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届かないようで届く

KMIT
藍那 


 それで何かを変えようなどと思えるのは、きっとまだずっと先の話で、今の僕にできるのは、わだかまってどうしようもないこの思いを、暴れだす前に言葉へ閉じ込めることだけだ。

 僕が小説を書くのは他でもない、僕のためであり、僕はそれで充分だと思っていた。


 転機が訪れたのは、僕のそれを読んだとある女の子が、煙草を吸い始めてしまったことを知った時だった。「煙草を毛嫌いしていた自分が、どうしようもなく下らなく思えたから」。それが彼女の言い分だった。

 僕はその時ひどく動揺して、すぐに煙草をやめるよう彼女に言ったのだが、あっさりと断られてしまった。得体の知れない罪悪感から一刻も早く解放されたかった。困惑する僕に彼女は言った。「あなた矛盾してるわ。じゃあどうしてあんなもの書いたの?」


 これまでずっと気になっていたことがあって、でもその答えを知ってしまったら、僕はもう「書く」という逃げ道を塞がれてしまうような気がしていた。彼女の言葉を理解しようとするなら、僕はもう後戻りができないところまで来てしまったことになるのだ。

 誰にも見せなければ、それは僕だけの世界で終わりを迎えただろうに。でも、結果的に僕はそれを彼女に見せてしまったし、何度考えてみても、僕がそれを誰にも明かさずにしまい込めたとは到底思えないのだ。来るべくして来てしまった事実。知るべくして受け入れざるを得ないこと。本当は聞いてほしくて助けてほしくてどうしようもないのだ。そんなこと、ストレートに伝えられるわけがない。無意識に、創造していた。ただ吐き出すだけではなんの力にもならなかった言葉たちが、ストーリーボードの上で整列したとたん、悪魔のように光を帯びる。生き生きとする。拡声器で語りかける。

 そして、彼女に届いてしまった。僕は目をつむっていただけなのだ。あえて「創造」という形をとるのは、格好つけの照れ隠しだ。


 それで何かを変えようなどと思えるのは、きっとまだずっと先の話で、今の僕にできるのは、わだかまってどうしようもないこの思いを、暴れだす前に言葉へ閉じ込めることだけだ。

 それは今でも変わらない。でも、ひとつだけ変わったとするなら、僕は「創造」が「発信」と同義であることを意識するようになった。それに責任をもつことまでは、まだちょっと文章テクニックが足りないと思う。


 僕は気づいてしまってからも、結局書くことをやめなかった。やめられなかったのだ。彼女が煙草をやめられず、持病の喘息を悪化させてしまったみたいに。

 僕は書くたびに胸が抉られるような思いがする。でもそれは進歩だ。書くことそれ自体に価値はないし、それで自己満足してしまうのなら、その膨大な時間は、もっと直接人の役に立つ労働にあてた方がいい。

 どうして、書くんだろう。書かないと死んでしまうから、と言って甘えられる相手がいたらいいのにな。

 悠久に続く怠惰のなか、またどこかで、自分の言葉が誰かをふいに変えていたりする。それを知った時、僕はうち震えてまた考え出すのだろう。

 仕掛けた爆弾は、忘れた頃に誰かを傷つけるのだ。
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小規模な世界における文学

KMIT
紀谷実伽留


(テーマでは「『文芸』は世界をどう動かすか」とあるが、今回はそのあたりの定義は考えず、それらに近似するものを全て含めて、「文学」ととらえることにする。そして、どう動かすか、よりも、動かすことができるか、という大前提について話したいと思う。)

 あらかじめ言っておこう。文学は世界を動かす。それが私の見解だ。そう考えてなければ、わざわざ大学になど入り、文学について学ぶこともあるまい。

 そもそも、我々の存在する世界とは何であろうか。数学者たちは数字の羅列と言い、科学者たちは分子の集まりとでも言うかもしれない。彼らはきっと、それらこそが世界そのものであり、世界を動かすものであると考えているのだろう。それはそれでかまわない。

 だが、私はこう考えるのだ。世界は、自分であると。世界は、あなた方であると。ひどく投げやりな見解かもしれぬが、結局のところ、世界とは我々個人が見て、認識してようやく成り立つものだ。我思う、ゆえに我あり。最終的に、確実に存在していると言えるものは、己のみである。ならば、自分の見ている世界が世界そのものなのだ。

