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『こころ』のKは何故自殺したのか? 複合的観点から見えるもの

熊本大学 文学部文学科
伊藤祥太

はじめに

 Kは何故自殺したのか。この問いに究極的な答えを与えるのは大変難しいことであり、不可能と言っても差し支えないだろう。Kの心情を析出するには、形式的には「私」の一人称視点、実質的には先生の一人称視点から見たものを頼りにするしか無いからだ。

 これがKではなく先生の自殺の理由を探るということになっても、完璧な理由を与えることはできない。先生自身が語ることによれば、Kへの罪悪感から逃れるために「死んだつもりで生きて行こう」と決心した後、明治天皇の崩御と乃木大将の殉死によって自決することを決めたという。しかしこれが本当かはわからないところで、社会学者のデュルケムは『自殺論』の中でこう書いている。

われわれは、自分の行動の真の動機を見誤っていることのなんと多いことか。われわれはたえず、とるにたらない感情や盲目的習慣に動かされている行動を、崇高な情熱や気高い配慮によるものであるかのように説明しているのだ。

 つまり、自殺行動を起こした真の原因は自殺をした本人にもわからない、あるいは誤っている可能性が多分にあるのである。これは、自己認知を際限無くメタ化することができるという事実から容易に推測することができるだろう。最終的に自分が自殺する理由を見つけたとしてもそれはメタ構造の中のただ最終にあるだけであって、下層には死にたくないと思っている自分が存在していないとも限らないし、さらに上層まで行くことができたならば、自殺行動に至らなかったのかもしれない。Kの自殺について考えるということは、外部からKの心情をさらにメタ化するということに他ならないのではないだろうか。

 しかし、メタ化するに際しても様々な問題が付きまとう。私たちのメタ的視点は、一体どの位置に立てば良いのだろうか。『こころ』はかなり複雑な構造となっていて、一応の最下層をKとするならば(Kの内心もさらに構造化することができるので、本当は最下層ではないのだが)、その上にそれを観察する先生が存在し、先生の中でさらに構造化された内容が「私」に伝えられる。そして「私」の上に過去の「私」を語る書き手としての未来の「私」が存在していて、その上に「夏目漱石」が存在する。これから私がKの自殺に語るにおいて、様々な階層を行き来することになることをここであらかじめ断っておきたい。「Kの心情」「先生の心情」あるいは「漱石の意図」は何だったのか、こういうことを複合的に考えた上で論じ、一つの結論を出してみようと試みる。

 また、私はある一つの諦観の上にこの論考を進めなければならない。フィクション上の人物であるKが何故死んだのか、という問い自体にそもそも答えが用意されているはずもない。創造者である漱石がその死について考えることと、私達読者が考える死の理由が違っていても何ら不都合はないのである。これは私が到達したある一つの私的な真実であるということを心に留めながら読んでいただきたい。

Kの自殺への道程

 Kの自殺を考察するにあたって、まずはKの自殺への道程を確認しておこう。Kは「真宗のお坊さんの子」であり、「彼の行為動作はことごとくこの精進の一語で形容され」、「ふつうの坊さんよりはるかに坊さんらしい性格をもっていた」という。つまり、Kは自罰的な性格的傾向を持っており、これによってKは神経衰弱に陥っているように先生は見ている。「なまじい昔の高僧だとか聖徒だとかの伝を読んだ彼には、ややともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました」と先生が語っていることからもその性向の顕著さが見てとれるだろう。こんな状況を見るに見かねた先生は自分の下宿先にKを連れてくる。ところが、自分が先に目を付けていたお嬢さんに対してKが恋心を抱いてしまう。その恋心を阻止するために、先生は以前Kが自分に向かって放った「精神的に向上心のないものは、ばかだ」という言葉でKを「恋」から「道」へと戻そうとしてさらに追及をしていった結果、Kの「覚悟?」「覚悟、――覚悟ならないこともない」という言葉を引き出す。先生はこの「覚悟」という言葉を「Kがお嬢さんに対して進んで行くという意味」に解釈し、一週間後に奥さんに「お嬢さんを私にください」と言う。Kがその事実を知ったのは数日後のことで、先生がどう対処しようか考えているうちにKは頸動脈を切って死んでしまう。

Kと仏教

 Kの実家は真宗のお寺であり、この影響を無視することはできないだろう。布施豊正は『自殺と文化』で次のように述べている。

仏は無明の衆生を慈しみ、無常の、生ある者必滅の人生を衆生とともに悲しみ(これが慈悲の意味である)、このはかなき浮世を「死」によって解脱するものと教えている。だから、端的にいって、「生にもとづく」キリスト教とは逆に、「死からはじまる」宗教なのである。

