があまりにも作家の私生活に近すぎる内容であったからだろう。そして、彼が男性作家であるのに、女性の語り手らもまた、太宰治自身であるとされてきた。作家自身が男であったにせよ、女性として語ることを切り離せなかったことは、彼が女性独白文体を手法としてはっきり認識していたことにも明らかだ。しかし、先にも挙げた『女人創造』で、太宰治ははっきりと、「ああ、僕は女ぢゃない」と、そのことを主張する。さらに、『火の鳥』では、「あのひとに在るのは、氾濫してゐる感受性だけだ。そいつを整理し、統一して、行為に移すのには、僕はやつぱり教養が、必要だと思ふ。」(三三八頁)と作中人物を介して述べており、極端な見方をすれば、作家が女性を、無知なもの、直情的なもの、思想のないものとして捉えていることもわかる。そして、その「感受性」を「整理し、統一」するのは男性なのだ。では、どうして彼は、「創造」し、いよいよ自身の主張をしようという時に、「創造しない」女性の手を借りなくてはならなかったのだろうか。

五、太宰治と女

 太宰治にとって、「女」とは何であったのか。ここで私見をまとめようと思う。

 彼にとって、「女」がただの性別分類でなかったことは明らかだ。男の視点から書かれた、『男女同権』、『女人訓戒』、『女類』、そして『人間失格』には、何気ないことで男性の運命を左右する「女」の姿がえがかれる。
世の女性といふものは学問のある無しにかかはらず、異様なおそるべき残忍性を蔵してゐるもののやうでございまして、そのくせまた、女子は弱いと言ひ、之をいたはつてもらひたひと言ひ、(中略)この世に女のゐるあひだは、私の身の置き場がどこにもないのではなからうかと、(『男女同権』(16) 三一四頁)

 『男女同権』は、さまざまな女性に裏切られ、傷ついた男性の演説を記したという形で綴られる、太宰治後期の作品である。ここに、男性にはとうてい行動や思考を読むことが不可能な女性へ対する作家自身の恐怖が伺える。『人間失格』においても「大庭葉蔵」は女性によって苦しめられ、女性によって自らを意識するのだ。

 さらに、理解不能な女性の行動を短編作品として纏め上げた『女類』にはどうだろうか。
そりやお前の百倍もそれ以上ものたくさんの女に惚れられたものだ。本当さ。しかし、いつでも地獄の思ひだつたなあ。わからねえんだ。女の気持が、わからなくなつて来るんだ。僕はね、人類、猿類、などといふ動物学上の区別の仕方は、あれは間違ひだと思つてゐる。男類、女類、猿類、とかう来なくちやいけない。全然、種属がちがふのだ。(『女類』 (17)三五六頁)

 ここにもやはり、女性への恐怖、軽蔑が唱えられている。

 太宰治は、『男女同権』においては、「私」を様々な方法で傷つけ裏切る女たち、『女人訓戒』においては、自らの嘘、すなわち「道化」を信じ切り、「道化」に溶け込んで生きる「女」を、『女類』、『人間失格』にも、理解しがたい女の姿をそれぞれ描いている。彼にとって、さまざまな経験とともに、女性とかかわってさえわからなくなってゆくもの、それが女性であった。

 彼は幾多の作品の中で、男女の関係を書いた。彼の描いた女性は、「一刻一刻」千変万化しつづけ、時には男性を慕い、時には男性を嫌悪する。しかし男性の立場におかれる登場人物たちは、男とまったく違った女性に対し畏怖の念を持ち、怯えているかのようにも見える。「裏切られる」(『女類』三五八頁)という、女性に対する疑念のひとつしか持っていない。これは、作家自身の、また津島修治としての女性関係のなかで彼に深く根付いていった女性へのある種のトラウマなのだろう。

