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古典文学への片思い

栃木県 私立高校2年
オオシマミユ


 文学と聞いて頭に浮かんだのは古典文学だった。 それもそのはず机の上には常に、母親から譲ってもらったケース付きの古今和歌集やら枕草子が置いて ある。私はこの作品たちを愛してやまないのだ。とは言っても幼き日から古典を読みあさっていたわけではない。小学5年あたり までは児童向けの文庫本や、小学生でも読めるレベ ルの分厚い本などを読んでいた。しかし何を血迷ったのか小学校高学年の頃に古典 に魅了されてしまったのだ。これが長 い長い恋の始まりであるとその時の私は思いもしなかった。

 初めて読んだ古典は枕草子だ。偶然家の書斎から 発掘したものであるが、もちろん読めなかった。な ぜなら全て歴史的仮名遣いでところどころの注釈も 全くわからなかったからだ。わからないくせに読む 気になった当時の私にはぜひとも金一封を差し上げ たい。そこから少しずつわからないなりに読み進め ていくとだんだんとそのひらがなの魅力に取り憑かれ、ついに数百段にも及ぶ枕草子を読み終えてしまった。あの並ならぬ達成感は今でも忘れられない。しかしそれ以上に感じたのは、この日記の中にある知識を取り込めて嬉しいという事だった。その後枕草子だけでは飽き足らず書斎にある古典を引っ張り出しては読んだ。特に 和歌はとても優しくて繊細で、その暖かさに私は惹かれた。正直に言うと今でも長い長い文章より五七 五七七のほうが好きだ。伝えたいものがストレート に胸に届き、満ちるあの感覚は病みつきになる。

 そうして高校生になり国語の授業内容もだいぶ濃くなってきたある日。年配の国語の先生は声を張り上げて、唐詩選は読んでおいて損はないと言ったのだ。もちろん光の速さで買いに行った。そして開くとそこには美しい漢字の羅列、韻、対句…巧みな情 景描写に織り交ぜられる作者の心情などが決まった 字数で表されている。今まで漢文といえば「子曰く〜」の孔子くらいしか知らなかった私に感電したような衝撃を与えてくれた。

 和歌や漢詩は字数が限られているものがほとんどで、水飴のように練られた言葉はすんなりと喉を通らずにねっとりと余韻を残していく。この甘さと濃密さが私を掴んで離さない。私が古典文学、特に「うた」を愛する理由はここにある。

 この気持ちを古今和歌集から引用すると、この和 歌がいちばん近い。

   “いで我を 人なとがめそ 大船の ゆたのたゆたに もの思ふころぞ”

 大きな船がゆらゆら揺れるように大揺れに揺れて恋 をしている私を誰も咎めなさるな、と。そうだ、誰 も咎めなさるな。私にとって古典は生きる糧なのだ から。

 この恋はおそらくずっと片想いだ。しかしそんな 世界に私は足を踏み入れてしまった。もう引き返せ ないし引き返さない。古典文学への思いはとどまる ことを知らない。

 嗚呼已矣哉。

 

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文学が与えてくれる選択肢

同志社大学文学部英文学科 卒
現在、出版社勤務
石風呂春香


 みなさんは、なぜ文学部に入ったのでしょうか? 本を読むのが好きだから、国語が得意だったから、他に興味のある学部がなかったから、はたまた、文学部は遊べそうだから……。人の数だけ動機はあれど、「将来の役に立ちそうだから」という人はあまりいないのではないでしょうか。また、今大学生活を満喫しているみなさんの中には、文学部出身で就職先が見つかるのだろうか、仕事で文学を活かす機会なんてあるのだろうかと悩んでいる方もいるかもしれませんね。文学を勉強していてよかったなあと思った私の経験を、出版の仕事の内実も交えて、みなさんにお伝えしたいと思います。


 私は大学でイギリス文学を専攻していました。理由は、単に本を読むことが好きだったからです。私にとって違う国の本を読むということは、まるでなぞなぞを解いているかのような楽しみがあったのです。違う文化、違う時代に生きる人の考えを読み解くというのは、想像力を働かせないと上手くいきません。いわゆる、行間を読むということでしょうか。実際に文学部に入ってみて、非常に自分の想像していた文学部と似ていたこともあってか、すぐにその分野にのめりこむことができました。特に印象的だったことは、作者が作品中で書いていることを、実際に体験したことでしょうか。ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』という作品のなかで、二人の人物が一枚の絵を見ている場面があるのですが、それぞれに絵に対する印象が、まるで別の絵に見えるほど違っているのです。そして、この場面について友人と話し合ったとき、また同じように全く違う視点でその場面を見ていることがわかりました。私はそのとき、これが作者の感じていたことではないかと、まるで作者と一体になったかのように感じたのです。そしてますます、私は文学を学ぶことに夢中になりました。


