忍者ブログ

LITECO

HOME > ARTICLE > 記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

小規模な世界における文学

KMIT
紀谷実伽留


(テーマでは「『文芸』は世界をどう動かすか」とあるが、今回はそのあたりの定義は考えず、それらに近似するものを全て含めて、「文学」ととらえることにする。そして、どう動かすか、よりも、動かすことができるか、という大前提について話したいと思う。)

 あらかじめ言っておこう。文学は世界を動かす。それが私の見解だ。そう考えてなければ、わざわざ大学になど入り、文学について学ぶこともあるまい。

 そもそも、我々の存在する世界とは何であろうか。数学者たちは数字の羅列と言い、科学者たちは分子の集まりとでも言うかもしれない。彼らはきっと、それらこそが世界そのものであり、世界を動かすものであると考えているのだろう。それはそれでかまわない。

 だが、私はこう考えるのだ。世界は、自分であると。世界は、あなた方であると。ひどく投げやりな見解かもしれぬが、結局のところ、世界とは我々個人が見て、認識してようやく成り立つものだ。我思う、ゆえに我あり。最終的に、確実に存在していると言えるものは、己のみである。ならば、自分の見ている世界が世界そのものなのだ。

 あなたの心が数字の羅列でできているなら、きっと世界は数字の変化によって起きるのだろう。あなたの心が分子でできているのなら、世界は分子で動くのだろう。それと同じことが、文学にも言える。 動かせないと思っている人にはきっとそのように見えるのだろう。それは仕方のないことだ。だから、私は文学の世界に生きる者を代表して、その世界を信じる要因を、もう少しだけ語ることにしよう。

 とは言ったものの、私はさっそく、その主張に一つ付け足しをせねばならぬ。何故、私が文学は世界を動かすことができるなどと主張するかといえば、「文学=人」であると考えているからだ。人がいなければ、観測者がいなければ、世界は生まれない。だから、人を形作る鍵にもなりうる文学を、各々の世界にとっても重要なものとしたのだ。

 いささか、回りくどい言い方になってしまった。非常に簡潔に言ってしまえば、こういうことである。

「文学作品を読んで感動しました」

 その瞬間に、あなたの世界が動いたことになるのだ。文学が、世界を観測するあなたの心を形作る、一つの部品になったのだから。

 古来より、人の在り方を追求してきた哲学者たちは、その考えを文学という形にして我々に残している。あくまでそれ単体では、彼らにとっての世界を示した、ただの文字の羅列にしかすぎない。観測する我々がいなければ、偉大なるニーチェの世界も、私やあなたの世界と同軸上のものになり、リンクすることはないのだから。

 だが、それらの文学作品を読んで、あなたの心に残ったとすれば、それは、あなたの世界になるのだ。そして、そうしてできたあなたの世界を、別の形で発表し、他の誰かの心に残ったとすれば、世界中に存在する「世界」が動いたことになるのではないだろうか。

 最後に、もう一度言っておく。世界は、あなた方です。あなたの世界を動かすものは、何ですか。
PR

世界の繋がりと広がり

KMIT
汐咲里乃

 自分自身の存在が脅かされる。そういった経験はあるだろうか。私は昔、自分を否定され、自分にはなにもないのだと思い込んでいた時期があった。かわいそうなやつだと思われるかもしれないが、そんなときに私を支え、自信を取り戻してくれたのが文芸創作だった。

 そもそも私が文芸というものの魅力に取りつかれたのは小学生のころだ。本が大好きで、図書室に通いつめていた。背伸びをして、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンなども読み漁っているような子供だった。ホームズが犯人を追いつめたり、ルパンが様々な人に変装したりすれば高揚で胸が高鳴るし、彼らが窮地に立たされた時は私まで緊張してしまう。そういった、主人公や登場人物が現実では起こりえないようなスリルに満ち溢れた冒険や、難解な謎に立ち向かう姿には今でも変わらず胸が躍るものだ。しかし、本を読み終えた後はいつだって寂しい。まるで夢から覚めてしまったかのように、読み終えてしまったことを残念に感じたことはないだろうか。本を閉じた後も、私は夢の余韻に浸るように想像を膨らませていた。物語が終わった後の主人公たちはどうなったのだろう? もしもこのシーンで本とは違う展開になっていたら? そんなもしもの世界の空想を広げるだけでは満足できなくなり、自ら物語を書き始めたのがそもそもの始まりだった。

