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熊本大学社会文化科学研究科文化学専攻
高校国語教員専門職コース
森迫太士
一・はじめに
武者小路実篤の『友情』は、大正八年十月十六日から同年の十二月十一日まで「大阪毎日新聞」に連載された小説である。この小説は実篤の代表作の一つとして挙げられる「青春小説」であり、もしかするもはや一般に言われているような若い読者に読まれ続けている小説ではなくなってしまったかもしれないが、読めばその本質はいまだ輝きを失わない傑作だと言うことができるだろう。脚本家である野島を主人公として、青春の恋や友情が爽やかに、俗物性に堕することなく
(1)描き出されている。
この『友情』という作品に対する評価は、そのほとんどが今日では「青春を爽やかに美しく描き出した小説」などと肯定的なものである。作品への論考にしろ文学史にしろ、『友情』に関して内容を批判的に分析したものは、探し得た限りではわずかしかなかった。ここには、「青春」というテーマが持つある種の侵してはならない神聖性がうかがえるが、その神聖性はまた『友情』によって、汚されることなく作品中に保たれているのだ、ということも言えるだろう。『友情』が描き出した「青春」は、どのようなものなのだろうか。また、そのような「青春」を描き出した『友情』の価値とは何なのだろうか。
以下では、主人公の野島、その親友大宮、そして彼らの恋の対象となる杉子が、作中でどのように描かれているかを分析することで『友情』の持つ性質を明らかにし、その上でそれが文学史上、表現史上どのような価値を持ち得たのかということを考察していきたい。
二・野島の恋
野島は、友人である仲田の妹である杉子に恋をし、その想像の中で、自分の妻としての杉子に思いを馳せて、杉子に気に入られるように心を砕く。彼はその心の中で、杉子を際限なく理想化していく。仲田の家を訪れてピンポンをした時、野島は杉子を「すなおで、親切で、利口で、快活で、不正なことを気がつかない顔をして正しくする術を心得ている」と評し、「何処にこんなに無垢な美しい清い、思いやりのある、愛らしい女がいるか。神は自分にこの女を与えようとしているのだ」と思う。しかし、そうして杉子を自分の妻になるべきだと思う一方で、「しかし考えれば考える程、彼は自分に彼女の夫となる資格があるとは思えなかった」など、自己を反省する面も見られる。
しかしながら、野島が恋をしている杉子は、あくまで彼の中で理想化された杉子でしかないことは明白だろう。野島の視点に寄り添って物語が進んでいく上編において、野島は杉子を賛美はするが、それは杉子が自分に尽す存在であるべきだという前提の上に立っており、現実の杉子を見ているわけではない。上編を通して一貫している野島の杉子に求める条件は、
彼は自分にたよるものを要求していた。自分を信じ、自分を賛美するものを要求していた。そして今や、杉子自身にその役をしてもらいたくなった。杉子は彼のすることを絶対に信じてくれなければならなかった。世界で野島程偉いものはないと杉子に思ってもらいたかった。彼の仕事を理解し、賛美し、彼のうちにある傲慢な血をそのままぶちあけてもたじろがず、かえって一緒によろこべる人間でなければならなかった。
というこの点に現れていると言えよう。濱川勝彦氏も指摘しているように
(2)、これは「相手を自分に引きよせる強引な恋」であり、勝手に「人間ばなれのした女性を築き上げ」る恋なのである。野島の恋にはこのような性質があるため、野島は仲田の「恋は画家で、相手は画布だ」という論に対して「僕は恋は仲田の云うように布の上に画をかくのとは違うと思う。それはあまり相手を見なさすぎる。(中略)しかしもう少しお互の精神が、何処かで働いていると思うね」と大宮に述べた時、結局は自分の言っていることが自分でわからなくなってしまう。野島の恋は仲田の言う「恋は画家で、相手は画布」を実践していることになるので、それを否定することは自分の恋を否定してしまうという矛盾を生むことになってしまうのだ。
このような野島の自己中心的な恋は、下編においてうち打ち砕かれることになる。杉子が大宮に恋をしていること、そしてその恋に大宮が応えたことを知った野島は衝撃を受ける。そして大宮からもらったベートーベンのマスクを石に叩きつけ、失恋の淋しさから何かを生むことを決意する。
