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戯曲の文学性/演劇性 ~別役実の『友達』批判をめぐる問題~

比較文学専攻
ツキミ

1 はじめに

 本論文では、1970~72年に発表された別役実「演劇における言語機能について―『友達』より」を題材に、安部公房『友達』が戯曲として抱える問題点とその評価の困難性について考察する。まず戯曲『友達』が発表されるに至った経緯を辿る。次に、「演劇における言語機能について―『友達』より」で指摘されている様々な問題の中から「善意」の侵入/「悪意」の侵入に触れた部分に着目し、別役が何を問題視しようとしていたのかを整理する。最後に、岡田利規の演出による『友達』上演時に出されたコメントから、戯曲の文学性/演劇性という対立軸を演出が乗り越える可能性を検討する。

2 『友達』の成立過程

 『友達』は平凡な男の部屋にある日突然見知らぬ「家族」たちが侵入してくる不条理劇である。『友達』のプロットは初期短編「闖入者」をもとにしている。「闖入者」と『友達』の関係について安部公房はエッセイ「友達―「闖入者」より」で以下のように語っている。

「闖入者」を「友達」という、いささかトボケた題名に変えることによって、私は疑似共同体のシンボル(明治百年、紀元節の復活、等々)に対する、われわれの内部の弱さと盲点を、その内部からあばいてみようと考えてみたわけである。(安部,1967,pp.418)

 1951年に発表された短編小説「闖入者」は、「誤解された民主主義、もしくは多数という大義名分の機械的拡大解釈に対する、風刺がそのテーマの中心」(安部,1967,pp.417)に置かれていた。しかし、安部は戯曲化にあたり扱うテーマの方向性を変えている。1960年後半、明治百年礼賛に対してどのような反応をとるかが政治と文化との接点における一大争点であった。安部はこの頃の「新ナショナリズム」を「多数原理から民主主義のオブラートをはぎとった、むきだしの共同体原理の強調」(安部,1967,pp.417)だと考えていた。そこで、安部は「闖入者」のプロットを借りてテーマを「現代の内部にうずく、共同体復活へのプロテスト」(安部,1967,pp.420)へと変えたのだ。

 安部公房と演劇のつながりを考えると、1950年代後半における安部のミュージカルに対する取り組みも重要である。東欧旅行時に鑑賞した芝居の影響でミュージカルに強い関心を抱くことになった安部は、1955年半ばからミュージカルの制作を目指す〈零の会〉を結成、1957年には総合芸術を指向する〈記録芸術の会〉の会員にもなっている。安部はミュージカルとドキュメンタリーを群衆や街や労働といった現実の再構成という点で結びつけて考えていた。つまり、現実をパーツに分解し、意識的に再構築するという発想でミュージカルを捉えていた。鳥羽耕史は、この発想が後の安部公房スタジオにおける俳優の動きすべてを分解し、すべての動きを意識的に演じさせるという稽古の発想まで連続していると指摘している。(鳥羽,2007,pp230)

 なお、『友達』は1967年に初演され、同年に第三回谷崎潤一郎賞を受賞している。

3 演劇的/文学的という問題

 『友達』に対する反応として劇作家の別役実による批判的論考「演劇における言語機能について―『友達』より」は重要である。なぜなら、別役は『友達』への批判を通して戯曲における演劇性/文学性とは何かを考察しているからである。論考では演劇性と文学性の混合を主な批判対象にしており、それがもたらす作品の瑕疵について多岐にわたって論じられている。ここでは特に「侵入」を論じた部分を中心に、別役の演劇性と文学性についての議論を追うことにする。

 別役は議論を組み立てる際に「悪意」による侵入と「善意」による侵入をメカニズムが違うものとして論じている。別役は舞台空間を物理的空間と心理的空間の二重構造として捉え、演劇的手法における「侵入」を二重構造の揺らぎとして描いている。「悪意」による侵入では侵入者と被侵入者という心理的関係は安定しており、物理的空間の変質によって日常生活の破壊が表現される。対して「善意」による侵入では物理的空間は安定している。日常性の中にある心理的な不安定さを表出することによって、観客が日常人の中に侵入者を見出していくのだ。

 『友達』について、別役は明らかに「善意」による侵入のパターンを保有しているにもかかわらず「悪意」による侵入のパターンと混合しているために混乱が生じていると指摘している。例えば、男が警察に通報するか否か葛藤する場面。「家族」の長男が通報の是非について多数決を採ろうと提案をするが、父は「結果の分かった勝負じゃ、ゲームのスリルもない」と言い多数決の提案を退ける。この場面では、本来「善意」の侵入であるはずのものが侵入者と被侵入者の立場を守ったままの攻防という「悪意」の侵入のようなかたちになってしまっている。別役は多数決の提案をそのまま採用していれば、圧倒的な効果があっただろうと指摘している。「善意」による侵入の場合、侵入者は侵入している意志を被侵入者に感じさせるような言動をとらない。されに、多数決の結果は観客にはおおよそ見当がつくが「善意」の侵入者たる「家族」たちは「皆目見当がつかない」はずなのだ。その分、多数決が実行され、結果が出たときのインパクトも大きい。