 この言説をKの自殺に応用するにあたって、二つのレベルで捉える必要がある。まず、Kの心の内に仏教が「死からはじまる」宗教であるという認識があったのかどうか。さらに言えば、これを書いている漱石自身の知識として、同じような認識があったのかどうか。仮に漱石に仏教に対してこのような知識がないとして、Kがこのような知識を持った人物として成立することが可能だろうか。私はもちろん可能だと結論づける。というのは、漱石は何かしらKの材料となるような人物像があって、その人物像を形成するうちに仏教の自殺への考え方が必ず影響していると考えているからだ。ゆえに、漱石は無意識のうちに仏教に強い影響を受けている人は自殺しやすい傾向にあったと感じていたかもしれない。その意味で、Kの心の内と漱石の知識とは分離可能なのである。

「恋」と「道」の対立

 Kの内面で「恋」と「道」の対立があり、それが直接的にせよ間接的にせよKの自殺に関連があったことは疑いの余地がないであろう。この対立のうちに、Kがどのような解答を導き出して死んだのか、これが『こころ』を読む者あるいは研究する者にとって考えるところのあるテーマだろう。この論ではまず、「Kは失恋したことで死んだのか?」ということを出発点にしたいと思う。表層的な理解をするならば、Kは先生とお嬢さんの成婚の報せを受けて死んだのだから、当然その失恋が原因で死んだというべきだろう。先生もそう考えているからこそ、Kが死んだ後に友人からその自殺の原因について尋ねられたときに「早くお前が殺したと白状してしまえという声」を聞くことになる。Kが死んだ直接的原因は自分にあり、それは、お嬢さんをKから奪ってしまったことにあるのだと。

 しかし、自殺の原因がそれほど単純なものだろうか? 先生はお嬢さんと結婚した後に、以下のように考える。

同時に私はKの死因をくり返しくり返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kはまさしく失恋のために死んだものとすぐきめてしまったのです。しかしだんだんおちついた気分で、同じ現象に向かってみると、そうたやすくは解決がつかないように思われてきました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不十分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で寂しくってしかたがなくなった結果、急に処決したのではなかろうかと疑いだしました。そうしてまたぞっとしたのです。私もKの歩いた道を、Kと同じようにたどっているのだという予覚が、おりおり風のように私の胸を横ぎりはじめたからです。

 ここに言う「現実と理想の衝突」とはそのまま「恋」と「道」の対立と言い換えることができるだろう。さて、この先生の最終的なKの自殺への理解は甚だ抽象的である。これまで述べられてきた先生の気持ちと読み手の気持ちを一致させることで感覚的には理解することが可能であるが、自殺の原因をここから探り出すことはできない。

 先生は「失恋」→「現実と理想の衝突」→「寂しくってしかたがなくなった」という三つの段階で結論に辿りつくわけだが、原因というものを考えるとき、やはりこの二段目「現実と理想の衝突」を熟慮しなければならないように私には思われるのである。この「現実と理想の衝突」に対して、Kはいかなる答えを出したのか。

 私はKが失恋によって死んだのだという表層的理解に疑問を呈しながらも、やはりそこに理由があるように思う。Kの自殺が失恋に基づくものであることを絶対的に保障するのは、Kが「覚悟、――覚悟ならできている」の直後ではなく、先生とお嬢さんの成婚の報せを受けてから自殺したという事実である。ところで、精神科医の中広全延氏は以下のようにこの私とは反対の意見を述べている。

《K》の自殺が誇大な自己の崩壊にともなう自信喪失や無用者感による、とここで仮定しよう。その場合、作者漱石としてはすぐに、あるいはあまり日をおかず、《K》を自殺させたいはずである。ただしストーリーの展開として、この時点で《先生》はまだ結婚の申し込みをしていない。作者はまだ《K》を自殺させるわけにはいかない。そこで、「上野から帰った晩」《K》が襖を「二尺ばかり」開けて《先生》の様子をうかがうシーンが「下 四十三」に挿入されたと私は考える。

 この小説が新聞連載小説であることを考えれば、既に先生とお嬢さんが結婚していることを動かすことはできないから、矛盾を回避するためにこのシーンを挿入せざるを得なかったという論理は確かに筋が通っている。つまり、ここにはKの心情が如実に現れているのではなく、漱石が仕方なく作為的に操作をしたのだということである。しかし、私はこれに首肯することができない。仮にKが成婚の報せを聞く前に自殺したとしても、先生はお嬢さんと結婚したのではなかろうかと私には思われるからだ。Kの自殺の後、それが自分のせいだと感じる先生は、別にお嬢さんとの婚姻を破棄することができただろう。しかし、そうはしなかった。先生はこの結婚についてこう述べている。

年来の希望であった結婚すら、不安のうちに式をあげたといえばいえないこともないでしょう。しかし自分で自分の先が見えない人間のことですから、ことによるとあるいはこれが私の心持を一転して新しい生涯にはいる端緒になるかもしれないと思ったのです。