野島は、上編では自分で仕立て上げた杉子の像に恋をし、そのような杉子を求めて葛藤する青年として、下編では大宮を慕う現実の杉子自身に幻想を打ち砕かれながらも、それを受け入れて前に進もうとする孤独な青年として、それぞれ描かれている。
この野島という主人公の視点に添って大宮も杉子も描かれている。この二人の存在は、彼の視点から見てどう描かれているのか、という点から見ていくべきだろう。
三・大宮の役割
大宮は、野島より少し年上の、世間に認められ始めた新進作家である。彼は野島の良き理解者として描かれ、野島はいろいろな葛藤をするとまず大宮のところへ行き、意見を求める。仲田と恋についての議論になったその晩も、野島は「大宮には自分の気持が本当にわかってもらえると思」い大宮を訪れる。大宮は野島にとって「自分が何にしても少なくも大宮だけは理解してくれる」存在、すなわち野島が恋に揺れ動く自己を自分につなぎとめておくための協力者としての存在なのである。大宮は野島の恋を支援し、そのために骨を折ってくれる。野島が迷えば賛同して彼を勇気づける、頼もしい存在
しかし、大宮は徐々に野島の恋の協力者としては別の意味を帯びてくる。鎌倉に行って野島と大宮が散歩していた時、聞こえてきた女の歌声を杉子のものだと最初に認めたのは大宮だった。また、武子がトランプをしようと野島と大宮がいる部屋に来た時、杉子は「一寸躊躇」し、「少し赤い顔しているようにも見えた」という。野島はそれを見て「杉子は和解に来たのだ」と思うが、トランプをしている杉子の様子を見ているうちに「杉子は恋をしているのだ。自分に? いやもしかしたら大宮に? もしそうだったとしたら」と思うようになる。そして「大宮を恐れる気だけはのこった」と、もはや大宮が自分の恋の協力者としてだけではなく、脅威として立ちはだかるかもしれないと野島は感じるようになる。
結局、大宮は下編で杉子との恋愛という事実を野島に突きつける。協力者ではない別の存在として大宮は野島の前に現れる。しかしながら、大宮は下編の手紙の終わりに、自分は野島を尊敬し、このような事実を受けて打ち砕かれても偉大な人間として起き上がると信じて、あえて事実をありのままに伝えるのだと言う。野島の恋は大宮によって悲劇的結末を迎えたが、物語そのものが悲劇にならなかったのは、大宮のこうした姿勢によるところが大きいと言えるだろう。大宮があえて非情なまでに事実を提示したことで、野島もそれを受け止めて、自分の受けた傷を力にしようとすることができたのである。
四・杉子のイメージと現実
上編の杉子が、野島によって、野島の理想に強引に引き寄せられているイメージであるということは先に述べた。野島が見ている杉子は、野島によって現実の間隙を理想によって埋められたイメージとしての性格が強い。野島は杉子の言動に対して肯定的な評価を加え、ひとたび杉子が自分に冷淡なように見えれば自分に何か非があったのではないかと考える。早川と仲良くしている杉子を見て「あんな女は豚にでもやっちまえ、僕に愛される価値のない奴だ」と思ったり、「勝手にしろ! 杉子とは絶交だ」と思ったりするが、野島にとってそれは本意ではないことで、直後に「そう思う自分の方が、いやしいのかもしれない」と考えたり、面白くないと感じたりする。杉子は理想的な女でなくてはならず、野島は理想の杉子を対象とした自分の恋を肯定しなければならないが故に、現実の杉子とはかけはなれたものを見なければならなくなり、結果として理想像と現実の間の齟齬に葛藤することになるのだ。
そのような野島の恋の性質を、杉子は的確に見抜いている。下編の杉子の言葉の中に「野島さまは私と云うものをそっちのけにして勝手に私を人間ばなれしたものに築きあげて、そして勝手にそれを賛美していらっしゃるのです」とあることからもわかるように、現実の杉子は野島の理想像としての自分を否定し、それとは乖離したところにある一個の独立した人間として、野島の前に現れるのである。野島の恋は、自分や自分の仕事を賛美する、自分がこの世界の中で脚本家として戦っていく上での支えになる者を求めるものだった。それを否定された時、野島は深い絶望を感じるのである。
五・野島と大宮、杉子の関係の変化
『友情』の主要な登場人物三人を詳しく見てきたが、この三人の関係の変化は野島に対する大宮、杉子の立ち位置の変化であるということができる。宮沢剛氏は野島のコミュニケーションの在り方に注目し、以下のように述べている。