 安部が『友達』の多数決の提案の場面で演劇的効果を減ずるような流れにしたのは、多数原理を全面に押し出す展開を恐れたからではないかと考えられる。小説「闖入者」では闖入した「家族」たちが多数決を行うことにより男への暴力が合理化されている。しかし、『友達』は「非情な多数決原理で襲いかかった「闖入者」たちが、こんどは(・・・・)、親愛なる同朋として、「友情」の押し売りをはじめた」(安部,1967,pp.418,傍点引用者)という認識に基づいて構想されている。安部は友達(=「家族」)たちの原理を「協調と連帯と和解」と規定している。そのため、多数決が採用されるのが「善意」の侵入のパターンにとって自然な場面においてもテーマとの整合性を考慮して使わなかったとの推測が成り立つ。このことから演劇的効果と物語との整合性よりもテーマと物語との整合性を優先させる安部の態度が窺える。これは、ミュージカルに現実の分解と再構成を求めた態度と同根のものだ。別役が安部の演劇観と鋭く対立するのはまさにこの点である。

 別役は「あるがままのものに意味を与え、文明的な論理構造の中に植え込もうとする方法」を「文学的」、「意味ありげに見える閉鎖的な日常性の中から、本来的な実在性を開発する」方法を「演劇的」と表現している。(別役,2007,pp.47-8)そして、『友達』の中にある文学的な要素が演劇的ダイナミズムを殺していると批判している。以下の文章における対比はそのまま別役と安部の演劇観の対立にも通じる。

作者にとっては一つのモチーフを舞台化(・・・)すると云う事が舞台空間においてそれを体験すると云う事(=「演劇的」)でなく、舞台空間に物理的に構図すると云う事(=「文学的」)で認識されていたのである。(別役,2007,pp59,括弧内引用者)

 別役は『友達』で描かれるアパートの扉が侵入者と被侵入者を分ける意味で使われていることに対して「既に答えの分かっている事を、舞台空間に於て「絵」に見せているに過ぎない」(別役,2007,pp60)と批判している。別役は、安部が演劇の手法として採用した現実の分解/再構築という「文学的」なスタイルは戯曲の演劇性を損ねるという批判を行っているのである。

3 戯曲の評価と演出

 別役は戯曲『友達』を精読することにより演劇における文学性と演劇性を考察し、文学性が演劇性を損なってしまう状況を批判した。しかし、論考「演劇における言語機能について―『友達』より」はあくまで戯曲『友達』に対する批判であり、上演された『友達』に対する批判とは位相が異なることには注意が必要である。劇の評価は戯曲だけではなく、演出や役者の演技も密接に関わってくるからである。

 2008年、劇作家の岡田利規の演出によって『友達』が上演された。岡田は別役の『友達』批判に対してほぼ全面的に同意している。その上で批判が全て戯曲のテキスト内の問題であるとし、実際に俳優が立った時に機能する戯曲の力強さは別問題だとしている。岡田は役者の身体性に着目しつつ別役の批判に対して以下のように切り返す。

別役氏の批判は、おそらく正しい。でもそれを些細な問題にしてしまうことはできるのだ。身体とは、かくも圧倒的である。戯曲が説明的である必要などない、なぜなら役者の身体の存在が、それだけでじゅうぶんに情報を提示するのだから、……というのと同じ理屈で、戯曲がいくら説明的であっても、きっと、構わないのだ。役者の身体は、それを凌駕して、その戯曲の上演を直接性をもつものにしてしまえる。(岡田,2013,pp.136-7)

 岡田は、別役の批判から着想を得て部屋のセットの壁を取り払い、一幕一場を結末に入れ替えている。しかしそれ以外はほぼ戯曲を忠実になぞり、台詞もほぼ変更を加えていない。岡田は戯曲の文学性と演劇性の議論に対して「上演が演劇性を持っていればそれでよい/直接性の付与は、演出によって可能」(岡田,2013,pp.136)という見解を示している。しかし、テキスト外の演出という要素を重視する姿勢は、一方で戯曲の評価を困難にする面を持つ。演出によって戯曲を「文学性から離陸させ、演劇的に立ち上げることができる」(岡田,2013,pp.135)のであれば、戯曲というテキスト内での演劇的/文学的という議論がどれだけの説得力を持ちうるのかが問題となるからだ。

4 まとめ

 本論文では『友達』の成立過程を辿り別役の批判を整理することで、『友達』には安部の分解/再構築的な演劇観が反映されていること、別役が『友達』の演劇性と文学性の混合を批判し、その批判が安部の演劇手法に及ぶものであることを考察した。さらに岡田のコメントから戯曲における演劇的/文学的という議論は、演出という要素を重視することによって乗り越えられうるということが示された。

 しかし、本稿では充分に触れられなかった論点も多い。例えば、『友達』の改訂版に対してどう評価するかという問題がある。1974年の『友達』改訂版では登場人物の改変がいくつかあり、細かい台詞の異同もある。この改訂版が、別役の批判に応えたものになっているかどうかについて十分な検討が行えなかった。また、三島由紀夫の激賞が谷崎潤一郎賞に貢献したようであるが、その他の文学者の評価がどのようなものであったのかは気になった。今後の課題としたい。






〈参考文献〉
安部公房(1999)『安部公房全集 003』,新潮社
安部公房(1999)『安部公房全集 020』,新潮社
安部公房(1999)『安部公房全集 025』,新潮社
岡田利規(2013)『遡行 変形していくための演劇論』,河出書房新社
苅部直(2012)『安部公房の都市』,講談社
鳥羽耕史(2007)『運動体・安部公房』,一葉社
別役実(2012)『ことばの創りかた』,論創社
野村萬斎監修(2009)『SPT05 特集 戯曲で何ができるか?』,工作舎
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