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映画「トランスアメリカ」に見るアメリカ的家族の在り方

熊本大学文学部文学科
伊藤祥太


 「トランスアメリカ」は監督ダンカン・タッカー、主演フェリシティ・シェフマンの2005年に公開されたアメリカ映画である。性同一性障害を抱えるブリーの元にニューヨークから一本の電話があったことからこの物語は始まる。彼女の息子が拘置所にいて、“父親”に会いたいと言っているらしい。ブリーは彼を迎えに行く。そうして二人の旅が始まり、お互いの秘密を知り、それを一つひとつ受け入れながら親交を深めていく物語である。

 この映画のタイトル「トランスアメリカ」は「トランスジェンダー」にかけてある。そのタイトルからもわかる通りこの映画の主題は性同一性障害なのであるが、バイセクシュアルであるトビーやその他周囲の人の存在もあり、「性とは何か」という問題全体を考えさせる内容になっている。

 さて、性の問題についてはもちろんなのだが、私はこの映画の中での家族の在り方に注目したい。アメリカを含め欧米は個人主義の文化を持ち、日本は集団を大事にする文化を持つとしばしば言われる。家族の在り方についても同じことが言える。例えば、アメリカにおいては中流階級の家庭であれば、乳幼児の頃から部屋を与えて家族それぞれ別々の部屋で過ごす。一方、日本では乳幼児、ひいては小学生くらいまでは親と一緒の部屋で寝るのが普通だ。中根千枝氏は『適応の条件』の中でイギリス式住居と日本式住居の違いについて述べている。ここでイギリス式住居とは、広く欧米の住居を指して言っている。彼女の説明によると、イギリス式住居では一人ひとりが自分だけの場(城)をもっており、家族共通の場と個室をくらべると、後者の方が重要な部分を占めている。一方、日本式住居において家族構成員が別々の部屋にいることは少なく、各部屋の仕切りが弱くて家全体が共通の場を形成している。

 このような欧米と日本の考え方の違いにプラスして、アメリカは自由の国である。周りとの関係を気にするよりも、個人の考え方を重用視する風潮はより強い。なので、私は性同一性障害や性転換にも寛容な考え方を持っているのかと考えていた。しかし、この映画を見るとどうもそんなことはないようである。ブリーの母も父もそして妹も、女性の姿をしたブリーに対して嫌悪感を露わにしている。彼女が性同一障害であることは以前から知られていたことのようであったから、彼女は長年理解を得られなかったということになる。私の思い描いていたアメリカと違うと感じた。アメリカでは家族でも個人と個人は別だという考え方があり、すぐに受け入れられるのではないかと考えていたからだ。ブリーが両親の家を久しぶりに訪問するシーンで、玄関先のブリーに対して母親は“Get in here before the neighbors see you!”と言っている。近所の人に見られたら恥ずかしいという思いがあっての発言だろう。世間体気にするこのような風潮は日本と全く変わらない。もっと堂々とマイノリティを主張できるのがアメリカ社会だと思っていたし、アメリカの家族というのはそういうこともすぐに受け入れるものだと思っていた。

 とすると、家族よりも個人を尊重する考え方は、最近出てきたものではないだろうか。私はそう考えた。『事典現代のアメリカ』の「アメリカン・ファミリー」の項ではアメリカにおける家族の在り方の変遷が説明してある。それによると、1950年代のアメリカは家族主義の時代であった。その年代における代表的ホームドラマ「パパは何でも知っている」や「うちのママは世界一」などに見られるような家族がその時代のアメリカ人の理想家族であって、「家族のために消費することが社会の安定と正当性を証明する手段であると考えられるようになった(p.874)」。

 このような家族の形態は伝統的な日本の家族の形態と大きな違いが見られないように思う。このような時代を生きてきたブリーの母親は息子が大きく変貌してしまったことを受け入れられなかったのではないだろうか。一方で、個人かが進む現代のアメリカを生きてきた妹のシドニーは、最初こそ嫌悪感を示していたものの、母親に比べればすんなりと姉になった兄の存在を受け入れたように感じる。同事典において、「個人主義国であるアメリカにおいて、家族というものは本質的に矛盾を孕んでいる。(p.873)」という指摘もある。1950年代のアメリカン・ファミリーの在り方はアメリカの土壌にそぐわないものであり、現代に至る過程の中で今のような個人主義の形態ができてきたと考えられる。

 しかし、家族というのが逃れ難いものであることもまた事実である。その点は、現代過去欧米日本という区別を超えて同じである。それは若い世代であるトビーがブリーに抱く感情を見ていくことで浮き彫りになる。ブリーにペニスがついているのを発見した後のトビーがブリーに対して性交渉を迫るシーンがある。彼は男娼をしつつも少女とキスをしているシーンもあるので、彼はバイセクシュアルだと考えられる。であるからして、彼がブリーを男と知りつつ性交渉を迫るところに特に疑問を挟む必要はないだろう。ブリーは、性交渉を断る理由として自分がトビーの父親であることを明かす。これまで信頼関係を築いていたにも関わらず、彼はすぐにブリーから離れてしまった。ラストシーンで二人はまた親交を深めることになるが、何故トビーはこれほどまでに心的距離を離したがったのか。“家族であること”、これは本当に重要ない意味を持つということの現れだ。

 「トランスアメリカ」を観て感じたアメリカの家族の在り方について考察してきた。確かに、日本とアメリカで家族の在り方に違いはある。しかし、日本との違いや年代による違いこそあれ、アメリカにおいても家族というものが個人に与える影響というのは小さいものではないと感じた。


※参考文献
中根千枝 『適応の条件』1972年 講談社
小田隆裕・他編 『事典現代のアメリカ』2004年 大修館書店
(このレポートは、大学一年生時の講義で提出課題用に書いたものに若干の修正を加えたものです)
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