 ここには、Kを忘れ去ることができるのではないかという先生の希望的観測が描かれている。この希望的観測を、成婚が決まる前にKが自殺したからと言って、先生は持たなかったと言えるだろうか? お嬢さんや母親の方ではKの自殺に遠慮して少し婚期をずらそうと試みただろうが、二人のうちでも先生とお嬢さんの結婚は決まったも同然だったわけだから、先生の方にこの希望がありさえすれば、ストーリー上の矛盾は起こらないはずなのである。

 Kが「覚悟、――覚悟ならないこともない」と言ったとき、Kの頭には自殺という言葉がよぎったかもしれない。Kは自殺をする覚悟がある、という意味でその言葉を発したかもしれない。しかし、その気持ちはまだ決定的ではなかったのだ。その気持ちを決定的にしたものが、何度も繰り返すが、先生とお嬢さんの成婚の報せなのである。

 Kは絶望のために死んだのだろうか。この絶望というのが、先生の言う「たった一人で寂しくってしかたがなくなった」という気持ちに近いかもしれない。ただ、それだけではKの自殺が示すものとしては足りないような気がする。

切腹の類型の応用

 私はここに、日本独特の自殺形式である切腹の類型を応用してみたいと思う。先に引用した布施豊正氏は切腹をいくつかの類型に分けている。大別すると、「本人の自由意思によってなされるもの(いわゆる自刃)と、本人の意志に関係なく、刑罰としてむりやりおしつけられた切腹(すなわち、詰腹)とにわけられる」。この大別の中の詰腹をさらに細分化すると、「無念腹」「憤腹」「刑死」とがあって、Kの自殺というのは実はこのうちの「憤腹」と共通項があるのではないかと考える。「憤腹」というのは「自分の憤慨を切腹にぶちまけてするのを指す」という風にある。つまり、Kは自分が死ぬことによって自分の怒りを示し、先生に罪の意識を背負いこませようとしたのではないだろうか。Kがこのようなことを明確に考えていたかどうかは分からない。しかし、表層的にせよ深層的にせよ、「憤腹」のような心持があったのではないだろうか。「憤腹」は「無実の罪を憤ってする切腹」という説明もなされている。Kは果たして何か罪を犯しただろうか。自分は罪を犯していないというメッセージがこの自殺にこめられていたのではないだろうか。

 Kは決して先生を責めることはしなかった。しかし、それは逆説的に責めないことが責めることになる、という心持ちがKの中に潜んでいたのではないだろうか。Kの遺書で先生に対する恨みつらみが書いてあれば、先生はもっと深い罪の念に苛まれたことだろう。しかし、それはともすれば先生の罪を浄化してしまうことにもなりかねない。罰を受けたという意識が、先生の罪を洗い流してしまう。Kは言外の圧力をこめる道を選んだのだと私には思えてならない。語らないことによって、先生に罪の意識を長く残すことを選んだのだ。

努力主義ということ

 日本人は過程と結果を比べたときに、過程を重視してしまいがちである。Kにとって、これから生きるか死ぬかということよりも、過去を肯定するか否かということの方が重要であったのかもしれない。「道」の思想というのは、これまでKが何に代えがたい、絶対に曲げない個人的な真理のようなものであった。そのためには養家や実家を騙すことを厭わなかったし、友の助けを甘んじて受けようとはしなかった。Kにとって、「道」は彼のアイデンティティの根幹をなしていると言っても良いだろう。そんなKにとって、お嬢さんへの恋心というものはそんなアイデンティティの根幹を揺さぶるほどの大事件であった。彼は新しく出会った価値にすがりつけば良かったのだ。それが何故できなかったのかと言えば、彼は自分の過去を捨てたくなかったのである。二十余年を無に帰することが怖かった。ここに、私は日本人の努力主義を見る。努力したことが全てだと思っているから、今どの方向へ行くべきかを見誤ってしまう。Kが先生に「精神的に向上心のないものは、ばかだ」と言われた時に、これから「道」に戻ろうとしていたのか、それとももう戻ることはできないと考えていたかどうかは明らかではない。しかし、ここで過去の物語を捨てきることができなかったことは、間違いなくKの自殺の要因につながる。

結論

 Kの自殺観念のうちに、彼の出生の関係などから推察して仏教的な「死からはじまる」というようなものが関わっているであろうことは既に述べた。Kはそもそも生にそれほど執着しない性格であったと見える。そのうち、Kは「恋」と「道」の間で揺れ動いていくこととなる。あちらが立てば、こちらが立たぬのだ。Kは日本人的努力主義の文脈において、過去を捨てて恋の方面へと邁進することができず、新しい考え方に己を埋没させるkとができなかった。ここにKの弱さを見るべきだろう。そうしてKが足止めをくらっているうちに、先生はお嬢さんとの成婚を確実なものとしてしまう。これはKにとって大きな衝撃であった。この衝撃が、Kの自殺を思い立たせる直接的な原因になっただろう。もちろん、遺書に書いてあるように「自分は意志薄弱でとうてい行先の望みがないから、自殺する」という思いもあっただろう。先生の想像するように、「たった一人で寂しくってしかたがなくなった結果」も原因に関わってくるだろう。そしてそこに、私は日本に伝統的な自殺方法である切腹の位置形態である「憤腹」のような思考がこの自殺にこめられている気がしてならないのだ。Kは先生を言葉で責め立てることはせずに、死ぬことで憤怒を示したのだ。