 しかし、太宰治は多くの女性独白文体による文学を残した上に、「私は、ひとりになってもやはり、観念の女を描いてゆくだらう」(『女人創造』)とまで述べている。彼は、胸の奥にひそかな女性蔑視をいだきながらも、女性の文学を描くことは断ち切れないというジレンマ、あるいは矛盾に陥っていたのだ。

六、矛盾による「侘びしさ」

 おそらく、「自意識が分裂した」、「人間性、人格が解体した」ために、彼は何かべつの「人格」を作り、作中人物へ語らせることでのみ、太宰治は、太宰治として存在し得たのだ。作家としてのアイデンティティを得るうえで、もっとも語らせやすかったのが、「現実社会で敗者」であった市井の女性であったのだろう。

 しかし、いくら作家が自身を「現実社会で敗北者」であると自覚していようとも、彼はどうしたって男、つまり「女類」とは完全に「種属がちがふ」、「男類」なのだ。

 津島修治としての彼の生涯は、未だ男尊女卑の色濃く残る明治末に始まる。青森県弘前市、作家自身が作品の中で田舎だと語るそんな彼の故郷では、なおさら、家父長制度や女性蔑視が根付いていたことだろう。「男類」としての彼の胸裏には、いくらか自分が優位であると考える部分があったのではないだろうか。特に、『火の鳥』、『女人訓戒』、『女人創造』、『女類』には、彼の抱えてきた女性観が映し出されている。もう一度、『女類』を例にとろう。
・思考の方法も、会話の意味も、匂ひ、音、風景などに対する反応の仕方も、まるつきり違つてゐるのだ。女のからだにならない限り、絶対に男類には理解できない不思議な世界に女といふものは平然と住んでゐるのだ。(三五七頁)

・女類と男類が理解し合ふといふ事は、それは、ご無理といふものなんだぜ。(三五八頁)
 右にもみるように、「女類」を「男類」つまり作家にとってまったく意味のわからないものとして捉えていた。彼にとって「女類」あるいは「女性」とは、おなじ「敗者」であると同時に「理解できない不思議な」生き物でもあった。太宰治の女性観について、槌賀七代はこう触れる。

男にはない決意の仕方が、太宰をさらに揺るがす。その思考の方向があまりに違いすぎ、理解できないことが「男」である太宰に「不安」を与えるのかもしれない。 (『太宰治大事典』(18)一七四頁)
 後期の太宰治は、先ほどから例に挙げているように、「理解できない」女性を『男女同権』、『女類』、『人間失格』といった男性による独白の作品で次々に発表した。このことは作家太宰治と、彼の抱く「観念の女性」にどのような意味を暗示するのだろう。

 母親から遠かった幼少期、度重なる女性関係など、女性にある種のトラウマを抱きながら、女性を描こうとした、あるいは飾らず、偽らずに自身の主張、すなわち女性への「不安」を描こうとした作家の、初期のスタイルが、彼自身に「侘びしさ」、「苦しさ」を抱かせたというのは明らかであり、その心情が有明淑という女性の厭世、自意識への懐疑をつづった日記と出会ったとき、彼の中になにやら反応があって生まれたのが『女生徒』だったのだろう。太宰治は、『思ひ出』、『道化の華』において名づけかねていた感情に、「侘びしさ」、「苦しさ」という名前を、女性独白の作品において認識したのだ。

 彼は感情の名称を獲得したからこそ、漸く女性に紛れ込み、偽ることを離れて「理解できない」女性という生き物、すなわち「女類」に対しての「不安」を、書くことができるようになったのではないか。つまりは数々の女性独白文体による作品たちは、その前段階、言わば「不安」の繭の状態として書かれたものであった。

