忍者ブログ

LITECO

HOME > ARTICLE> > [PR] HOME > ARTICLE> レポート > 『阿Q正伝』にみる魯迅の魅力

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

『阿Q正伝』にみる魯迅の魅力

比較文学専攻
マジマ


 「中国文学史Ⅱ」の授業において私が最も興味を惹かれた文学者は、魯迅である。授業の序盤で取り上げられたから強く印象に残った、という理由も多少はあるが、私はなにより『狂人日記』という作品のインパクトに強く惹かれてしまったのである。正直なところ、私は中国文学を軽視していた部分があった。しかし、『狂人日記』に描かれた世界観、そしてその確かな文学的魅力は、私が未だかつて触れてきたことのないものであった。魯迅の作品との出会いによって、私の中国文学に対する姿勢が変貌したといっても過言ではない。そのような動機から今回私は、『狂人日記』と並ぶ魯迅のもう一つの代表作『阿Q正伝』を読み、その中に描かれる魯迅の文学的魅力を確認していこうと考えているのである。

 さて、まずはじめに、と『阿Q正伝』のあらすじをこの場でつらつらと書き連ねるのは、いささか無粋な行いであろう。今回そこは割愛して、さっそく本旨に入らせて頂く。私が『阿Q正伝』を読了して印象に残ったことは、やはり何といっても「阿Q」という人物像の面白さである。阿Qという男は、金も無ければ力も無い。頭も悪くてやることなすこと失敗ばかりの上にその失敗から何も学ばない。それどころか自分の頭の中で、あの手この手で屁理屈をこねて自分を納得させ、「これは失敗ではなくむしろ成功だ」などと思い込んでしまう。そのくせ自尊心だけは妙に高く、自分が侮蔑されると知るやいなや烈火のごとく怒り狂い、そのことでまた失敗を重ねてしまうのである。そのようなどうしようもない人間として阿Qは描かれているのであるが、そこに嫌悪感はない。むしろ、私は一種の可愛らしさ、のようなものを彼に見出した。恐らく魯迅自身も愛情をもってこの阿Qという人物も描いているのだろう、そのように感じることができたのである。ここが、阿Qという人物像の面白いところであると私は感じた。キャラクター性という意味では最底辺であろう人物に、親しみを感じる。そんなものを描き出せる魯迅の文学者としての能力の高さに、私は改めて感心した。

 阿Qという人物は清朝末期、辛亥革命前後の中国人の精神や考え方を風刺して描かれたキャラクターであるという。中国人からしてみればこの阿Qという存在は痛烈なものとして映ったはずであるが、この作品はご存じの通り熱烈な歓迎を受けた。おそらくその理由は、やはり私同様にこの作品を読んだ中国人も、魯迅の阿Qに対する愛情を感じ取ったからではないだろうか。では、なぜ我々は阿Qに「愛情」を感じることができるのであろうか。それは魯迅が阿Qと同じ目線に立って彼を描写しているからではないか、と私は考える。彼がこの『阿Q正伝』によって描いているものは、阿Qというどうしようもない人物を用いた啓蒙ではないし、大衆への警告でもない。「私も同じ感覚、考え方を一部で有している」、というどちらかと言えば自虐に近いものが、そこに描かれている。だからこそ、『阿Q正伝』を読んだ人々、主に中国人は、作者が自己投影された、とでも言うような「阿Q」という人物に慈愛じみたものを抱き、そしてこの作品を単なる風刺ではない、我々に愛情を注いで描かれた名作であると感ずることができるのではないだろうか。もちろん、中国人でない我々もそれを感ずることができる。この『阿Q正伝』という作品には「阿Qという他人への批判」や、「嫌悪」などというものは一切登場しない。むしろ「阿Qという息子を見守る親の慈愛」のようなものをそこに見出すことができるのである。

 さて、阿Q自身への魅力も書ききれぬほどあるのであるが、私が感じた『阿Q正伝』の魅力はもちろんそれだけではない。私が『阿Q正伝』に感じたもう一つの魅力は、クライマックスの緊迫感である。描写が細かく、とかそのような矮小な話ではなく、書き出しと後半とでは作者の文体が明らかに変容しているのである。クライマックスの描写はまさに自分自身が阿Qになったかのような緊張感に溢れており、読む者を引きずり込む。「人として生まれた以上、○○されることだって、ないわけではない」という表現が繰り返し用いられるのであるが、私はとくにこの部分が気に入っている。自分に言い訳をして自尊を保とうとする阿Qのキャラクターを崩さないようにしながらも、同じ表現を繰り返すことで内面的な焦りを表現する。素晴らしい表現技法であると、私は考える。

 この文体の変容については、以下のような説明がなされている。「この作品は魯迅にしては珍しい中編の小説で、『晨報』という新聞へ、一週間に一章ずつ連載がなされていたものである。そのため執筆が長期におよぶことになり、後半の方で文体が変容した」(岩波文庫版解説・編集注) と。しかし、私はそのようには考えない。おそらく魯迅は書いている最中「阿Q」という人物に没頭してしまったのではないだろうか。あまりにも阿Qに入り込むあまり、クライマックスの処刑の場面で、気持ちが筆に現れ過ぎてしまった、そう考える方が自然ではないだろうか。私はそう考える。

 結論として、私が『阿Q正伝』に感じ取った魅力は大別して二つ。一つは「阿Q」の斬新かつ愛情にあふれた、愛すべきキャラクター性。そしてもう一つは後半における文体の変化によって表現される緊迫感である。どちらを取っても、私の中には魯迅に比類するような存在はない。私が『狂人日記』で感じ取った彼の文学的魅力はこの『阿Q正伝』にも存分に溢れているのである。




書誌事項
 『阿Q正伝・狂人日記 他十二篇』 魯迅 著 竹内好 訳 岩波文庫 1955年第一版出版
PR

Comment0 Comment

Comment Form

  • お名前name
  • タイトルtitle
  • メールアドレスmail address
  • URLurl
  • コメントcomment
  • パスワードpassword