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映画における表現規制について

比較文学専攻
マジマ


・はじめに
 今回当レポートにおいて私が「比較文学演習の授業を通して学んだこと」として記したいもの、それは授業中に見た映画の内容、とくにその表現技法についてである。平成の世に生まれ、戦後の名作映画と呼ばれる作品群はおろか、モノクロ映画すらも鑑賞した経験のなかった私にとって、授業中にとりあげられた作品の数々は非常に強く印象に残るものであった。とくに、その中で用いられる様々な表現技法は、昨今の映画にはなかなか見られないものも多くあった。今回私はその衝撃を受けた表現技法を、とくに「表現規制」の観点から注目して述べていきたいと思う。


・「差別用語」、「放送禁止用語」
 現在の、小説、漫画、アニメーション、映画などの各メディア媒体には、「差別用語」あるいは「放送禁止用語」と銘打たれた「言葉」が存在する。「キチガイ」、「めくら」、「おし」などの言葉である。これらの言葉は、それが作品内に存在するという理由だけで、その作品を放送禁止、放映禁止、さらにはお蔵入りに押やってしまうほどの力を、少なくとも今現在のメディア界の中では持っている。私たちの世代からしてみれば、それが至極当たり前のことであり、そういうものであるという認識を持って、各メディア作品を鑑賞してきた。そんな私にとって、戦後映画の台詞が放つ「言葉」の衝撃は非常に大きいものであった。「差別用語」、「放送禁止用語」など、まるで「普通」の言葉であるかのように、非常に軽く、作品内の演者の台詞から発せられるのである。とくに「キチガイ」という言葉に関しては、もはや何度聞いたか勘定のしようがないほどよく使われていた印象がある。

 これは、昨今の映画作品では到底考えられない事態であり、私は非常に強い衝撃を受けた。それと同時に、どうして現在は「差別用語」が規制されているのだろうという考えに至った。あまりにも軽くそれらの用語が発せられているからである。「差別用語を発することによって、被差別者への差別意識が高まるからだ」等の返答は容易に予測できる。しかし、本当にそうなのだろうか。少なくとも私は、むしろ「差別用語」というものが存在するからこそ、被差別者の方々が禁忌の向こうに押やられてしまっているように思えてならない。戦後映画で軽く発せられる「キチガイ」という言葉を聞いていると、「キチガイ」という存在を非常に身近なものとして感じられる自分がいるのである。むしろ、「キチガイ」という言葉を必死にひた隠しにしようとすればするほど、それはどんどん触れてはいけない存在となっていってしまい、逆に「差別意識」が芽生えてしまうのではないだろうか。戦後映画の「差別用語」が頻繁に使われている場面を見ると、私はそう思えてならない。

 さらに、こと映画表現という場に限って述べるのであるならば、「差別用語」および「放送禁止用語」という存在は単純に、扱える言葉の幅を狭くしている。つまり表現の幅を狭くしてしまっていると言えるのではないだろうか。表現規制に染まった昨今の映画に名作が存在してはいない、等ということを言うつまりは毛頭ないが、戦後の映画と比べて、言語表現の幅が非常に狭い中で作成されたものであるということは否定のできない事実である。とすれば、昨今の映画において戦後映画以上のものが存在できる可能性は限りなく少ないのである。

 以上のことを考えると、被差別者の方々に対して、禁忌感という新たな差別意識を植え付けてしまうだけでなく、単純にメディア表現の幅を限りなく狭めてしまう「差別用語」、「放送禁止用語」という存在に、私は疑問を抱かざるを得ないのである。