 彼は、実に多くの「道化」を書き残した。『思ひ出』では「十重二十重の仮面」をつけた少年に、『女生徒』では「ポオズをつくりすぎてポオズに引きずられている嘘つきの化けもの」へとなり、『人間失格』では「道化」によってわずかに人間とつながろうとする一人への男へとなる。太宰治は実に様々な役を、特に女性の役を好んで、原稿用紙の上で「道化」として演じて見せた。彼はあえて自らが「瞑想しない」、「号令しない」「創造しない」女へとなりきることで、女性の「理解できない」思考を再確認するように、自らが最も恐れる「女類」になろうとした。とくに『女生徒』で描き出された彼の内面は、「子供から大人へと移行する時期の内面を析出することが、そのまま前期から中期へと変貌していく太宰の姿と二重映しとなり」(19) 、やがて、太宰治の遺書ともされる『人間失格』において、「ツネ子」のまとう「侘びしさ」によって自らを自覚する「葉蔵」へとつながる予感すら感じられる。

 作家、太宰治のデビュウ作となる『晩年』(20) 、その冒頭に記された『葉』にはこうある。
撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり
    ヴエルレエヌ
 『思ひ出』にもあるように、ぼんやりとした「えらく」なれる自信と、一方での「自意識」「人格」の「解体」不安の間で、作家は「創造」することによってアイデンティティを得ようとした。時には「理解できない」、「女類」になりきってまで、である。

 「理解できない」ものを、「不安」やおそれを抱きながら演じるということは、その行為自体に矛盾を孕んでいるとは考えられないだろうか。彼は、「一刻一刻」を身軽に移り変わる女性の身軽さに、男性として憧憬を抱き、また「不安」を抱いたからこそ、矛盾をかかえつつ女性独白の物語を書いたのである。作家自身の描く人々同様、自らを偽り、「女類」の「道化」を演じていたのだ。それは太宰治による、彼自身への芝居であり、それが「苦肉の芝居」、「最後の求愛」といった形で現れ、「道化」なくしては生きられない作家、そして作家自身の描き出す彼らの「侘びしさ」、「苦しさ」を招く。

 『女生徒』における、生々しいまでの「侘びしさ」の表現はおそらく、「侘びしさ」、「苦しさ」を自らの胸中に認め、そうして的確に言い当てる言葉を抽出することができた、初期から中期への過渡期にあったからこそできたのであろう。

 彼の作品を物語る登場人物たちは、「道化」なしには生きてゆけない。しかしそれは特別なことでなく、私たちのすぐそばにあることなのだ。彼らは、心の中に矛盾を抱えて生きることに耐え切れずにいる。彼らは弱いというのでなく、ただ少しばかり「理解できない」ものを恐れているだけなのだ。その臆病な性格はまさしく、「道化」に対して敏感な作家自身の、少し大げさな自己投影と考えてもよいのではないだろうか。





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『太宰治全集3 小説2』筑摩書房 一九九八年
同右
太宰治『女生徒』 角川書店 一九五四年 
『太宰治全集2 小説1』筑摩書房 一九九八年 
佐藤泰正 佐古純一郎『漱石・芥川・太宰』朝文社 二〇〇八年
『太宰治全集3 小説2』筑摩書房 一九九八年
『太宰治全集6 小説5』筑摩書房 一九九八年
『太宰治全集3 小説2』筑摩書房 一九九八年
『太宰治全集4 小説3』筑摩書房 一九九八年
『太宰治全集11 追想』筑摩書房 一九九九年
志村有弘・渡辺芳紀・『太宰治大事典』勉誠社 二〇〇五年
大屋幸世・神田由美子・松村友視『スタイルの文学史』 東京堂出版 一九九七年
『太宰治全集2 小説1』筑摩書房 一九九八年
『太宰治全集10 小説9』筑摩書房 一九九九年
同右 回想・同時代評 臼井吉見「『人間失格』をめぐって」より引用
『太宰治全集9 小説6』筑摩書房 一九九八年
『太宰治全集10 小説9』筑摩書房一九九九年
志村有弘・渡辺芳紀『太宰治大事典』勉誠社 二〇〇五年
鶴屋憲二「女生徒」『別冊国文学 no.47 太宰治事典』学橙社 一九九四年五月
『太宰治全集2 小説1』筑摩書房 一九九八年
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