終わりに

 Kは何故自殺したのか、という当初の問いにいくらか満足のいく答えを付与することができたような気がする。私の辿りついたのは個人的な真実である。また、この真実は変わるかもしれない。しかし、私のこの真実が誰かの真実となり、また真実への足掛かりとなることを願ってやまない。

 また、今回の論考では仏教についての考察がいささか浅い感を否めない。今後は仏教思想がどうKに影響していたのかを中心にして研究を進めたい。





<参考文献>
中広全延(2010)「《K》はなぜ自殺したのか? : 夏目漱石の小説『こゝろ』に関する精神医学的解釈の試み」『夙川学院短期大学研究紀要』39,pp.41-49、夙川学院短期大学
布施豊正(1985)『自殺と文化』新潮社
デュルケーム著・宮島喬訳(1985)『自殺論』中央公論社
なお、この論考のための『こころ』のテクストには、『こゝろ』(2004年 岩波文庫)を用いた。
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私が考える自殺と文学の行く末

志賀陵磨


 自殺と言うと何かと物騒で陰鬱な感じがしないでもない。一方で『The Book of Bunny Suicides』は自殺を笑いに変えていたりする。『The Book of Bunny Suicides』が文学と言えるかと言えば中身は限りなく漫画に近い絵本だから恐らく文学とは言えない。それでも日本では自殺をネガティブに捉える本がとても多くて、例えば『The Book of Bunny Suicides』のようなイラストを中学生が書いたりする。その中学生が自殺でもしようものなら日本のメディアはこぞって心の闇が云々とシリアスな音楽と共にイラストが全国に流されてしまう。私はそう言うことにいい加減飽きていて、どうせならもっと開けっ広げに、人間が自由に決めた行動の一端のように認めた方が良いと思っている。その点で法律に“自殺罪”が無いのはとても良いことだと私は思う。つまり私は自殺肯定派の立場なのだが、手元に丁度2冊ほど自殺がかかわる本があったので、それらを参考にして今回のレポートの条件に合わせたい。

 まず1冊は『人間失格』である。言わずもがな太宰治の代表作だが、フィクションにしては作者の人生とシンクロする点が多い気が私はしているが、一応フィクションとして今回は位置づけようと思う。主人公の大庭葉蔵の半生が語られるわけだが、死のうとしたり死にかけたりしても一向に死ぬ気配がない。勿論、主人公の独白で物語が進む関係でページ半ばに死ぬようなことは中々考えられないが、それにしてもしぶとい。タイトルからして文章全体にもネガティブな雰囲気が漂うが、これは恐らく主人公は死なないのだと私は読了後に思ってしまった。

 さて、もう1冊を参考にしなければならない。『卒業式まで死にません』である。2000年に出版された南条あやによるエッセイである。主に1998年5月から1999年3月までの作者の日記によって構成されている。日記ではあるが、その文章の受け取り手が存在し、文章も一般的な日記よりも自分以外の受け手を意識した文章である。読んでいると多数の向精神薬の名前が挙がり、医師からの処方無視も良いところ、オーバードーズも軽々こなす作者で、リストカットも日常茶飯事に行う。文体は基本的に明るい。しかし一方で常に危うくて、読んでいていつ死んでしまうのか気が気でない。ページ数から予想してまだ死なないだろうと考えられても、死んでしまう不安は消えない。日記は3月17日にレキソタン20mgを服用したところで終わっているが、その後の1999年3月30日に作者は死去した。蛇足だが、後づけの作者の略歴を読む限り自殺ではないようである。

 2冊の時代の隔たりが大きく、またその文学的な価値も大きく異なるものの、これら2冊は自らの命というものを人間が意識した時の心情を表現していると私は思う。また、自殺が良いのか悪いのか、そのように考えるのはあくまで周囲の役割で、実際に自分が死ぬべきと考え行った結果を担う中枢がどこにあるのかを表している。また、自殺という方法で自分の命をどれくらいコントロール可能なのか挑戦しているようにも見える。物理的には常に死ねるように私達の環境は整っているから、後は選択の問題である。現代の包丁は十分尖っているし電車も十分なスピートで走っている。一方でそれを選択しないのは、単純な意志とは別の次元にあると私は思えて仕方ない。死のうとして死ねない大庭葉蔵も原因の断定は難しいが死去した南条あやも、死のうと思うことはあるのである。一方で、そこで死ねるのか否かは別の次元の問題で、ではその次元は一体どこにあるのかと言えば分からない。死ねない人は死ねないままだし、死ねた人に尋ねることはできない。それをまるで意識できる問題として捉えていく考え方には理解の限界があると私は考えている。

