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「花より男子」から、物語のセオリーについて考える

熊本大学文学部文学科
伊藤祥太


 私が日本ドラマの「花より男子」を観ていたのは小学校6年生の頃だったと記憶している。中学生になってから、映画版の「花より男子」も観に行った。原作の漫画も二回読み、私はとにかく「花より男子」が好きだった。

 しかし、年月を経て改めて見てみると、いわゆる少女漫画お決まりの展開に終始していると感じた。「お金持ち」だとか「いじめ」という単語は、少女漫画の専売特許と言ってもいいくらいだろう。今回見た第一回目は、勧善懲悪的な傾向があった。まあ、善の側のつくしが行動を取るのに少し時間がかかったということはあるが。それでも、悪のF4と善のつくしという図式が成り立っている。悪の方に、どっちつかずの人(花沢類)がいるのも、物語をつくる上で一つのセオリーとなっているように感じる。そして、この善と悪が次第に混じっていくというのも、お決まりの展開だ。最終的に道明寺とつくしがくっついてしまうのだから、変な話だ。私がつくしだったならば、受けた屈辱を忘れずに末代まで祟ってやるところなのだけど。

 少女漫画やドラマというのは、「お決まり」「ベタ」「セオリー」というものを観察するのに適していると思う。物語にはオリジナリティーが必要というが、ある種の予定調和が必要な場合がある。セオリー通りに進むことによって、少し退屈ではあるにしても読者は安心して読むことができる。島田雅彦氏は『小説作法ABC』の中で、このように予定調和に向かっていく物語を「ロマンス」と分類している。もともと、ロマンスといえば騎士道小説のことを指す。この騎士道物語が、強きをくじいて弱きを助け、姫を助けて永遠の愛を誓うという一定のパターンを踏襲していた。しかし、例えば、同じストーリーの上で遊ぶロールプレイングゲームや、日本における水戸黄門なども同じようなパターンを繰り返すという意味で、ロマンスと呼ぶことができる。ロールプレイングゲームや水戸黄門などが多くの人に受け入れられているのは、同じような筋書きを踏襲し続けているからなのだ。

 『花より男子』、ひいては少女漫画が絶大な人気をもって人々に受けいれられているのは、このようにロマンスの形を取っているからである。そのパターンに飽きて、たまに全く新しい形を生み出すストーリーテーラーも存在するが、その人もパターンがあってこそそこから外れることができるというのは考えなければならない。また、その人の書いたものが、新たなパターンの基準となるかもしれない。ここには、サブカルチャーがメインカルチャーへと変わっていく過程が示されているともいえる。



参考文献
島田雅彦 『小説作法ABC』 2009年 新潮社



(このエッセイは、大学二年生時に課題提出用として執筆したものに若干の修正を加えたものです。)
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