 紙の上の世界は自由だ。本の中では、登場人物が冒険したり、笑ったり泣いたりと自由自在に動き回っている。もちろん、何かに囚われたり縛られたりすることはなく、書いている私が登場人物やストーリーを自由に動かすことが出来るのだ。私の世界は私の物で、それを現実のように脅かされる心配もない。
しかし、その世界が孤立しているかといえばそうではない。それぞれが本を開くことによって紙面の上の文字に込められた著者の世界と触れ、繋がることが出来るからだ。もちろん、受け取り手により感じ方は違うだろう。一人一人の頭の中の世界とまったく同じ世界など存在しないのだから。それは、読者が著者の意図と違う受け取りかたをしてしまう危険性を含んでいるということでもあるが、逆にそこが魅力でもあると私は思う。たくさんの人間がいるのだから、いろんな受け取り方があっていい。いつの日かの私のように、そこから受けたものから広がる世界があるかもしれない。そうやって世界を広げ、繋がる力が文芸にはある。だから私も書き続けたいと思う。いつの日か私の書いた物語が誰かの世界を広げることを夢見て。

合理性、非合理性

KMIT
サイトウ


 現代社会という我々が生きる世界を、文芸が変えられるか否かという問いに、私は否と応えるであろう。

 文芸作品は往々にして社会をテーマに描かれる。それは、社会への反発、疑問から来る、環境改善への働きかけである。しかしながら、それらが生み出すのは流行である。流行が巻き込んでゆくのは主に大衆であって、環境ではない。環境を変えるのは技術である。

 現代は、技術によって打ち出された近代合理主義に支配されている。最早それは、我々の生活の隅々に浸透して、そこで暮らす人々をコミュニティから分断し、個人を覆っている。そのことを最も実感しているのは、他ならぬ我々の世代であろう。

 さてここで、文芸、芸術とは、合理性という枠組みの外に存している。これは芸術というものが、技術や論理の介入しない場所から生まれ出るものであることに因る。芸術はまるで非合理 的で、時に非現実的なものである。では、芸術とは、文芸とは何か。それは、感受すること、表現することである。

 芸術的な事物(芸術作品に限らない。きれいな海など)に出会ったとき、人は自身の感受性を刺激される。そうして体感し、感受したものを表現しようと試みる。家族や友人らにその素晴らしさを語り聞かせるだけで満足する者もいるだろう。むしろ、そういった人が大半のはずだ。しかし中には、それだけで足りず、もしくはそういった会話の中で更に別の感動を得て、それを形にしようとする人がいる。彼は、絵を描いたり、或いは歌詞や楽譜を作ったり、詩を書いたりしたいという衝動に駆られている。それこそが芸術という活動の根源である。感受と表現とは二つで一つのことである。

 こうして生まれた作品には当然、作者の内面が強く現れる。物語世界とはまさに、作者によって作り上げられた、一つの下位世界である。

 ところで、小説や詩を書きたい、という文芸への衝動は、文芸からの感受によってしか生まれないと私は考えている。小説を書きたいという者の衝動は、恐らくその殆どが誰かの小説に感銘を受けたことに因っている。文芸に感銘を受けるということは、他者の内面にある一つの世界を受け入れることである。その作業は、時に読み手の価値観を壊し、より洗練されたものへと再構築する。また、文芸を用いて表現するということは、そうして新たに生まれた、価値観としての世界を具現することに他ならない。

LITECO×KMIT 連続寄稿企画「『文芸』は世界をどう変えるか」

LITECO×KMIT 連続寄稿企画 「文芸」は世界をどう変えるか  


「文芸」という単語を見て、何を想像するでしょうか? 小説を書くことだと答える人は、だいたい正解でしょう。詩や戯曲などにも言及できる人は、ほぼ正解といって良いと思います。評論もこの範疇に入ることがあります。映画や漫画は……さて、皆さんの文芸の定義ではどうですか?