 では、そのような問題に文学はどう関わっていくべきなのか。自殺肯定派の私としては、自殺を題材にしたポジティブな作品があっても良いと思っている。暗く重苦しい自殺のイメージを払拭すれば少なくとも自殺が悪いことであり、また自殺を思う者は悪であるといった印象は薄れていくように思う。自らの命を自らの力で終わらせようとする人間に生半可な言葉で語りかけるような文学は無礼であるし、生きることを奨励する文学はむしろ対極で、死のうとする者はそのような正論にあえて抗っているのである。

 そういった人々に一体どれくらい文学に託したメッセージや作者の思いが届くのか分からない。ましてや自殺を思うまで繊細な読者がどこまで感じてしまうのか、自殺を題材にした文学の影響力を私達はまだ知らない。一方で、自殺をしようと思わない人々に向けた文学は、人々の自殺に対する概念を壊しにかからなければならないだろう。自殺大国日本としての文学はまだ自殺はネガティブなものとして捉えているようである。勿論、ないに越したことはないだろうが、だからといって自殺がなくなればそれで良いということもなく、自殺に至らないような水面下の動きがなくなる時まで自殺の問題は終わらない。




参考文献
Andy Riley(2003). The Book of Bunny Suicides Hodder & Stoughton, Ltd
太宰治(1990). 人間失格 集英社
南条あや(2000).  卒業式まで死にません 新潮社

「侘びしさ」の正体 ―太宰治が抱く女性―

フェリス女学院大学 日本文学科
奥村七海

一、「氾濫してゐる感受性」

私達は、人付き合いを円滑に進める為、時に愛想笑いや建前と言った「芝居」を必要とする。それは自然なふるまいであったり、はたまた「苦肉の芝居」であるかもしれない。あまりに生活の一部となり過ぎて気づかずにいることもあるが、ふと、そんな「芝居」や「道化」が嫌になる夜が来はしないだろうか。

 昭和の作家、太宰治は、『女生徒』の中で、若い女性の心情を、こう描写している。
私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないんだもの。いまに大人になってしまへば、私たちの苦しみや侘びしさは、可笑しなものだつた、となんでもなく追憶できるやうになるのかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していつたらいいのだらう。(『女生徒』(1) 一九〇頁)

 『女生徒』は、当時二十歳であった一読者、有明淑より受け取った一冊の日記に基づいて書かれ、昭和十四年四月発刊の「文學界」創作欄に掲載された、太宰治による女性独白文体の小説である。起床から就寝までの短い一日を綴った、同作家の女性独白文体の小説の中では『斜陽』に次ぐ長い作品で、当時の文壇に於いても高い評価を得た。

 右にあげた一節は、『女生徒』の語り手である若い女性、「私」が、夜中に洗濯ものを片付けながら、若さゆえの戸惑いをあらわにする場面である。ここに描きだされた「私」の心情には、太宰治が作家として描き続けた「侘びしさ」が最も色濃く現れているように思う。というのも、彼の残した小説の多くを女性の視点から描かれた作品が占め、その作品のなかで彼は「氾濫してゐる感受性」(『火の鳥』(2) 三三八頁)を主軸に細かく女性を観察、描写している。特に『女生徒』にはその洞察力に基づく描写が顕かだ。彼は、自らの内面に「氾濫する感受性」を、女性という自分とはまったく異質な存在に語らせることで女性の物語を書いていたとも考えられる。すなわち、太宰治の女性の物語は、彼の得意とする女性の視点を通して、自らの抱く「侘びしさ」、「苦しさ」を描いた作家自身の独白文なのではないだろうか。

 角川文庫版『女生徒』の解説(3) に、小山清は「女の物語には、太宰治という作家の、いろんな時期の心の投影が色濃く出てい」ると述べている。彼の主張によれば、太宰治が様々な時期に女性独白文体による作品を残し、またその中に様々な作家自身の姿を描き出していたことがうかがえるはずだ。

 ここでは、『女生徒』をはじめとする女性独白のスタイルが用いられた作品、また太宰治が自らを描こうとしたと言われる『思ひ出』、『人間失格』を通し、太宰治があえて女性に託そうとした、作家自身の「苦しさ」「侘びしさ」、そしてなぜ女性を用いて描こうとしたのか、について考察していきたい。

二、作家「太宰治」の独白

 でははじめに、太宰治の作品における「苦しさ」、「侘びしさ」にはどういった意味があるのだろうか。ここでは、彼の作品の様々な場面に登場する「道化」というフレーズ、またそれを連想させる言葉たちをキーワードに見ていきたい。
橋の上での放心から目覚めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行く末を考えた。橋をかたかた渡りながら、いろんなことを思い出し、また夢想した。そして、おしまいに溜息ついてこう考えた。えらくなれるかしら。その前後から、私はこころあせりをはじめていたのである。私は、すべてに就いて満足しきれなかったから、いつも空虚なあがきをしていた。私には十重二十重の仮面がへばりついていたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかったのである。(『思ひ出』(4) 四七頁)