 そして今は学術書を専門的に扱う出版社で編集者として勤めています。もちろん、編集という仕事において文学部出身であるということはかなりの利点です。良質な文章に沢山触れてきた人ほど、いい校正者・編集者になれるのだと思います。読者にとってわかりやすい文章を考えることが一番の仕事ですから。大学時代に行った読解や論文の作成で頭を悩ませた経験があるからこそ、論の構成や言葉の使い方について、改善案が思い浮かぶのですね。中でも一番文学を活かせたと感じた出来事は、自分の専門分野に近い仕事をもらえたことです。私は学生時代、「イギリスの女流小説にみる女性の社会進出について」という何とも活用しにくそうな分野を学んでいたのですが、非常にその論題に近い内容の本の担当を任せていただいたことがありました。もちろん、学部生程度の知識しか持たない私が教授の論文にあれこれ意見できるというわけではありません。しかし、その本は大学での教科書として採用されるということでしたので、学生の視点を提供することができたというのが一番大きな役割だったと思います。例えば、まだ文学について詳しくない一、二年生にとってはこの表現は難しいのではないか、作品の年代順に並べるよりは特徴が似ていたり影響を受け合っていたりする作品をまとめて一つの章とするほうがいいのではないかなどの提案をし、非常に楽しい仕事の経験ができました。きっとまた、後10年、20年経って同じような仕事に巡り合えたら、もっと自分の持つ知識をフル活用した仕事ができるのではないかと今から楽しみにしています。


 文学を学んでいてよかったと思うのは、何も編集の仕事に限ったことではありません。一般的な仕事や普段の生活においても学生生活を振り返ることは多々あります。私個人としては、文学を学ぶということは、ある国や時代に生きた個人の人生を通してそこにある普遍的な価値観を学ぶということだと考えています。例えば、私の中ではそれまで文学を通して学んできた「女性の社会進出について」というテーマは、今でも心に根強く残っています。19世紀のイギリスでは、女性たちが今まで男性中心であった社会に飛び込んでいく様子が描かれた作品がいくつか生まれました。登場人物たちは、恋愛や家庭と仕事の間で葛藤し、それぞれに答えを出していきます。それは今の日本社会に生きる私たちにも共通する悩みでもあります。社会で男性に混ざってバリバリ働くのが幸せなのか、家庭や子どもをもつことが女性としてあるべき姿なのか、私はそのような悩みに出くわしたときには、いつも彼女たちがどのように社会的地位を得ようと、女性としての自我を得ようともがいていたかを思い返します。文学の中に、これといった正解があるわけではありません。しかしそれは私たちに一つの選択肢を与えてくれるのです。


 最後に、非常に哲学的な小説を書くことで有名なノルウェーの作家、ヨースタイン・ゴルデルの著書である『ソフィーの世界』の中の言葉を借りれば、「私たちにとっては彼らが何を考えたかということよりも、どのように考えたかということの方が重要なのです」。日本文学であろうと、海外文学であろうと、それにどのように向き合うのかが大事なのだということです。そこには、必ず今のあなたの立ち位置とは違う考えが含まれています。先人たちの書き残した一つの人生の中から読み取った物の考え方や価値観などを自分の人生に照らし合わせて考えることで、今まで見えなかったものが見えてくる。それが一番重要なことではないでしょうか。みなさんが読み、考え、書いたことは決して無駄にはなりません。今は実感がないかもしれませんが、大学で学んだ「物の考え方」はそのまま大人になったときの人格を形成すると言っても過言ではないでしょう。

文学の入り口

日本大学芸術学部文芸学科
相場和子


 堅苦しくて、近寄りがたい。

 親しみなんてどうせ持てないだろうから最初から触れることすら諦めてしまおう。なんて思うことがある。これは単にわたしが面倒臭がりで臆病であるからかもしれない。しかし、文学という単語が前に立ちはだかったとき、同等の感情を抱く人はきっと少なくないはずだ。

