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バルザック『ゴリオ爺さん』におけるパリの街の役割

熊本大学文学部文学科
伊藤祥太


『ゴリオ爺さんは』1819年のパリを舞台に描かれたオノレ・ド・バルザックの小説である。当時ブルボン王家による王政復古の時代が続いており、上流階級社会と下流階級社会の区別がはっきりしているにもかかわらず、下流社会からのしあがることもできるという、言うなれば下克上の時代であったといえる。そのことはラスティニヤックの行動に如実に現れている。

 さて、この小説においてパリという街はどのような役割を果たしているだろうか。小説は当時の社会的状況やその地理的状況から大きく影響を与えられる。この作品のように実在の街を舞台にした作品では、特にその傾向が強い。佐野(1985)は次のように言う。

 『ゴリオ爺さん』は実在するパリの三つの界隈を舞台としている。各々の界隈はパリにおける社会地勢上の意味を有し、描写においてその差異が誇張されることにより明確な概念が背景に生ぜしめられている(p.115-116)


 ここで言われている三つの界隈とはすなわち
① ブールヴァール・サンジェルマン周辺
② ショセ=ダンタン通り
③ サント=ジュヌヴィエーヴ通り
である。

 ヴォーケル夫人の下宿の居住スペースが二階から四階にあり、それぞれ部屋の上等さと料金が違うことは、このパリの三階級を暗に示しているように思われる。二階の上等な部屋に住むクーテュール夫人とタイユフェルが上流階級。三階の中等部屋に住むポワレとヴォートランがブルジョワ。そしてわずかな部屋代で住んでいるゴリオ爺さん、ミショノー、ラスティニヤックが最下層の人物たちである。

 このヴォーケル夫人の下宿は物語の中心に据えられていて、あまり上等ではないサント=ジュンヴィエーヴ通りにある。序盤で住人たちの服装についての描写が現れるがここからも劣悪な生活環境を読み取ることができる。作中で、ヴォートランが次のように言うシーンがある。

 いかにも豪勢、ふんだんなところもあり、ラスティニヤック氏のような名士の仮のお宿たる光栄に浴してもいるが、所詮はヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りにあるため、豪奢などとはお義理にも申せず、まったくは純パトリアルカロラマ(家長制)の下におかれている。(p.510)


 このセリフはラスティニヤックの現在の状況をぴたりと言い表している。ラスティニヤックの家系は一応貴族であるものの、実情としてはかなり没落している。そこで、従姉であるボーセアン夫人に取り入って上流階級社会への仲間入りを目指すことになる。ここでラスティニヤックはヴォーケル夫人の下宿と上流社会とを比較して、あまりのギャップに嫌気が差すことも多々ある。それにもかかわらず、資金不足やその他の要因で彼はこの下宿に留まらざるを得ない。この辺りの心の動きを描くためには、パリという街は必須の存在である。彼の心情を描写したものとして、次のような部分がある。

 そして胸糞の悪くなるような例の食堂にはいった。秣草棚に向かった家畜のように、十八人もの会食者がそこでのみくらっている真っ最中なのを見た。こうしたみじめなありさまやこの部屋の光景は、いかにもあさましく感ぜられた。あまりにも急激な移り変わり、あまりにも極端なこの対照は、彼の心のなかにいやがの上にも大きな野望を、掻き立てずにはおかなかった。一方では世にも優雅な社交生活の新鮮で魅力的なすがた、技巧と贅美粋を凝らして取り囲まれた若い潑剌とした姿態、詩情に溢れた熱情的な顔立ち。ところが他方では、泥で縁取られたまがまがしい画面、浴場がその骨と筋ばかりとしか残していないような面つき。 (p.435)


 これでもかというくらいに、下宿に集まった人々への嫌悪感を露わにしている。パリは夢の街である。事実、夢を持って学生たちはこの街に集う。それはもちろん学問を究めるためにやって来るのだろが、同時にパリは汚い階級社会であるということも忘れてはならない。貧乏学生は、パリの最下層に寝床を求めるしかない。しかし、この狭い街においてはブルジョア、もしくは最上級の社会がほとんど何の仕切りもなくのぞき見できてしまう。ラスティニヤックも最初は夢を持ってこのパリの街にやって来たはずである。しかし、上流階級の世界をのぞいてしまっては、それを求めずにはいられない。「騒然たるないしは暗黙の堕落が、パリにおいてとっているさまざまの形式にと考え及ぶならば、良識の士は国家がここに学校を設け、全国の青年子弟を集めているのは、なんという甚だしい錯誤であるかを、いぶからずにはいられまい。」(p.477)という一文も作中にある。これは全世界の都市に共通していえる特徴ではないか。例えば日本においても、夢を持って東京に出てきた若者が上流社会に魅せられて堕落していく話などは掃いて捨てるほどある。

