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文学の壁

日本大学芸術学部文学科
紀谷 実伽留


 「文学の壁」だなんて、大層なテーマを掲げてしまったものだ。私はそんな難しいことを語ることのできる身分ではない。文学なんてものを、かじっているというのもおこがましいくらいだ。だが、真剣に文学の研究に励んでいない私だからこそ、言えることもある。それを、少しだけ聞いていただきたい。

 まず、文学と言われて思い浮かべるものはなんだろう。ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ、夏目漱石、森鴎外、三島由紀夫……名だたる文豪達の名が、ふと現れては消える。おそらく、大多数の人がいわゆる「純文学」の作品、作家を挙げるはずだ。それは何も間違ってはいないし、否定もしない。

 しかし歴史に名を残した文豪達には申し訳ないが、一般的な見解として、「文学」にはどうしても堅苦しいイメージがまとわりついてしまう。なにせ、それらの作品は学問の一環としてとらえられているからだ。多くの人は、勉強なんてものはゴキブリの次くらいに嫌いなものだろう。私だって嫌いだ。

 また、昨今のスマートフォンなどの普及により、若者達の読書の時間は、悉く駆逐されていっている。それらの要因が重なり、絡み、若者と文学の間には高い「文学の壁」がそびえたってしまっているというのが現状だろう。

 私も仮にも文学を学んでいる身ながら、文学の研究には熱心ではない。なぜなら勉強という行為に、いや、もはや勉強という言葉にさえ拒否感を抱いてしまうからだ。

 しかし、全く読んでいないわけではない。むしろ、本を読むことは大好きだ。勉強嫌いの私がなぜ、文学作品を読むことができるのかと、この文章を書くにあたり、少しばかり考えてみた。

 そもそも、私の所属している学部は芸術系であり、普通の文学部とは、視点が少々異なる。学問としてよりは、芸術作品として、文学に取り組んでいる。(もちろん、勉強もしてはいるが……)

 そう、私にとってその視点の違いこそが、「文学の壁」を超えるための一つの方法だった。

 文学という言葉を調べてみよう。学問という他に。芸術という定義が出てくるはずだ。芸術とは、大雑把に言ってしまえば、娯楽に近い。芸術評論というものもあるので、断言すべきではないのだが、娯楽なのだから、あまりしゃちほこばらなくても良いのだ。気楽にいこう。さあ、肩の力を抜いて、『罪と罰』でも読んでみようか。

 と、言ってもいきなりは無理な話だ。慣れていない人が、肩の力を抜いてそんなもん読んだら、肩からもげてしまうだろう。未だに私も少々きつい。何を楽しむにも、まずは順序というものがある。ここで、私の場合はどのように文学にアプローチしていったかという話をしようと思う。

 初めは、芥川竜之介の『羅生門』だった。国語の授業だ。当時の先生の力も大きいのだが、素直におもしろいと感じた。たかが紙に印刷された明朝体の連なりが、様々なことを私達に訴えかけてくる。寝ぼけ眼の私には、それが衝撃だった。もともと音楽をしていたので、そこに音楽の解釈をするときのような芸術性を見いだしたのかもしれない。と、まあ、これだけ聞けばまっとうに文学と向き合ったように思えるが、問題はその次に読んだものだ。『羅生門』で、文学に興味を持った私はまず、野村美月さんの『文学少女』という作品を読んだ。知っている方は知っていると思うが、これはいわば「ライトノベル」に分類されるものだ。なんでえと思われても仕方ないかもしれないが、これが意外と、「文学の壁」を和らげてくれた。簡単に言ってしまえば、「まんが日本の歴史」みたいなものなのだ。

 「歴史の勉強がしたいなあ。よし、この分厚い文献を紐解こう」

 こういった場合、かなりの確率で断念する。経験者は語る。まず無理だ。下積みの土台が何も無い所に、次々と知識を重ねていったって、すぐに崩壊してしまうに決まっているのだ。「まんが日本の歴史」みたいな入門用の本で、まずは基礎をおさえていけばモチベーションも上昇するし、その後、すんなりと知識をインプットしていける状態までもっていける。
『文学少女』を読んだ私にも、この効果があった。文学作品を手に取りたいという欲求、モチベーション。文学作品の基本情報。この二つが自然と私の中に入ってきた。ライトノベルとあなどるなかれ、だ。最初にライトノベルという比較的読みやすい媒体に接触することによって、準備運動をして、「あれ、文学って意外と、かたっくるしくないんじゃないかな」と思い込んだ。最近では、文学作品を漫画化しているものもあるので、そちらを読むのもいい案である。

 こうして「文学の壁」をどんどん低くしていけばいいのだが、ある程度まで準備ができたら、一気に壁を低くする魔法の言葉がある。学問から芸術へ一気に視点を変える、魔法の言葉。人によっては邪道と言うかもしれないが、私は声を大にして言いたい。

「解釈は無限大」

 どうだろうか。これを逃げととらえるかどうかはあなた次第だが、これほどまでに壁を崩してくれる高速パンチは無いのではないか。確かに、作者は色々考えて作品を作り上げたのだろう。だが、読むのはあくまで私達なのだ。勝手に解釈したって、いいじゃないか。学校のテストなどでは少し問題が生じるが、個人で読む分には何の問題も無い。テストじゃなければ、答え合わせで点数がつくこともないのだから。

 作者は何を思い文章を綴ったのか、ということも、とても大切だ。だが、まずは、文章を読み、私は何を思ったか。そこから初めてみるのがいいのではないだろうか。一つの答えを追い求める学問ではなく、自分の中の答えを探す芸術。その視点の切り替えだけで、「文学の壁」はあなたのために、扉を用意してくれるはずだ。

 電車でスマホばかりいじっているそこのあなた。充電節約のためにも、ここは少し、本を開いて気軽に芸術活動してみませんか。
 
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