 あなたの心が数字の羅列でできているなら、きっと世界は数字の変化によって起きるのだろう。あなたの心が分子でできているのなら、世界は分子で動くのだろう。それと同じことが、文学にも言える。 動かせないと思っている人にはきっとそのように見えるのだろう。それは仕方のないことだ。だから、私は文学の世界に生きる者を代表して、その世界を信じる要因を、もう少しだけ語ることにしよう。

 とは言ったものの、私はさっそく、その主張に一つ付け足しをせねばならぬ。何故、私が文学は世界を動かすことができるなどと主張するかといえば、「文学=人」であると考えているからだ。人がいなければ、観測者がいなければ、世界は生まれない。だから、人を形作る鍵にもなりうる文学を、各々の世界にとっても重要なものとしたのだ。

 いささか、回りくどい言い方になってしまった。非常に簡潔に言ってしまえば、こういうことである。

「文学作品を読んで感動しました」

 その瞬間に、あなたの世界が動いたことになるのだ。文学が、世界を観測するあなたの心を形作る、一つの部品になったのだから。

 古来より、人の在り方を追求してきた哲学者たちは、その考えを文学という形にして我々に残している。あくまでそれ単体では、彼らにとっての世界を示した、ただの文字の羅列にしかすぎない。観測する我々がいなければ、偉大なるニーチェの世界も、私やあなたの世界と同軸上のものになり、リンクすることはないのだから。

 だが、それらの文学作品を読んで、あなたの心に残ったとすれば、それは、あなたの世界になるのだ。そして、そうしてできたあなたの世界を、別の形で発表し、他の誰かの心に残ったとすれば、世界中に存在する「世界」が動いたことになるのではないだろうか。

 最後に、もう一度言っておく。世界は、あなた方です。あなたの世界を動かすものは、何ですか。

世界の繋がりと広がり

KMIT
汐咲里乃

 自分自身の存在が脅かされる。そういった経験はあるだろうか。私は昔、自分を否定され、自分にはなにもないのだと思い込んでいた時期があった。かわいそうなやつだと思われるかもしれないが、そんなときに私を支え、自信を取り戻してくれたのが文芸創作だった。

 そもそも私が文芸というものの魅力に取りつかれたのは小学生のころだ。本が大好きで、図書室に通いつめていた。背伸びをして、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンなども読み漁っているような子供だった。ホームズが犯人を追いつめたり、ルパンが様々な人に変装したりすれば高揚で胸が高鳴るし、彼らが窮地に立たされた時は私まで緊張してしまう。そういった、主人公や登場人物が現実では起こりえないようなスリルに満ち溢れた冒険や、難解な謎に立ち向かう姿には今でも変わらず胸が躍るものだ。しかし、本を読み終えた後はいつだって寂しい。まるで夢から覚めてしまったかのように、読み終えてしまったことを残念に感じたことはないだろうか。本を閉じた後も、私は夢の余韻に浸るように想像を膨らませていた。物語が終わった後の主人公たちはどうなったのだろう? もしもこのシーンで本とは違う展開になっていたら? そんなもしもの世界の空想を広げるだけでは満足できなくなり、自ら物語を書き始めたのがそもそもの始まりだった。

 紙の上の世界は自由だ。本の中では、登場人物が冒険したり、笑ったり泣いたりと自由自在に動き回っている。もちろん、何かに囚われたり縛られたりすることはなく、書いている私が登場人物やストーリーを自由に動かすことが出来るのだ。私の世界は私の物で、それを現実のように脅かされる心配もない。
しかし、その世界が孤立しているかといえばそうではない。それぞれが本を開くことによって紙面の上の文字に込められた著者の世界と触れ、繋がることが出来るからだ。もちろん、受け取り手により感じ方は違うだろう。一人一人の頭の中の世界とまったく同じ世界など存在しないのだから。それは、読者が著者の意図と違う受け取りかたをしてしまう危険性を含んでいるということでもあるが、逆にそこが魅力でもあると私は思う。たくさんの人間がいるのだから、いろんな受け取り方があっていい。いつの日かの私のように、そこから受けたものから広がる世界があるかもしれない。そうやって世界を広げ、繋がる力が文芸にはある。だから私も書き続けたいと思う。いつの日か私の書いた物語が誰かの世界を広げることを夢見て。