 この作品の舞台がパリの街であることは必然であったと言える。分かりやすい階級区別と、その階級間もしくは階級地区間の移動可能性がこの作品の全てと言っても良い。




参考文献
オノレ・ド・バルザック著 小西茂也訳「ゴリオ爺さん」、『世界文学全集9』(p.351-653 )1967年 新潮社
佐野栄一 「『ゴリオ爺さん』における場所の機能」『フランス語フランス文学研究』
47, (p.115-116) 1985年 日本フランス語フランス文学会

(このレポートは、大学一年生時の講義で提出課題用に書いたものに若干の修正を加えたものです)
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フォークナー「エミリーに薔薇を」における人称の特殊性

熊本大学文学部文学科
伊藤祥太


 ウィリアム・フォークナーの「エミリーにバラを」では特殊な視点が採用されている。文学作品の視点は普通、主人公の視点で物語を描く一人称か、いわゆる“神の視点”で物語を描く三人称のどちらかである。二人称の小説も存在するが、数としては少ない。この作品では一人称の視点が採用されているが、通常の一人称小説とは少し異なっている。

 一人称は普通、一人の人物が語り手となる。しかし、ここで用いられているのは複数の一人称だ。“I”ではなく、“We”の視点で語られている。視点が複数あることによって、見える範囲が広がり、情報量が多くなる。見える範囲が広いというのは三人称の特徴だ。しかし、「エミリーに薔薇を」における視点は、主人公であるエミリーのプライベート空間や心の中には入っていけず、三人称としては不完全である。

 また、ここで用いられる人称「わたしたち」はエミリーが住んでいる町の住人全てを指しており、その内部で大きく二つの人々に分けることができる。男性視点と女性視点である。男性の視点では、エミリーは憧れの対象として描かれている。一方、女性の視点に立ってみると、エミリーを敵視しているように感じる。

 このような人称の特殊性はどのような効果をもたらしているのだろうか。まず、エミリーが町の住民全員の注目を浴びているという状況がよくわかる。そうでなければ、このような大人数の視点は生まれえないからである。次に、男女二つの視点を含めることができたのも人称の恩恵によるものだ。通常、二つの視点で物語を語ろうと思えば視点の変更と共に物語を一度区切らなければならない。しかし、最初から人称の中に男女二つの視点を導入することによってその手間を省き、スムーズに物語を展開することができる。また、男と女の心情が連続して語られるので、比較が行いやすく、その態度の差が分かりやすい。そのような効果をフォークナーが狙っていたのかどうかはわからないが、少なくとも私はこの人称設定が上に述べたような効果を付加していると感じた。

 このような“We”視点で描かれた作品を私は初めて読んだ。古今東西、探せば同じような視点を持つ作品を見つけ出すことができるかもしれない。是非探し出して、どのような特徴があるのかを探ってみたい。



(このエッセイは、大学一年生時の講義で提出課題用に書いたものに若干の修正を加えたものです)

編集部より、エッセイ・レポート一挙掲載のお知らせ

こんにちは、LITECO編集部の伊藤です。
この度、編集部伊藤が大学入学時より課題のために書いたレポート等を一挙掲載したいと思います。

掲載に際して読み返してみますと、レポートとは呼べない代物も多々あったのですが、LITECO発展の為に全て掲載させていただきます。

内容的な完成度というより、文字数にてエッセイ・レポートの別をつけて掲載いたします。

このレポートとエッセイが皆様のご寄稿の契機になることを心から願っております。これからもLITECOをよろしくお願いいたします。

芸術と少女の嘘

関西学院大学美学芸術学専修
タカサゴ


 ―――芸術は嘘を重ね、少女は嘘を纏っている

 こんなことを考えるようになったのは高校二年生の夏からだった。同級生の少女たちが化粧をするようになったのだ。そんな様子を「もったいない」と横目で見ていた。せっかくかわいいのだから、化粧をするのはまだ早いのではないだろうか。高校を卒業してからでも良いだろうに。彼女たちは「少しでも背伸びをしたい」という気持ちを秘めていたようだが、まだ素肌がきれいな時期にどうしてそれを隠してしまうのか、わたしには理解できなかった。もうすぐ少女でなくなるのに、そのままを見せてくれればいいのに――そう、思っていた。そんな姿はいわば仮初めの姿であり、彼女たちの全てではなかった。化粧という嘘で隠されたものは決して本質ではないのだ。現実と云う物はだいたいそうだ。とびきりの笑顔を向けてくれても目の奥は笑っていないし、真面目そうなあの子が実はアブノーマルな恋愛を求めていた、なんてこともあった。