 作家自身が、幼時からの思い出を、悪を、飾らずに書いておきたかったと述懐する自伝的小説、『思ひ出』を引用した。叔母に育てられた小学校以前から、中学校に上がった後までの、いわば、作家が津島修治であった頃、を書いたもので、まさに作家の根底にある「道化」を告白した文章と言えよう。

 さらに右の引用と酷似する語りが『女生徒』にあることにも注目すべきだろう。
人のものを盗んで来て自分のものにちやんと作り直す才能は、そのずるさは、これは私の唯一の特技だ。本当に、このずるさ、いんちきには厭になる。(中略)そのような失敗にさえ、なんとか理屈をこじつけて、上手につくろひ、ちやんとした様な理論を編み出し、苦肉の芝居なんか得々とやりそうだ。(こんな言葉もどこかの本で読んだことがある)
 ほんたうに私は、どれが本当の自分だかわからない。(『女生徒』一六〇頁)

 『思ひ出』の「私」と合わせて見ると、『女生徒』の「私」にも、作家の「道化」が色濃く書き出されていることが分かる。

 佐藤泰正は太宰治の文学について、「本当のおれって何だという、そこまで自意識が分裂したというか、あるいは人間性、人格が解体したというか、そういうところまで追いつめられたところから彼の文学は出発している」(『漱石・芥川・太宰』(5) 二三六頁)と述べている。

 確かに、初期作品の『思ひ出』、『道化の華』、そして後期作品である『人間失格』にも、「道化」で以て自らを傷つけぬように「芝居」をしながら生きてゆこうとする登場人物らが描かれた。そしてその「道化」や「芝居」をせねば生きられない彼らの「侘びしさ」「苦しさ」が、読者にも容易に理解できるよういくらか具体的に書かれているのが『女生徒』ではないだろうか、というわけなのだ。

 以上のように様々な作品を並べてみると、太宰治の作品に独白の文体が多く見受けられるのは、作家自身の「道化」が為せるものだと考えられはしないだろうか。「自意識が分裂した」、あるいは「人格が解体した」彼にとって、創作活動というのは、いわばアイデンティティの復活をもくろむものであったのだ。

 彼の作品の多くは私小説のように書かれており、巧みな語りで物語を展開していく。彼の語りの多くは、太宰が津島修治であった時期からの、自己に対する「芝居」とも言えよう。

 また『女生徒』は、実在の女性である有明淑の手記であった。原本は現在、青森県近代文学館に所蔵してあり非公開となっている。『女生徒』は、一人の女性の日記を書き写したものとも言えるだろう。しかし、『「女生徒」のこと』(6) において、最後の部分はほとんどが太宰治による創作であると、作家の妻である津島美知子は語っている。すなわち太宰治は、日記の中の少女に自らを重ねることで、作家自身でも、また有明淑という一人の女生徒とも異なった、まったく新しい「私」と自称する人物を作り、「道化」によって小説を編み出したのだ。

 作家、太宰治は、「道化」、「芝居」をなくしては生きることすらままならない「苦しさ」、「侘びしさ」を、作家が女を装って「芝居」することにより、「私」の言葉として語らせるべく、女性独白文体を用いたのであろう。

 太宰治の小説とは、虚構の中に、事実を織り交ぜた、フィクションでありながら、読者にはノンフィクションとの境を見失わせるような作品へと仕立てた、作家自身の「道化」の形なのだ。

三、女性であるということ

 作家の「道化」的性向の体現が、独白であるならば、彼はどうして、あえて女性になりきることを選んだのだろうか。ここに、いくつか女性の物語を例に挙げていく。
・私は人間をきらひです。いいえ、こはいのです。人と顔を合せて、(中略)言ひたくもない挨拶を、いい加減に言ってゐると、なんだか、自分ほどの嘘つきが世界中にゐないやうな苦しい気持になつて、死にたくなります。(『待つ』(7) 三六頁)

・胸がうづくやうな、甘酸つぱい、それは、いやな切ない思ひで、あのやうな苦しみは、年ごろの女のひとでなければ、わからない、生地獄でございます。(『葉桜と魔笛』(8) 二一八頁)

・女つて、こんなものです。言へない秘密を持つております。だつて、それは女の「生れつき」ですもの。泥沼を、きつと一つずつ持つて居ります。(『皮膚と心』(9) 八六頁)
 『待つ』、『葉桜と魔笛』、『皮膚と心』は、一九四二年博文館より発刊された太宰治による女性独白作品のみを集めた作品集、「女性」に『女生徒』の他多数の女性独白文体にの作品とともに所収された。