・「精神病院」という禁忌
 もう一つ、作品中に頻発される「差別用語」と同等程度に、私にとって衝撃的だった場面がある。それは映画版「裸の大将」に登場する「精神病院」のシーンである。そもそもこの映画はあまりにも原作を忠実に再現した主人公「山下清」のキャラクターからしても非常に危ないのであるが、この精神病院内が描かれるシーンはそれにも増してあまりにも衝撃的であった。上記で散々述べた通り、ただ台詞として発言されるだけでも規制の対象となってしまう「キチガイ」がこのシーンには直接映像として描写されているのである。それも、あまりにも現実的に。しかし、私はこのシーンに大変な感銘を受けた。映像として「キチガイ」を描写した、という事実もたしかに素晴らしいのであるが、当然それだけではない。「裸の大将」という作品における主人公「山下清」のキャラクター性、そしてその舞台が戦後の日本であるという実情を鑑みたときに、どうしても「精神病院」はそこにいなくてはならない存在なのである。昨今のドラマ版「裸の大将」ではもちろんそんな描写などあるはずもなく、そのことは非常に不自然な図として我々の目に写ってしまう。この辺りの感覚をよく理解して、「精神病院」の描写を作品内に入れ込んだ脚本家の姿勢は、私は非常に素晴らしいものであると考える。

 さて、前述した「差別用語」、「放送禁止用語」も現在においてはかなり危険な表現なのであるが、この「精神病院」はそれにも増して規制の危険性の高い存在である。「精神病院」という言葉自体はもちろん、「精神病院」を作品内に映像として描こうものなら、現在ならば確実に規制の対象となってしまう。しかし、規制が発令される前に作成された「精神病院」をテーマにした作品群には傑作と呼ばれるものが少なくない。

 例えばザ・クランプスの精神病院ライブは、20分という短い映像ながらも、まさに「ロックンロールがこの世に生まれた瞬間」の再現とも呼べる、非常に高揚感を持った映画である。しかし現在、この作品は一応DVDソフト化はなされているものの、もはや入手は困難であり、テレビで放映される機会などは今後おそらく、ない。また、「怪奇大作戦」というドラマの中の「狂鬼人間」というエピソード。これも子ども向けの特撮ドラマでありながらも、精神疾患者と認定されれば犯罪者が無罪放免となってしまう「刑法第39条」の在り方について真正面から取り上げ、世の中に矛盾に対する強い抵抗を描いた非常に上質な人間ドラマであるのだが、これに至っては一度本放送において放映されたのみで、DVDどころか、ソフト化すらなされていない。これらの作品として完成度の高い作品群が表現規制の名の下に封印されてしまい、一部の好事家以外の人間には二度と日の目を浴びることのないという事実は、個人的に非常に物寂しいものがある。

 「精神病院」という媒体は、たしかにデリケートな存在であり、おいそれと気軽に弄繰り回していいものではないのかもしれない。そのような作品群は、たしかに規制されて然るべきであろう。しかし、「精神病院」というワードだけで過剰に反応して。片っ端からそれを取り扱った映像作品を規制してしまう現在の状況はいかがなものであろうか。「精神病院」という素材は、上手く扱えば、現代社会の抱える大きな矛盾や、徹底したリアリティを克明に描き出すことのできる非常に優秀な素材であり、それゆえ、上記のような傑作が生みだされやすいという可能性を秘めている。そのような映像作品として描く上でたいへんに価値のある素材を、非常に扱いにくくしてしまっている現在の状況は大変に心苦しいものである。これでは、表現規制のなかった戦後映画を超える完成度をもつ映像作品など生まれようがないではないか、と声を大にして訴えたい次第である。それほどに、「精神病院」という素材は、映像作品を制作する上において素晴らしく優秀なものであると、私は考えるのである。


・おわりに
 比較文学演習という授業において、戦後の映像作品を鑑賞させて頂いて学んだこと、それは、現在制作することのできる映像作品の表現の幅は、戦後のそれと比べると非常に狭いものとなってしまっているということである。その分、我々の目に戦後映画が魅力的に映ることができるということは、たしかに一つの事実ではあるのだが、同時に、現在の世を生きる我々にとっては、今の表現規制された映像作品の現状に一抹の「寂しさ」のようなものを感じざるを得ない、ということもまた事実である。近い将来、これらの表現規制が見直され、戦後映画と同じ表現の幅において、現在の技術を駆使した映像作品が誕生してくれることを、私は願ってやまない。
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