 皆さんは文学と聞いて、まずはなにを思い浮かべるだろうか。本をあまり読まない人からしてみれば、最も身近な文学への入り口は国語の教科書であったかもしれない。わたしの記憶だと森鴎外や夏目漱石、芥川龍之介など超がつくほど著名な文豪たちがその冊子に名を連ねていて、実際掲載されているものは素晴らしい作品ばかりであった。

 が、しかし。まったく文学に触れたことがないであろう少年少女が、まして文学? なんだよこんな小難しい言葉で覆いやがって! なんて思っている思春期真っ盛りの学生たちが、いきなり「はい、次は森鴎外の舞姫を読んできてください。次のテストに出るからね」なんて言い渡され、ほいほいと馴染むことが出来るだろうか。いや、まず無理だろう。とくに舞姫なんかは文語で描かれているため余計に難しい印象がある。 文学に親しみを抱く、その扉になるはずの教科書と授業の影響で余計に大きな壁となるとはまさに本末転倒である。

 堅苦しい、自分には理解できない。と、考えてしまっている現代の人々へ、まずわたしが言いたいのは、文学とは決してハードルの高いものではないということだ。そして勉学という枠に捕らわれる必要もまたない。事実まわりの読書嫌いな人々は、どうも文学を教科書の延長線上だと考えているのだ。そんなことはない。文学だって(言ってしまえば芸術は)人々の娯楽に過ぎない。現代のようにたくさんの娯楽がなかった頃の主流の楽しみ、それが文学であったり観劇であったり、トーキーであったり。文明が発達したいま、わたしたちが携帯を使いSNSを楽しむ、それと大差はないのだ。

 勿論、時代の流れによって娯楽も変わっていく。かつてはたくさんの文学作品に触れて楽しんでいたものが、数々の発明や発達により携帯、SNSその他に変わっていくことは仕方がないことなのかもしれない。けれども、文学は過去の産物で、頭の良い真面目な人が読むもので、それでもって小難しくてワタシには合わないものなの、とかいう読書嫌いな人々の勝手な認識は間違っている。わたしはそれをなんとかして変えていきたいのだ。

 文学という壁をぶち壊す。そのために必要なのは、興味を持つこと、楽しさを知ること、そしてなにより読んでみること。読ませるための方法に、読んでみることを入れるなんて、と思われるかもしれないがこればっかりは実際に挑戦してみてもらうほかない。

 きっかけはなんでもいい。純文学と言われるものでも、エンターテイメントでもSFでも入り口は自由だ。当然である。なぜならこれは娯楽なのだから。もう学校の授業なんかは関係ないのだ。好きなものを読めばいいし好きに感じればいい。わたしが文学の世界、小説に興味を持つきっかけは星新一のショートショートだった。小学の高学年ぐらいだったろうか。本の面白さに気付き、それからは気の向くままに読んだ。あ、この名前みたことある。この題名は面白そうだな。あ、これはこの前読んだのに出てきたぞ。なんて、どんどんつながって、ますます世界は広がっていく。この楽しさを一人でも多くの人に知ってもらいたいし、まずは苦手意識をなくしてもらいたい。繰り返すようだが、本の世界は自由なのだ。きっかけはなんでもいい。

 どのくらいの人がこれを読んでいるか予測がつかないし、もしそれなりの数が居たのだとしてもこの拙い文章を最後まで読み切るとなると、余計に幅は狭まっているような気がする。もし、たとえ一人であっても文学の世界の認識を変えてくれたら。読んで触れてみたい、と思ってくれたら。そしてそのまま果てしなく広がる自由な世界へ歩んでみて欲しい。わたしはもう、それで満足である。

LITECOへの寄稿方法詳細

1.投稿に際して

LITECOは文学を志す学生で創る、新しいサイトです。全国の学生の皆様からのご寄稿が、サイトを創り上げていきます。サイトの概要につきましては、サイトの「ABOUT」をご覧ください。募集している原稿は、以下の二種類です。

 

    自主レポート――2000字以上

大学で提出するようなレポートを想像していただければ結構です。見出しは付けても付けなくても、どちらでも構いません。注番号にも対応できます。文末には参考文献を付してください。字数は2000字以上です。

 

    エッセイ――800字以上

文学に対する思いや、文学と自分の関係、文学と社会など、「文学」にまつわる文章なら何でもOKです。文字数は、800字以上です。

 

 