 これらは、『女生徒』とおおよそ同じ時期に書かれた作品であり、いくらか『女生徒』に似た描写も多く、ここにもやはり、「氾濫してゐる感受性」が描かれている。
・まるで嘘ついて皆をだましてゐるのだから、今井田御夫婦なんかでも、まだまだ私よりは清純かも知れない。(一七九頁)

・毎日、幾百、幾千の見たり聞いたりの感受性の処理ができなくなつて、(一五七頁)

・だんだんいけない娘になつてしまつた。ひとりきりの秘密を、たくさん持つやうになりました。(一八五頁)

 このように並べて見ると、「大人になりきるまでの、この長い厭な期間を」、「苦しさ」、「侘びしさ」を持て余しながら過ごしている若い女性の姿がみえてはこないだろうか。

 太宰治は、何故巧みに女性の言葉を操り、心情の描写を出来たのだろうか。『皮膚と心』にはこうある。
女には、一日一日が全部ですもの。男とちがふ。死後も考えない。思索も、ない。(八五頁)

 この短い一節に対し、作家が女性の姿をよく捉えていることが伺える、という見方をする研究者も多い。しかし、彼の描く女性は誰もが瞑想し、考える。『女人創造』(10) に於いては、「ああ、僕は、女ぢゃない。女は、瞑想しない。女は、号令しない。女は、創造しない。」(一二五頁)と、改めて男性の立場から女性をとらえることによって批判ともとれる言葉を残した。この言葉と、創作において太宰治が綴ってきた女言葉の上にある矛盾は、なんであろうか。

 斎藤明美は、太宰治の女性独白文体に対し「女性語りの方法は、現実社会で敗者となった太宰の心情を表現するのにふさわしいもの」(『太宰治大事典』(11) 一七五頁)と考察している。彼女の言うように、作家自身の私生活は常に不安に脅かされており、乱れた生活が下地となって、作家として苦しめられた時期もあったようだ。そういった点では、当時、思想を持つことをよしとされない弱者であり、私的な生活の中のみにあった市井の女性に、生活によって正当な評価を得ることができなかった、つまり社会的弱者の様でもあった作家自身を重ね合わせているようにも見える。

 また、太宰治は「一刻一刻の、美しさの完成だけを願つて」(『皮膚と心』八六頁)いる女性の、その「一刻一刻」に身を任せるような独特の話し言葉を用いることで、作品に軽快なリズムが生まれることもわかっていたようである。女性の、次々に興味が移り軽やかに話題を変えていく、対話の独特なリズムが、読者のみでなく、その女性のリズムに乗せた表現を試みる作家までをも巻き込み、まるで読者のうちの個人と談話しているかのような自然さが成立するからこそ、「自己の伝えたいことが自然に投影でき、形として、一つの表現方法として、意識的に用いられた」(『スタイルの文学史』(12) 一四七頁)のだ。

四、「道化」の青年、大庭葉蔵

 しかしながら、太宰治の独白文体による作品は、女性視点のみというわけではない。「道化」は女装にとどまらず、男性を中心とした物語にも見られる。「大庭葉蔵」こそ、その代表的な例であろう。

「大庭葉蔵」とは、初期作品の一つ、『晩年』と、作家が最後の年に着手した『人間失格』に登場する青年だ。どちらの「大庭葉蔵」も、己を傷つけまいとして「道化」を演じ、人とつながりを持とうとする青年であるが、この二作にも、『女生徒』に通じる描写があるのだ。
・彼らは、腹の底から笑へない。笑ひくづれながらも、おのれの姿勢を気にしてゐる。彼らはまた、よく人を笑はす。おのれを傷つけてまで、人を笑はせたがるのだ。(『道化の華』(13) 一二二頁)

・それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れてゐながら、それでゐて、人間を、どうしても思ひ切れなかったらしいのです。さうして自分は、この道化の一線でわづかに人間につながることが出来たのでした。(『人間失格』(14) 四〇四頁)
両作品ともに、必死の「道化」が見受けられる。ここで、もう一度『女生徒』を振り返ることにしよう。

・上手につくろひ、ちやんとした様な理論を編み出し、苦肉の芝居なんか得々とやりさうだ。(こんな言葉もどこかの本で読んだことがある)
 ほんたうに私は、どれが本当の自分だかわからない。(『女生徒』一六〇頁)

・「自分は、ポオズを作りすぎて、ポオズに引きずられてゐる、嘘つきの化けものだ」なんて言つて、これがまた、ひとつのポオズなのだから、動きが取れない。(同一六八頁)
 「大庭葉蔵」と「私」この二人の、あるいは三人の人物には共通した面を持っているように見えないだろうか。右へ引用した『道化の華』、『人間失格』、また『女生徒』からは、一章へ記したように、自らを偽った彼ら自身、言うなれば「十重、二十重の仮面」をはずすことができずにいる彼らの姿が浮かんでくる。語り手たちは「道化」を見事に演じ、自身の「人格が解体」してゆくのをただ虚しく見送っているか、すでに「解体」した「人格」を再び取り戻そうとあえいでいるのだ。