上篇では野島は他者と同化して、あるいは他者を排除してその閉ざされた主観内に安住し、そうすることで自己の確立を懸命に試みた。それはモノローグによる自己の構築であった。それが下篇の小説内小説のなかで大宮と杉子の二人の圧倒的な他者と出会うと挫折する。野島は、その他者との間に新しい関係性を模索し始めるのだが、それは、自己を志向することで構成された他者の言葉を能動的に受け取りつつ、その他者を固有の聞き手として志向することにより自己の言葉を構成してゆくという対話であった。(3)
上編において、大宮と杉子は野島の自己の確立を妨げない存在として描かれていた。大宮は野島の協力者として存在していたし、杉子に関しても、野島の理想の中で肯定的に捉えられていたということで、彼の理想を助長する存在だった。野島一人に対して二人の協賛者がいた、と見ることができる。しかし下編においてはその関係が崩れる。それまで野島の隣にいたはずの大宮と杉子が、事実を伴った存在として彼の正面に現れるのである。宮沢氏の言うように、野島は「自己の存在の内側に安住しつづけるモノローグ的自己と、そのような自己のあり方を支えてくれる役割を担った他者を共に失う」。協賛者を失い、たった一人になってしまった野島は「神よ助け給え」と祈る。現実を突きつけられ幻想を打ち砕かれた野島は、それによって「淋しさから何かを生む」と言って、仕事において大宮と決闘する原動力を得るが、その代償は大きかった。『友情』の読後感にある、爽やかながらも苦い印象は、ここから生まれるのではないだろうか。
六・『友情』の性質と表現史的価値
ここまで、『友情』の主要な登場人物を細かく見てきたつもりであるが、ここからは個々の登場人物の性質を踏まえた上で『友情』の全体像について言及したいと思う。端的に言えば、『友情』全体を包んでいるものは、石丸晶子氏の言葉に集約されるだろう。
ここに描かれた青春は、恋を得た者も失った者も、共に、人生に迷い決断や選択に迷うことを知らぬ人々である。(中略)迷いを知らぬ代りに、彼らは明日を信じて今の苦しみに耐えることを知る人々なのだ。『友情』の感動はここに由来し、武者小路実篤はこの作品において、青春の美しさと感動を、もっとも爽やかに描写しきったといえよう言えよう。
野島の恋は自己中心的なものであったが、杉子を恋するということにおいて野島は迷わなかった。大宮も野島との友情と杉子との恋愛の間で苦悩するが、その苦悩を耐えてそれを乗り越えよう、もはや杉子を親友の恋慕する女としてではなく一人の女として見ようとすることにおいて迷うことはない。そして杉子も、野島を愛せと大宮に言われても「私は死力を尽して運命と戦います」と言って大宮を愛することを憚らず、一個の独立した人間として、女として見てくれるよう大宮に言う。愛を求めて突き進むことに、三者迷いはない。『友情』に描かれた「青春」の神聖性も、この「迷わない」という点で保たれているのである。大津山国夫氏の「青春文学にもいろいろあるが、(中略)情欲や退廃などを峻拒した世界に結晶した青春文学であった」という評価
(4)をはじめ、『友情』に爽やか、清冽、純粋などの評価をする人がいるのも、この「迷いのなさ」に一因があるのだと思われる。
では、表現史を見た時、『友情』にはどのような評価を加えることができるだろうか。
『友情』に限らず、武者小路実篤の作品や、白樺派の作品には、反自然主義の立場としての性格が見られる。自然主義文学運動によって提示された文学の役割は、「〝現実暴露″をスローガンにいっさいの幻想からの覚醒を説」くことであり、「〈無理想〉〈無解決〉の態度でありのままの現実を見つめ、人生の真実を捉える」ことだった。
(5)これは、伝統的な認識と感性の制度を組みかえるという画期的な文学運動だったが、夏目漱石が「拵へものを苦にせらるゝよりも、活きて居るとしか思へぬ人間や、自然としか思へぬ脚色を拵へる方を苦心したら、どうだらう」(「田山花袋君に答ふ」明治四一)
(6)と述べたように、文学における建設的な面を排除したものだったと言える。
このような流れの中で、『友情』の持っていた価値はどのようなものだったのだろうか。
