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『ドグラ・マグラ』に描かれるモノ 2

比較文学専攻
マジマ


【はじめに】
 『ドグラ・マグラ』。文学を多少嗜む人間ならば、一度は聞いたことのある名前ではないだろうか。夢野久作渾身の大傑作として日本探偵小説史上に燦然と輝くこの作品は、単なるエンターテインメントとしての「探偵小説」の枠に収まらないほどの幻想性をもち、未だに多くの謎に包まれている作品でもある。また、それゆえに作品解釈の幅は無限にあると言ってもよい。今回私は、当課題研究において『ドグラ・マグラ』という作品を、単なるエンターテインメント小説ではない「思想書」として解釈を試み、そしてそこから、夢野がこの作品に描き出そうとしたモノの正体を導き出し、『ドグラ・マグラ』の魅力を探求してみたいと思う。


【作者紹介】
 夢野久作(ゆめの きゅうさく) 1889(明治22)年、福岡市小姓町(現在の中央区大名)に、杉山茂丸と高橋ホトリの長男として生まれる。幼名は直樹。1911(明治44)年、22歳で慶応大学文科に入学するも、翌々年、父の命により学校を退学、家業である農家を継ぐ。しかし、久作自身は農作業が不得手であったため、2年で農業をやめて東京本郷の喜福寺において禅僧となり出家。この時に、名前を泰道(やすみち)と改める。その後、九州日報の記者となり、『白髪小僧』などの童話や『蝋人形』などの連載小説を紙面において執筆する。そして1926(大正15)年、〈新青年〉の創作探偵小説募集において『あやかしの鼓(つつみ)』で二等を獲得。夢野久作として作家デビューを果たす。公開された夢野の日記によればこの月、すでに『ドグラ・マグラ』の初稿である『狂人の解放治療』の執筆を開始している。その後、『氷の涯』(1933年)、『瓶詰の地獄』(同年)などの代表作の刊行の後に、1935(昭和10)年、『ドグラ・マグラ』を発表する。その翌年の1936(昭和11)年、47歳で死去。その他の代表作として、『少女地獄』(1936年 夢野の死後刊行)という短編集がある。


【書誌】
『日本探偵小説全集4 夢野久作集』夢野久作著 創元推理文庫 1984年
『知っ得 幻想文学の手帖』學燈社編集部 學燈社 2007年
『ドグラ・マグラ(上)』夢野久作著 角川文庫 1976年
『ドグラ・マグラ(下)』夢野久作著 角川文庫 1976年
『ドグラ・マグラの夢 覚醒する夢野久作』狩々博士著 三一書房 1971年
『鶴見俊輔書評集成』鶴見俊輔 つるみ書房 2007年


第一章『ドグラ・マグラ』について

○『ドグラ・マグラ』成立の過程
 前述した通り、『ドグラ・マグラ』の初稿は作家夢野久作としてデビューした当時に『狂人の解放治療』というタイトルですでに執筆が開始されている。ここから『ドグラ・マグラ』の刊行までには実に十年の歳月を要しており、相当な難産であったことが容易に推測される。また、作品の中には小難しく突飛な学説が多く登場するのであるが、夢野は百科事典を用いて当時の最先端科学を独学で学びながら執筆にあたったとされている(角川文庫 解説より)。この部分は詳しく後述する。

 また、『ドグラ・マグラ』はローベルト・ヴィーネ監督によるドイツ無声映画『カリガリ博士』(1920年 日本公開はその翌年)に強い影響を受けていると言われる。物語の世界観の酷似や、細かな事柄の一致がそこに見られる他、夢野自身が自分の日記に『カリガリ博士』を鑑賞したと記してあったこと(夢野久作「ドグラ・マグラ」 千年書房・九州の100冊西日本新聞 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/2006/03/post_7.shtmlより)から推測されるためである。

 さらに、『ドグラ・マグラ』は夢野のデビュー作である『あやかしの鼓』とも、「ある古道具の作用によって殺人が引き起こされる」という点において共通している。これは私の憶測なのであるが、『あやかしの鼓』を加筆、修正しきったものの結果として、『ドグラ・マグラ』が誕生したのかもしれない。