日藝文芸学科の学生を中心として結成された、文芸サークル「KMIT」
彼らは一体どういう思想のもと、文芸活動に勤しんでいるのでしょうか?
また、彼らは文芸で何をしたいのでしょうか?

LITECOでは彼らに一つの問いをぶつけてみました。
「文芸」は世界をどう変えるか?

4つのエッセイは、その質問に対する答えです。
(それぞれのタイトルをクリックすると、記事ページに飛びます)


サイトウ 「合理性、非合理性」 

汐咲里乃 「世界の繋がりと広がり」

紀谷実伽留「小規模な世界における文学」
 
藍那   「届かないようで届く」



KMITのサイトはこちら! →KMIT

特集☆院生インタビュー「最後の質問と、フリートーク」

伊藤
最後になるんですが、「朝から文学隊」というものを計画していると伺ったのですが、それはどのようなものなんでしょう?
森迫
いや、人が集まらないので、自分が勝手に勉強している感じになってるんですけど。あれは突発的にやっただけなんですけど。
伊藤
それをもし今後やるとしたら、どのような感じでやりたいと考えていますか?
森迫
一番いいのは、それぞれの研究のために基礎的な部分、文学を広く見るためにこれは見ておかなければいけないよねというところを押さえていくという勉強が一番理想的なんですけどね。ただ、さっきも言いましたけど、色んなこと言う人がいますからね。だから、難しいんですよ。最悪、自分が研究していることの発表会みたいな感じでも良いと思うんですよ。その勉強会があることによって、自分の時間の使い方を見直せるんじゃないかなと。一週間なら一週間で、その期間の研究の密度を濃くすることができるのではないかと思うんですよね。ただ、今のところ名乗り出てくれた人が一人しかいないので……しかも、その一人も教育実習があるということでなかなか忙しそうだし。文学隊の計画自体が、なかなか危ういところですね。
伊藤
僕も、計画に参加したいという気持ちはありますので、もしも実現することになりましたら、お声かけください!
伊藤
さて、用意してきた質問はこれで以上となるんですが、えーっと……何か言っておきたいことはありますか?
森迫
学部生にということであれば、一生懸命文学についての勉強をしたいのであれば、従来から名著と呼ばれているものは学部時代から読んでおくべきですね。それは、自分が後悔しているので。読んでおけばよかったなあって。
伊藤
僕ももう学部三年なわけですが、一年のときからああしておけば良かったなあと思うことはたくさんありますね……。
森迫
とりあえず、読んだっていう経験は作っておきなさいという感じですね。だから、夏目漱石の三部作とかも、読んだのって意外と最近なんですよね。
伊藤
うわあ、僕もまだ全部は読んでないんですよね(苦笑)
伊藤
なんか、不思議ですよね。文学って面白いはずなんですけど、読むのって結構苦しいところがあって。ソシャゲとかしてると、すぐに時間が経つじゃないですか。なのに、どうして僕らはそれをずっとやってるわけじゃなくて、文学に立ち向かうんだろうって思うんですよね。
森迫
なんでですかねえ。精神的な筋トレなんですかね。
伊藤
なんか、不思議だなあと思って。他の学部の人って、失礼な話ですけど割と言い訳できるところがあると思うんですよね。法学部の人とかは、就職があるから試験もキツイけど頑張ろう、みたいな気持ちの人もいるんじゃないかなと想像していて。文学部って、そういう言い訳があまりできない。
森迫
だから、あまり馬鹿にできないのは、文学を読むというのは人間的な勉強というのもあると思うんですよね。
伊藤
うーん、そうですかあ。いや、最近本当に読めなくてですね。本を手にとって読み始めると、「うわっ、まだこんなにある」と絶望するというか。