端的に言ってしまえば、それは未来へ向かうダイナミズムを表現したことにあると思われる。もちろん、当時の評価が肯定的なものばかりだったとは言わない。渡辺清氏によれば、武者小路実篤の作品を「『お目出度い』と言つて嘲つてゐた者」や「『世間知らずめ』と嗤つてゐた者」がいたという言う。また、渡辺氏自身も、『彼が三十の時』や『或る男』等の作品を挙げて「武者小路氏は余りに正直に語らうとし過ぎるが為に事実を即き過ぎて、芸術としての或る魅惑を失つてゐる」と評している。
(7)
しかし、そういう一面があることを認めた上でも、『友情』は価値あるものだったと言うことはできるだろう。『友情』において野島が恋をする、相手を求めるということは、自分の仕事を賛美し支えてくれる人間を求めることだった。その恋の在り方は確かに自己中心的だったが、物語の序盤で「平和」や「世界」、「人類」という言葉が何度か出てくるように、彼の仕事は人類社会へ何らかの貢献をすることとつながっていたし、彼はそのための力を望み、その力を与えるのが杉子だったのだ。そして現実の前に彼の恋が打ち破られることになっても、その痛みを力にすることで、大宮と仕事の上で決闘しよう、自分の仕事を高めようとする。大宮に関しても、恋の意味するところは野島とそれほど変わらない。彼もまた仕事によって人類に尽そうとしていた。そしてその力を与えるのもまた杉子だった。杉子が大宮に恋したことにも、同じような性質があったと言える。杉子の恋が明確に書かれるのは下編の手紙の中だが、その中で杉子は「私はあなたのわきにいて、あなたを通じて世界の為に働きたい、人生の為に働きたい」と言う。読者には、彼らが相手を恋い慕い、求めることが、そのまま人類へ貢献する力を得ることという形で提示されることになるのである。すなわち、自分のより良き未来を志向することが、人類のより良き未来を志向することに極めて近いのである。
このような自己―人類の関係は自然主義文学には見られないものだった。亀井勝一郎氏は「恋愛によってより強く生きるものがあるように、失恋によってより強く成るものもある。むしろ逆境こそ生命の光栄だという高い誇りが『友情』の示す最後の言葉だ」と述べている。
(8)また、小田切進氏は「『友情』は白樺派の理想主義的な恋愛と友情を描いた代表作であるばかりでなく、たえず人間としての成長・発展を念願としている武者小路の一貫した志向を最もよく示した作品だった」と言う。
(9)自然主義文学は、幻想からの覚醒を説いて現実を暴露し、それを克明に描写することにとどまった。しかし『友情』では、目の前の現実に苦脳苦悩しながらも未来へ進もうとすることを忘れない人物たちが描かれていた。人間は未来へ生きる存在である。恋することに迷いのない「青春」を表現し、自己と人類をつないで現実に立ち向かう人間の可能性を描いた『友情』は、自然主義文学やその他の文学とは別の、固有の価値を有するものであると言えるだろう。
武者小路実篤は『友情』の自序で「失恋する者も万歳、結婚する者も万歳と云っておこう」と述べている。そのような、恋に対する様々な可能性を肯定する懐の深さも、『友情』の魅力として挙げることができるかもしれない。
※『友情』本文は、武者小路実篤『友情』(新潮社 平成十八年 百三十刷版)を引用した。
(1)
石丸晶子氏は「『友情』〈武者小路実篤〉――明日を信じる爽やかさ――」(『国文学 解釈と鑑賞』 平成六・一)で、「迷いなき男女を描いたにもかかわらず、『友情』の青春が俗物性から守られているのは、(中略)彼と大宮の人生観や生き方の基軸に、強い求道性と理想主義が脈打っているからである。」と述べている。
(2) 濱川勝彦「『友情』・武者小路実篤――地としての友情、図としての愛――」(『国文學 解釈と教材の研究』 平成三・一)
(3) 宮沢剛「『友情』」(『国文学 解釈と鑑賞』 平成十一・二)
(4) 大津山国夫『武者小路実篤研究―実篤と新しき村―』 明治書院 平成九年
(5) 畑有三・山田有策編『日本文芸史――表現の流れ 第五巻・近代Ⅰ』 河出書房新社 一九九〇年
(6) 久保田淳編『日本文学史』(教文堂 一九九七年)より抜粋した。
(7) 渡辺清「武者小路実篤研究」(日本文学研究資料刊行会編『日本文学研究資料叢書 白樺派文学』 有精堂出版 昭和四九年)
(8) 亀井勝一郎「解説」(武者小路実篤『友情』 新潮社 平成十八年 百三十刷版)
(9) 小田切進「武者小路実篤の文学 『お目出たき人』と『友情』『愛と死』」(武者小路実篤『友情』 新潮社 平成十八年 百三十刷版)
※このレポートは学部生であった二〇一一年三月に、授業の期末レポートとして提出したものです。