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『火垂るの墓』における「食」の果たす役割

比較文学専攻
マジマ


・はじめに
 スタジオジブリの手掛けるアニメーション作品において、「食」という存在は非常に重要であると思われる。事実、多くのジブリ作品において、「食」が登場するシーンは印象的に描かれている。今回私は、そのようなスタジオジブリ作品の中でもとくに「食」の印象が強く残ると思われる『火垂るの墓』という作品を「食」という観点から新たに見つめ直すことにより、その役割、さらには作品中におけるその必然性を浮き彫りにしたいと思う。


・作品紹介
 『火垂るの墓』は、野坂昭如の書いた小説を原案とするアニメーション作品である。新潮社のスポンサーで1988年(昭和63年)4月16日から東宝系で公開された。制作はスタジオジブリ。監督・脚本は高畑勲。戦災孤児の姿を描く。


・「食」の具体例
1. 親戚の叔母より与えられる料理
 物語序盤にて、主人公・清太とその妹・節子は母を失い、親戚の叔母宅で預かってもらうことになる。最初は当たり前のように食事を提供してもらい、すいとんを食べさせてもらうのだが、清太の非生産的態度に業を煮やした叔母は、次第に清太に対して辛く当たるようになる。食料は常に不足しているため、叔母は清太の母が持っていた上等の着物を、当時貴重であった白米と換えてもらうよう示唆し、清太たちはその通りにする。しかしその白米は叔母たちに食いつぶされてゆく。清太たちが持ってきた梅干しもいつの間にか叔母さんたちに食いつぶされている。以上のことをきっかけとして清太たちは自炊を始めることになる。

2. 親戚の叔母さん宅での自炊
 手始めに七輪を購入する。自炊を約束したおかげで、残った白米は全て自分たちのものとなる。その他配給のお米も注ぎ足し、お粥をつくって生活。叔母宅に来たばかりのころに梅干しと共に掘り出された保存食であるドロップが、ここにきて尽きる。最後は缶に水を注ぎ、残りかすを溶かして節子にジュースとして与える。叔母とのそりがあまりに合わないため、清太たちは家出することにする。

3. 野宿での正当な自炊
 近所に見つけた横穴を自分たちの家として、そこで生活することを決める。当初、二人で協力して薪を集め、清太が火を起こす傍らで節子が野菜類を切り、雑炊を作る。その他にもカエルの天日干しを作るなど、工夫を凝らして食事をつくる。

4. 野宿での違法な自炊
 農家においても食料が不足し、野菜を売ってくれるところがなくなったため、清太は盗みを働くようになる。近所の畑で勝手にトマトを盗りその場で食したり、まだ育ちきっていない小さな芋まで盗んだりといった具合で、そのうち農家の人に気付かれ、警察に通報される。しかし節子が栄養失調に陥っていたため、やめるわけにもいかず、そのままの生活を続ける。空襲で人々が防空壕に避難している間に、他人の家に上がり込み、居間に置いてあった白米を食べることもあった。物語終盤、死にかけの節子は、清太に食べたいものを聞かれたとき、天麩羅やお造りといった羅列の中にドロップを挙げる。貯金を下ろしたお金で清太はかしわや卵など滋養のあるものを買い与えるが、衰弱しきっていた節子はそれを食することなく、死んでしまう。


・「食」の役割考察
 『火垂るの墓』においては、上記のように食事シーンのみを抜き出しても話の大筋がわかるほど食事シーンが多く、「食」を主軸に据えて物語が展開していると言っても過言ではない。主人公を取り巻く「食」の変遷がそのまま物語の基盤となっているのである。

 『火垂るの墓』における「食」には、この、「物語の支柱」としての役割があり、それは、観る者に切実さ、リアリティを与える効果を含有していると考える。戦時下の様々な状況は今を生きる我々にとってあまり馴染みのないものであり、どうしても想像の難しい部分がある。しかし、すいとんよりも白米のご飯を欲する気持ちや、空腹でも何も食べることのできない辛さなどは容易に想像することができる。このように、「食」という普遍的な要素を作品に多く加えることにより、我々は主人公たちの苦しみや感情をより近くに感じることができるのである。このように、作品を鑑賞する人間にとってあまり馴染みのないテーマでも、ある程度そこに感情を移入させることができる。これがこの『火垂るの墓』という作品における「食」の果たす大きな役割なのではないだろうか。


・「ドロップ」の役割
「食」の役割としてもう一つ、作品中において最も重要な位置を占める「食」である、「ドロップ」の役割について考察してみたいと思う。

 作品中においてドロップと最も密接に関係する人物は、節子である。節子にとってドロップはどのような存在であろうか。作品中、ドロップは非常に印象的に描かれている。まずドロップは家の庭から掘り出され、兄の清太によって節子に与えられる。そしてドロップを与えられた節子が喜んで「ドロップドロップ」と飛び跳ねたり、上記の通り、食べるものがないときに何が食べたいかを節子に尋ねたときには「ドロップ」と答えたりする、など、ドロップと節子の関わりは作品全体を通して多く描写される。

 このドロップは母が残してくれた最後の甘味であり、兄が(叔母には渡さずに)自分に与えてくれたものである。このことから私はこのドロップは節子に与えられた愛情の象徴であると考えられる。日に日に態度が冷たくなっていく叔母や、いつ起こるか分からない空襲など、節子にとって過酷な生活のなかで、ドロップは節子の心の慰め、唯一の楽しみであったのであろう。
作品中盤、ドロップがなくなって、缶に残った砂糖を水に溶かして飲んでしまったことによって、節子の命が尽きることが暗示されているように思われる。また、「ドロップ食べたい」と言うことは、ドロップを食べることができれば、再び元気を取り戻すことができるという節子の願望ではなかっただろうか。

 つまり、ドロップの役割とは、節子の心情、あるいは節子というキャラクターそのものを描いたものであると言えるのではないだろうか。ドロップの役割を考えることによって、同時に節子の心情をも考えることにもなるのである。


・「食」を扱うことの必然性
 ところで、清太と節子は栄養失調により亡くなっている。戦争の時代を描いた物語において、これはどのような意味を持つのであろうか。

 清太と節子の母親は、戦火による大やけどを負ったことが原因で亡くなっている。栄養失調で亡くなるのとは対照的である。単に戦争の悲惨さを表すためならば、戦火によって亡くなるのが常套であるのに、栄養失調によって死なせたのはなぜだろうか。

 私はこの作品が世に出された時代にその一因があると考える。ジブリ版アニメーション映画『火垂るの墓』が公開されたのは1988年である。この時期はちょうどバブル経済の真っただ中にあたる。当時の人々の食生活が飽食の傾向を帯びていたことは想像に難くない。

 食べることが難しかった戦時中の兄妹を描くことによって、「食」というものがいかにありがたいものであるのかを高畑氏は伝えようとしたのかもしれない。作品中、兄妹が栄養失調で亡くなることによって「食」の大切さはより際立つ。それによって、「食」が大切なものであるというメッセージをより強烈に伝えることができるのである。





・参考資料
『火垂るの墓 完全保存版』スタジオジブリ制作 高畑勲監督 2008年
『アメリカひじき・火垂るの墓』野坂昭如著 新潮社 1968年
 
・参考WEB資料
日経Bizアカデミー 「第9回 なぜバブルは生まれ、そしてはじけたのか?」http://bizacademy.nikkei.co.jp/seminar/marketing/b-keizai/article.aspx?id=MMACzm000020062012&page=1
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