2.原稿様式

データはWordで開ける形式でお送りください。見出しや注番号をつける場合には、Wordの機能を用いてください。

また、横書きとし、文頭には「タイトル」「所属」「お名前」を付してください。所属とお名前については、伏せたりペンネームにすることが可能です。その場合は、ご相談ください。

Wordで開ける形式で提出することが難しい場合はご相談ください。)

 

3.執筆期間

2週間~4週間程度でお願いしておりますが、早いのは歓迎ですし、遅くなる場合も対応いたします。希望をお聞きした上で、執筆期間を決定いたします。

(既に原稿が書きあがっている場合は、すぐに提出していただいても構いません)。

 

4.著作権等に関する同意事項

LITECOに原稿を掲載するためには、下記の同意事項に同意する必要があります。

 

●著作権等に関する同意事項

1.LITECOに寄稿された文章の著作権その他一切の知的財産権は執筆者に帰属するものとします。LITECOはそれらの文章を公衆送信することを著作権者から許諾されたものとします。著作権者からの申し立てがあった場合、LITECOは速やかに文章を公衆送信できない状態にします。

 

2.LITECOのサイト(http://liteco.ky-3.net/)において寄稿者による文章を公衆送信可能な状態とし、それによって利益が発生した場合、その利益は全てLITECOが獲得するものとします。


以上

 

5.原稿提出から掲載までのフロー

 

    まずはご寄稿くださる原稿のタイプ(自主レポートかエッセイか)、テーマ、所属、お名前をお聞かせください。

(所属、お名前を付すことを極力お願いしておりますが、難しい場合は「都内某大学」というような表記を用いたり、ペンネームを使ったりすることが可能です。ご相談ください。)

 

    原稿を提出していただきます。間に合わない場合も、必ず進捗状況をご連絡くださいますようにお願いいたします。

 

    校正後、誤字・脱字や誤った表現の修正、加筆修正の提案をいたします。それにしたがって、リライトをお願いいたします。

(提案はあくまでも提案ですので、そのままにしておくことも可能です。)

このフローは、数回繰り返す場合があります。

 

    最終的に書きあがった原稿をLITECOに掲載いたします。

 

6.その他

LTECOでは、エッセイやレポート以外にも「企画」というページを用意しており、「レポート」や「エッセイ」では収まらない範囲での「文学」に関わる活動をしています。もし企画の提案などが御座いましたら、ご連絡ください。これまで行った企画の例は、以下の通りです。

・熊本大学院生へのインタビュー

・文学部を卒業して出版社で働いている方からのご寄稿。

その他、アンケート企画なども計画しております。



何か分からないことなどありましたら、遠慮なくお尋ねください。

 

サラダボウルな本棚

熊本大学情報電気電子工学科
井上 大嗣


 小難しいハードカバーの隣に少女漫画が並ぶ。

 一見してアンバランスな様相を初めて目の当たりにしたのは、つい2月前のことだった。他でもない、私の自宅の本棚である。

 私の両親はともに大層な本好きで、私も、自然幼いころから本を良く読んだ。本とはひとくくりに言っても絵本や雑誌のようなものから広辞苑にいたるまであって、私にとっては「本」とは文字のみで構成されたものという訳ではなかった。絵本に始まり小説、新書、史書を経由して哲学じみたSFに至っている。これまで、ジャンルの移り変わりはあれど、本を読まない時期はなかった。

 ところで、先人の残すように、本は勝手に自己増殖していく代物であるようで、昨年、熊本に連れてきた30冊ほどの本達は、既に200を超えている。古本屋巡りという、新たな趣味のせいでもある。

 2月前に購入した本棚は、文庫本が250冊ほど入る大きなものであったが、考えが甘かったようで、埋まるのは時間の問題に思えた。そう、ここ数年の私の好物であるハードカバーSFは、文庫本の数倍もの場所をとるのだ。どうしたものかと考えること数刻、出た答えは、読む頻度で本を並べるという事だった。このやり方は、実に私好みの結果をもたらしてくれた。ジャンルも作者も関係なく並んだ本棚は、私のように気の赴くまま乱読するには都合がよかった。

 好物のSFは片手間に読むには手に余る代物ばかりであるし、気分転換に詩集はもってこいだ。そして、疲れた頭には漫画の気楽さが心地いい。そんな私が今悩んでいるのは、古本屋で見つけた竹取物語の居場所である。