 しかし、芸術はそうではない。例えば、映画や演劇、文芸。こういった芸術は現実に存在しながらも非現実を体験させてくれるものだ。いわば現実の中の非現実である。少女の嘘と芸術の嘘との大きな違いは、後者はただの嘘で終わらないところである。映画や演劇には配役があり、いつもの自分とは違う自分を生み出す。文芸は特定の人物に自分の作り上げた世界を生きてもらう。それらにお金を払った人に暫しの間、非現実を体験してもらう。そしてそのあと考える。作者が伝えたかったこと、物語の続き、伏線の整理……と思考は自由に広がる。そこが芸術の醍醐味だろう。こちら側が好きに想像できる余地を与えてくれている。その与えられた余地を埋めるものの大半は「嘘」である。けれどもこの場合の「嘘」は、本質を見せてくれない彼女たちとは違う。己の中で膨らんだ「嘘」は、元の物語に肉付けされる。そしてその肉付けされたものも含め記憶される。少女の嘘は本質に纏わりついているだけのものだが、この「嘘」は芸術の本質と同化していく。「嘘」として生まれたものが最終的に本質の一部になる。お気に入りの文学作品が舞台化・映像化されたが期待外れだった……そんな体験は誰しもあるだろう。それはおそらく記憶されたもの(「嘘」が本質と同化したもの)と見たものの間に齟齬が生まれたからだ。「思い出は美化させるもの」なのだ。

 とどのつまり彼女たちの化粧は芸術ではないということだ。それらは物語を展開させてくれなく、ただただ重ねられるだけである。それ以上もそれ以下もない。また、芸術自身も物語を展開させてくれなく、どうこうするのは芸術に触れた者だ。この部分においては大差がない。しかし、上述したように芸術は嘘を嘘だけで終わらせない余地を与えてくれる。その余地を埋める「嘘」には当然のように違いが現れるが、優劣が生まれるわけではなく、その違いも含めて芸術として飲み込めるのだ。こういったところが芸術と少女の持つ嘘の差なのだ。

届かないようで届く

KMIT
藍那 


 それで何かを変えようなどと思えるのは、きっとまだずっと先の話で、今の僕にできるのは、わだかまってどうしようもないこの思いを、暴れだす前に言葉へ閉じ込めることだけだ。

 僕が小説を書くのは他でもない、僕のためであり、僕はそれで充分だと思っていた。


 転機が訪れたのは、僕のそれを読んだとある女の子が、煙草を吸い始めてしまったことを知った時だった。「煙草を毛嫌いしていた自分が、どうしようもなく下らなく思えたから」。それが彼女の言い分だった。

 僕はその時ひどく動揺して、すぐに煙草をやめるよう彼女に言ったのだが、あっさりと断られてしまった。得体の知れない罪悪感から一刻も早く解放されたかった。困惑する僕に彼女は言った。「あなた矛盾してるわ。じゃあどうしてあんなもの書いたの?」


 これまでずっと気になっていたことがあって、でもその答えを知ってしまったら、僕はもう「書く」という逃げ道を塞がれてしまうような気がしていた。彼女の言葉を理解しようとするなら、僕はもう後戻りができないところまで来てしまったことになるのだ。

 誰にも見せなければ、それは僕だけの世界で終わりを迎えただろうに。でも、結果的に僕はそれを彼女に見せてしまったし、何度考えてみても、僕がそれを誰にも明かさずにしまい込めたとは到底思えないのだ。来るべくして来てしまった事実。知るべくして受け入れざるを得ないこと。本当は聞いてほしくて助けてほしくてどうしようもないのだ。そんなこと、ストレートに伝えられるわけがない。無意識に、創造していた。ただ吐き出すだけではなんの力にもならなかった言葉たちが、ストーリーボードの上で整列したとたん、悪魔のように光を帯びる。生き生きとする。拡声器で語りかける。

 そして、彼女に届いてしまった。僕は目をつむっていただけなのだ。あえて「創造」という形をとるのは、格好つけの照れ隠しだ。


 それで何かを変えようなどと思えるのは、きっとまだずっと先の話で、今の僕にできるのは、わだかまってどうしようもないこの思いを、暴れだす前に言葉へ閉じ込めることだけだ。

 それは今でも変わらない。でも、ひとつだけ変わったとするなら、僕は「創造」が「発信」と同義であることを意識するようになった。それに責任をもつことまでは、まだちょっと文章テクニックが足りないと思う。


 僕は気づいてしまってからも、結局書くことをやめなかった。やめられなかったのだ。彼女が煙草をやめられず、持病の喘息を悪化させてしまったみたいに。

 僕は書くたびに胸が抉られるような思いがする。でもそれは進歩だ。書くことそれ自体に価値はないし、それで自己満足してしまうのなら、その膨大な時間は、もっと直接人の役に立つ労働にあてた方がいい。

 どうして、書くんだろう。書かないと死んでしまうから、と言って甘えられる相手がいたらいいのにな。

 悠久に続く怠惰のなか、またどこかで、自分の言葉が誰かをふいに変えていたりする。それを知った時、僕はうち震えてまた考え出すのだろう。

 仕掛けた爆弾は、忘れた頃に誰かを傷つけるのだ。