合理性、非合理性

KMIT
サイトウ


 現代社会という我々が生きる世界を、文芸が変えられるか否かという問いに、私は否と応えるであろう。

 文芸作品は往々にして社会をテーマに描かれる。それは、社会への反発、疑問から来る、環境改善への働きかけである。しかしながら、それらが生み出すのは流行である。流行が巻き込んでゆくのは主に大衆であって、環境ではない。環境を変えるのは技術である。

 現代は、技術によって打ち出された近代合理主義に支配されている。最早それは、我々の生活の隅々に浸透して、そこで暮らす人々をコミュニティから分断し、個人を覆っている。そのことを最も実感しているのは、他ならぬ我々の世代であろう。

 さてここで、文芸、芸術とは、合理性という枠組みの外に存している。これは芸術というものが、技術や論理の介入しない場所から生まれ出るものであることに因る。芸術はまるで非合理 的で、時に非現実的なものである。では、芸術とは、文芸とは何か。それは、感受すること、表現することである。

 芸術的な事物(芸術作品に限らない。きれいな海など)に出会ったとき、人は自身の感受性を刺激される。そうして体感し、感受したものを表現しようと試みる。家族や友人らにその素晴らしさを語り聞かせるだけで満足する者もいるだろう。むしろ、そういった人が大半のはずだ。しかし中には、それだけで足りず、もしくはそういった会話の中で更に別の感動を得て、それを形にしようとする人がいる。彼は、絵を描いたり、或いは歌詞や楽譜を作ったり、詩を書いたりしたいという衝動に駆られている。それこそが芸術という活動の根源である。感受と表現とは二つで一つのことである。

 こうして生まれた作品には当然、作者の内面が強く現れる。物語世界とはまさに、作者によって作り上げられた、一つの下位世界である。

 ところで、小説や詩を書きたい、という文芸への衝動は、文芸からの感受によってしか生まれないと私は考えている。小説を書きたいという者の衝動は、恐らくその殆どが誰かの小説に感銘を受けたことに因っている。文芸に感銘を受けるということは、他者の内面にある一つの世界を受け入れることである。その作業は、時に読み手の価値観を壊し、より洗練されたものへと再構築する。また、文芸を用いて表現するということは、そうして新たに生まれた、価値観としての世界を具現することに他ならない。

文学と私

法政大学文学部日本文学科
喜多由吏



 幼児は大人に比べて想像力に長けているという。幼少期の私も例外ではなかった。台所の隅の暗闇の中にお化けの姿を見たり、雨模様の空に雷様の姿を見たりしたものだ。そんな風であったから、本を開けばすぐに主人公に感情移入し、本の世界の中に入っていった。その楽しさが忘れられず、私は文学部日本文学科を志望した。今はもうお化けや雷様は見えなくなってしまったが、本の中の世界には今も楽しませてもらっている。

 今の話が文学と何の関係があるのかと思っている方もいらっしゃるだろう。しかし私は文学の楽しさは他人の創作した世界を覗き見るところにあると思っている。だから幼少期の私が感じた楽しさこそが、文学の醍醐味であったと考えているのである。

 ところで、文学とは何であるか。辞書で調べると“言語を用いた芸術”とある。言語というのは我々にとって最も身近なものである。朝起きればおはようと言うし、腹が立てばチクショウと叫ぶ。こうして当たり前のように溢れている言語を文章という芸術作品に仕上げることで、様々なことを伝達できるようにする。それが辞書的な意味での文学である。この点から私は、文学とはもっとも道具の要らない芸術表現だと考える。また、文学とはあらゆる手段で後世まで残すことが出来る。土器に刻まれた文字や源氏物語などの古典文学が現在でも閲覧可能である状況からも分かるであろう。もっと壮大な表現をすれば、自分が生きた証を残すことができるのだ。それゆえに私は、文学とは一種のアイデンティティとしても言い得るものだと思う。

 今挙げたものは、あくまで文学を専門的に学んでいないものの持つイメージに過ぎない。私は文学部で、文学への理解を深めたいと思う。専門的な知識が不可欠であるとは思わないが、文学が好きな自分にとって専門知識は必ずや生きる上でエッセンスとなるであろう。しかし文学とは何も選ばれた者だけが学べるものではないのだ。文学についての知識がなくても、文学を志す意思があれば、そこが文学への入り口になると私は思う。難しそうだからとなんとなく敬遠している人も、とりあえず入り口から覗いてみてはいかがか。意外な楽しみに出会えるやもしれない。