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斑 晶
小説に限ったことではないが、物語を評するときに用いられる言葉に「内容が深い(浅い)」や「中身がある(ない)」というものがある。前者と後者はほぼ同じような意味で用いられているだろう。ここで言う「内容」や「中身」とは一体何なのか。そのことについて、本稿では考えていきたいと思う。
まずは「内容が深い(浅い)」に関して考えてみる。「中身」については後半に書く。
さて 「内容」とは何だろうか。おそらく、設定や人物描写、物語の流れ等を指すことが多いのではないだろうか。
設定というのは、登場人物達の人物像や周囲の環境、境遇等を指す。例えば、私小説や恋愛小説などでは現実世界の一般的な環境にいる人物を扱うことが多い。このときはその人物達の過去や性格、人間関係を設定として示しておけばよい。スポーツや専門職を扱うものでは、これに加えて独自の環境を描くことが必要となる。好例として、医学界という専門職ならではの世界観を設定として取り込んだ『白い巨塔』が挙げられるだろう。さらに、ハイ・ファンタジーやSFとなると、世界や社会の構造まで描写しなければならない。その点で言うならば、古代中国を参考にしつつ異世界を丁寧に描いた『十二国記』や人々が念動力を手にしてから千年後の世界を現在の世界から地続きで書ききった『新世界より』は模範例に含まれるだろう。
人物描写というのは、登場人物によるその場面における思いや考えそのものや、これらを反映させた言動や表情のことである。これが最低限描写されることにより、下記する心情の変化が示されるのである。
物語の流れというのは、登場人物達の心情や状況の変化の連続のことである。片方のみで流れを作るものもあるにはある。例えば、ミステリ小説は事件が起こりそれを推理によって解決すれば良いので心情の変化というのは本質的には大きな問題ではない。しかし、大抵の場合は登場人物と周囲の環境が互いに影響を及ぼし合い、変化の連続を生み出すのである。
これらの他にも「内容」になり得るものはあるだろう。「内容」とは物語に直接関与する事柄全てなのである。そのため、文章作法や文体などの物語に直接関与しない技術的な評価基準もここでは考慮に含めない。映像媒体になると、役者の演技や演出がこれにあたる。さらに、制作に関わる人物の知名度や役者の容姿といったような、その作品とは独立して評される要素も含まれはしない。
それでは「深い」とはどういうことだろう。『大辞泉第二版(2012年 小学館)』によれば、「表面から底まで、また入り口から奥までの距離が長い。」とある。とすれば、「内容が深い」とは「内容」というものに対して奥行の存在を暗に示していると考えられる。
ここで今までの論を一度振り返ってみる。「内容」とは設定、人物描写、物語の流れ等としているわけだが、このときの奥行とは何なのだろうか。
具体的に考えてみる。
よく「内容が深い」とされる作品には、登場人物達の人間関係が複雑なものや描写が緻密なもの、流れが現実的なもの等が挙げられる。そしてこれらの逆だと「内容が浅い、薄っぺら」と評されるのである。
AがBと学校で楽しくおしゃべりをした、では「内容が浅い」のである。これに、その日のおしゃべりをきっかけにAはBに対して恋愛感情を持った、という心情の変化を加えると「内容が深く」なる。さらに、Aの友人のCもBに対して恋愛感情を持っているらしいという設定を加えると、さらに「内容は深く」なるのである。そこにAのCに対する後ろめたさが描写されていればなおさらである。
これに共感できたならば、想像してみてほしい。
「内容」の構成要素、つまり設定や人物描写、変化等の一つ一つを「面」とする。これらの「面」を同一方向に重ねていく。すると、「内容」は「面」の数に応じて重ねていく方向に延びていく。この伸び幅こそが、先述した奥行である。
つまり、「内容の深さ」とはこの面の重なりの総体の厚さ、「面」の「多重性」と同等なのである。
しかし設定の複雑さで圧倒的に上回る作品が、設定の上では比較的一般的なものと比べて同等またはそれ以下に扱われることが少なくない。作者の実体験を元にした『伊豆の踊子』は文学作品で、空想の世界を作り込んだ『ハリー・ポッター』は児童書なのである。
つまり、一口に「内容の多重性」と言っても、人物描写の方に重きを置かれる傾向があることを否めない。
内容の深さとは、その要素の多重性(ただし、人物描写を重視)と言える。
さて、では「中身」とは何だろうか。
これは基本的に「内容」と変わらない。しかし、形容詞として「ある(ない)」をつけるのに「内容」では矛盾が生じるから、「中身」という言葉が使われているだけであろう。というのは、何らかの物語が存在する以上、そこには少なくとも設定が存在せざるを得ないからである。
しかし、評する側としては極端で二元論的な言葉を使いたくなる場面が出てくるだろう。「ある」や「ない」のような。
そこで、先ほどの「面」のイメージを一定方向ではなく、立体を構成するように並べてみる。すると、曲面を使わないものとすれば、立体を構成するには「面」の数は少なくとも三つでは足りない。また、同じ立体を構成した場合においても、その立体の中に他の「面」が敷き詰められている場合とそうでない場合がある。
このとき、「中身」という言葉を用いることによって初めて、「ある(ない)」という単語が使えるわけである。
結論としては、以上のように「内容の深さ」や「中身のあるなし」を多重性や多面性としたいわけだが、いくらか「私の中の常識」に頼ったところも大きいので、これが絶対とは言えない。また、何らかの新しい仮説を立てたわけでもない。
しかしながら、自分の中の文学に対する姿勢を見直す上で、自明と思われることについて考えてみるのも悪くはないと思う。