森迫
それによって、自分が何か語る言葉が増えるっていうところはあると思います。漱石の作品の中で、例えば「こういう言い方に対しては、こういう見方がある」というものがあって。それが、「それって今はそうだよね」という風に言わせるための力になる。自分の直感に何か昔からそういう見方があるというな歴史と関連した根拠づけができたりはしますね。だから、もしも即物的に役に立つ役にっ棚井という話をすれば、そういうところもあると。何か自分が直観したこととか、全くなかった見解というものを取り入れることができる。しかも、それは論文調の何かではなく、「文学」という人間が必然的にというか、残せざるを得なかったものの中にそれを見る、というのが良いんじゃないでしょうか。
伊藤
だから、「親近感」というものはあるのかもしれないですね。論文で言われるとよくわからないけれど、文学作品の中に自分を落とし込んでみると、わかることがあるかもしれない。
森迫
そうですねえ。だから、年齢を重ねて見て『山月記』を読むと、非常に苦しいですよ。「俺は何をしてきたんだ!」みたいになるから。高校生のときには分からなかった苦しさがあの作品の中にありますよ。多分、今読むといいですよ。今三年生ですよね、今読んでみると、絶対に苦しい。
伊藤
うわあ、読みたくないですねえ。僕、話も筋もほとんど覚えていないので、なおさら怖いです。「その声は、わが友李朝ではないか?」しか覚えてないので。
森迫
五月の読書会(伊藤が主催しているネット読書会)の課題図書って『坑夫』ですっけ?
伊藤
はい、『坑夫』です。
森迫
次は『山月記』をやったら、色々なところから面白い意見が出てくるんじゃないかなと思うんですけどね。短いから読みやすいし。……そういえば、何か色々企画されてますよね?
伊藤
いやあ、なんか今のうちにやっとかないと駄目かなあと思って(笑)
森迫
いや、それ凄く大事だと思いますよ。
伊藤
僕は多分、このままいけば院に行かずに社会人になると思うんですよ。だから、社会人になる前に爪痕を残しとかないと、今後文学をやらないと思ってて。自分の中で、強制されないとやらないものなんですよね、文学って。僕の場合は、ですね。だから、やっとかなくちゃいけないなあと思って。
森迫
良いことだと思います、本当に。
伊藤
だから、僕は先輩方とも別の読書会をやっていてですね。
森迫
『御目出度き人』とか読んでみてればいいのに(笑)
伊藤
あ、それ積読してるかもしれないです(苦笑)先輩が研究していると知ってからは何作か読んでみたんですけど、さっきも言ったように名前にハードルがありますよね。
森迫
何これ、凄く厳めしい内容書いてあるんじゃないかみたいな想像もしちゃうし。とか思ったら、彼は言文一致の完成者なんて言われたりもしますからね。
伊藤
そういえば、この前ちょうど読書会で『浮雲』を読んだんですよ。あれ、面白かったですね。
森迫
自分はあまり面白いと思わなかったけどなあ。
伊藤
僕は、「あ、昔の人も冗談言うんだ、すげえ!」って思って。
森迫
彼らも、純文学って考えて書いてないんじゃないかと思いますけどね。もちろん、文学というものを意識して書いてはいたでしょうけど、今で言うところの格式の高い文学ということで書いたのではないでしょうね。
伊藤
そうですよねえ。僕らは昔のものを良いと捉える懐古趣味みたいなものからどうしても抜け切れないんですよね。読んでいるうちにそれはなくなっていくんですけど、でも、最初の方は「昔のものだから……」という感覚がつきまとう。
森迫
その当時の人たちは、ただ面白いから読んでたんだと思いますけどね。
伊藤
なるほど。……それでは、この辺で終わりといたしましょうか。本日は、本当にありがとうございました!