○『ドグラ・マグラ』の文体
 さて、『ドグラ・マグラ』では、主人公「わたし」の目線から情景を描写した一人称形式と、資料をそのまま地の文として配置した書簡体形式とが混在して用いられている。特に書簡体形式は、前述の『瓶詰の地獄』や『少女地獄』中の作品などにも登場する夢野久作独特の手法である。『ドグラ・マグラ』においては、この書簡体形式が文章全体の半分以上の分量を占めている。(資料①) そのため、読書に親しみのない人間にとっては非常に読み辛い文章となっているのであるが、一旦この文体に慣れ親しんでしまえば、主人公「わたし」と同一の目線でもって作品を堪能することができる。そのため、より深く物語の世界に入り込むことが可能になるのである。


○『ドグラ・マグラ』への評価
 この作品は、小栗虫太郎(おぐり むしたろう)『黒死館殺人事件』(1934年)、中井英夫『虚無への供物』(1964年)と並んで日本探偵小説三大奇書に数えられる。「奇書」というのはもちろん「奇妙な書物」ではなく、「優れた書物」という意味である。また、「これを読むものは一度は精神に異常をきたす」とも称されている。これは前述した独特の文体による当時としては常軌を逸した作風、および、それにより物語に没頭し過ぎてしまうがゆえの評価である。

 以上のように現在においては抜群に高い評価を得ている本作品であるが、『ドグラ・マグラ』がこのような評価を受け始めたのは第二次世界大戦後のことであり、発表当時の評価は芳しいものではなかった。(資料②) これは、当時としては内容があまりにも斬新、そして難解であったこと。そして、この作品を「探偵小説」として見たときに、当時の主流であった、江戸川乱歩などのいわゆる「探偵が難事件を名推理で解決する探偵小説」とのギャップがあまりにも大きかったことに起因する。(資料③) 要するに、時代がまだ『ドグラ・マグラ』に追い付いていなかったのである。


第二章『ドグラ・マグラ』に描かれるモノ

○思想書としての『ドグラ・マグラ』
 本論に移りたいと思う。まず私が述べたいのは、夢野は恐らく単なるエンターテインメントとして『ドグラ・マグラ』を執筆したわけではない、ということである。まず、夢野は「探偵小説」というものに対して、「過去の一切の芸術を圧倒し、圧殺するもの、新しい芸術の萌芽でなければならない」と述べている。(資料④) 夢野は「探偵小説」というジャンルを、「単に探偵が事件を解決する過程を楽しむ娯楽」という狭い枠に収まるものであるとは捉えていないのである。また、夢野は『ドグラ・マグラ』を、前述の通り十年の歳月をかけて構想した上で執筆し、「これを書くために生きてきた」(角川文庫背表紙より)とも述べている。つまり、言ってみれば『ドグラ・マグラ』という作品は作家夢野久作の集大成であり、そのような作品が単なるエンターテインメントの枠に収まるものであるとは、私には考えにくいのである。

 それでは、『ドグラ・マグラ』が単なるエンターテインメント小説でないとすれば何なのか。私は、思想書、哲学書の類であるのではないかと考える。作中には、「脳髄とは物を考えるところではない」と述べる「脳髄論」(資料⑤)、「人間は、胎児である時に母の胎内で人間になるまでの生物進化の過程を夢に見ている」と述べる「胎児の夢」(資料⑥)、「現在生きている我々の意識の中にも祖先の記憶が遺伝して受け継がれている」と述べる「心理遺伝」(資料⑦)、といった三つの学説が登場する。前述の通り、夢野は最先端科学を独学で研究しながら『ドグラ・マグラ』を執筆したのであるが、研究を行っているうちに、前述の三つの説を考え付いたのではないだろうか。そしてそれを発表する媒体として無限の芸術の可能性を秘めた(と夢野は考えた)「探偵小説」を利用したのではないだろうか。プラトンの『パイドン』やニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』などと同様に、夢野は自らの考えを、若林や正木といった登場人物の口を通して語らせることで自らの思想を表現したのである。上記の二作品は、現在では立派に思想書と呼称されている。それならば、『ドグラ・マグラ』を思想書と捉えても問題はないだろう。

 以上が、私が『ドグラ・マグラ』を単なるエンターテインメント小説ではなく、思想書であると述べる根拠である。


○「自分とは何か」という問い
 さて、『ドグラ・マグラ』が夢野の思想書であるとして、そこに込められた思想は上記の「脳髄論」および「胎児の夢」、そして「心理遺伝」だけであろうか。私はそうではないと考える。もちろん、この三説も夢野が発表したかった考えには間違いないだろう。しかし、それが『ドグラ・マグラ』の中心を成すもの、および直接の執筆動機ではないということは、夢野本人が明言している。(資料⑧)によれば、『ドグラ・マグラ』は一貫して「自分(という人間)とは何か」ということを描いた作品であるという。

 「自分とは何か」という問いを描いた作品である、ということを念頭に置いて改めて本文に触れてみると、作品中において夢野は、幾度となく我々にその問いを発しているということがわかる。


1. 「脳髄論」、「胎児の夢」、「心理遺伝」の役割
 まず、上記三つの学説。これらは全て「自分と他人との境界」について述べられたものであると言い換えてよい。これら三つの学説が正しいものであるとすれば、我々の意識の中には「別の人間」が存在するということになり、いったい自分の意識のどこまでが「自分自身」で、どこからが「他人」の意識であるか、その境界が曖昧になってしまう。ここで我々は「自分とは何か」という問いと対峙せざるを得ない。このように、「脳髄論」、「胎児の夢」、「心理遺伝」は、夢野の提示したい思想でありながらも、「自分とは何か」という問いへ、読者を導く材料である。これが、上記三説のもつ真の役割ではないだろうか。


2. 主人公「わたし」の設定(資料⑨)
 次に、主人公「わたし」の設定の意義について。通常「自分とは何か」という疑問は、普通の人間ならば脳裏に浮かんでも、たちどころに消え去ってしまう些細なものであろう。しかし『ドグラ・マグラ』の主人公、「わたし」のように一切の記憶を喪失した人間であれば、「自分とは何か」という問いは深刻な問題として迫ってくる。さらには、もしかしたら自分が重大事件の真犯人「呉一郎」であるかもしれない。このような状況に置かれた「わたし」にとって「自分とは何か」という問いは、もはや「考えなくてはならない」必須事項となってしまう。つまり夢野は主人公を記憶喪失に設定、さらには「呉一郎」というエッセンスを加えることで、『ドグラ・マグラ』という作品の中において「自分とは何か」という問題を考えてもおかしくない、むしろ考えなければならない状況を意図的に作り上げたのである。

 以上のように、一見荒唐無稽で、夢野の思い付きをそのまま叩き込んだようにも思える作品設定も、実はすべて「自分とは何か」という問いを指し示しており、その問題へと読者を導くための道しるべとして機能していると考えることができるのである。とくに「脳髄論」をはじめとした三学説は物語の根幹を成すものとして、最後の最後までその存在を消すことはない。このことから私は、夢野が「幾度となく我々にその問いを発している」と考えるのである。
 

【結論】
 『ドグラ・マグラ』に描かれるモノ、その正体は「自分とは何か」という問いである。人間が記憶や意識、その他自分の環境を取り巻くもの全てを一切合財取っ払ってしまったときに、人間はどのように「自分」というものを確立すればよいのか。このことを夢野久作は『ドグラ・マグラ』を通して幾度となく問いかけてくる。

 「自分とは何か」。この悪夢のような問いに対し、作品中の主人公「わたし」は最終的に自己を確立する術を見つけることができずに奈落へ落ちてしまう。しかしその問いは、作品内だけで完結するものではなく、『ドグラ・マグラ』を読破したのちも読者の脳内に残留し続け、場合によっては「精神に異常をきたしてしまう」かもしれない。この、物語が現実の我々にも浸透してくる感覚。これこそが、『ドグラ・マグラ』の恐ろしさであり、魅力であり、日本三大奇書とまで称されて称賛される所以なのではないだろうか。



【参考資料】
『日本探偵小説全集4 夢野久作集』夢野久作著 創元推理文庫 1984年
『知っ得 幻想文学の手帖』學燈社編集部 學燈社 2007年
『ドグラ・マグラ(上)』夢野久作著 角川文庫 1976年
『ドグラ・マグラ(下)』夢野久作著 角川文庫 1976年
『ドグラ・マグラの夢 覚醒する夢野久作』狩々博士著 三一書房 1971年
『鶴見俊輔書評集成』鶴見俊輔 つるみ書房 2007年


【参考WEB】
とある元映写技師の日常 『ドグラ・マグラ』私的覚書
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/1552/dogura-magura.html
松岡正剛の千夜千冊『ドグラ・マグラ』夢野久作
http://1000ya.isis.ne.jp/0400.html
夢野久作「ドグラ・マグラ」 / 千年書房・九州の100冊 / 西日本新聞
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/2006/03/post_7.shtml
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