 特に、『人間失格』は、「作家が自身の文学の最高の形で書き上げた遺書」(「『人間失格』をめぐって」(15) )とも評される。太宰治は、自身の心情を、『思ひ出』から『道化の華』、そして中期の女性独白文体の作品、最後には『人間失格』へと、徐々に明確にしていったのではないだろうか。作家と親交のあった臼井吉見は、評論「『人間失格』をめぐって」の中で、太宰治の独白文体についてこう触れている。
近頃の作品には女を主人公にしたものが多く、女をかりて逆説的に、いわば小出しに自己を語って来ていたが、今度はいよいよ真正面から全面的に自己を語るのではなかろうか(後略)(六〇六頁)

 右に見られるように、作家、太宰治の死後から現在に至るまで、「大庭葉蔵」と太宰治は同一視されがちであった。それは、『人間失格』という作品があまりにも作家の私生活に近すぎる内容であったからだろう。そして、彼が男性作家であるのに、女性の語り手らもまた、太宰治自身であるとされてきた。作家自身が男であったにせよ、女性として語ることを切り離せなかったことは、彼が女性独白文体を手法としてはっきり認識していたことにも明らかだ。しかし、先にも挙げた『女人創造』で、太宰治ははっきりと、「ああ、僕は女ぢゃない」と、そのことを主張する。さらに、『火の鳥』では、「あのひとに在るのは、氾濫してゐる感受性だけだ。そいつを整理し、統一して、行為に移すのには、僕はやつぱり教養が、必要だと思ふ。」(三三八頁)と作中人物を介して述べており、極端な見方をすれば、作家が女性を、無知なもの、直情的なもの、思想のないものとして捉えていることもわかる。そして、その「感受性」を「整理し、統一」するのは男性なのだ。では、どうして彼は、「創造」し、いよいよ自身の主張をしようという時に、「創造しない」女性の手を借りなくてはならなかったのだろうか。

五、太宰治と女

 太宰治にとって、「女」とは何であったのか。ここで私見をまとめようと思う。

 彼にとって、「女」がただの性別分類でなかったことは明らかだ。男の視点から書かれた、『男女同権』、『女人訓戒』、『女類』、そして『人間失格』には、何気ないことで男性の運命を左右する「女」の姿がえがかれる。
世の女性といふものは学問のある無しにかかはらず、異様なおそるべき残忍性を蔵してゐるもののやうでございまして、そのくせまた、女子は弱いと言ひ、之をいたはつてもらひたひと言ひ、(中略)この世に女のゐるあひだは、私の身の置き場がどこにもないのではなからうかと、(『男女同権』(16) 三一四頁)

 『男女同権』は、さまざまな女性に裏切られ、傷ついた男性の演説を記したという形で綴られる、太宰治後期の作品である。ここに、男性にはとうてい行動や思考を読むことが不可能な女性へ対する作家自身の恐怖が伺える。『人間失格』においても「大庭葉蔵」は女性によって苦しめられ、女性によって自らを意識するのだ。

 さらに、理解不能な女性の行動を短編作品として纏め上げた『女類』にはどうだろうか。
そりやお前の百倍もそれ以上ものたくさんの女に惚れられたものだ。本当さ。しかし、いつでも地獄の思ひだつたなあ。わからねえんだ。女の気持が、わからなくなつて来るんだ。僕はね、人類、猿類、などといふ動物学上の区別の仕方は、あれは間違ひだと思つてゐる。男類、女類、猿類、とかう来なくちやいけない。全然、種属がちがふのだ。(『女類』 (17)三五六頁)

 ここにもやはり、女性への恐怖、軽蔑が唱えられている。

 太宰治は、『男女同権』においては、「私」を様々な方法で傷つけ裏切る女たち、『女人訓戒』においては、自らの嘘、すなわち「道化」を信じ切り、「道化」に溶け込んで生きる「女」を、『女類』、『人間失格』にも、理解しがたい女の姿をそれぞれ描いている。彼にとって、さまざまな経験とともに、女性とかかわってさえわからなくなってゆくもの、それが女性であった。

 彼は幾多の作品の中で、男女の関係を書いた。彼の描いた女性は、「一刻一刻」千変万化しつづけ、時には男性を慕い、時には男性を嫌悪する。しかし男性の立場におかれる登場人物たちは、男とまったく違った女性に対し畏怖の念を持ち、怯えているかのようにも見える。「裏切られる」(『女類』三五八頁)という、女性に対する疑念のひとつしか持っていない。これは、作家自身の、また津島修治としての女性関係のなかで彼に深く根付いていった女性へのある種のトラウマなのだろう。

 しかし、太宰治は多くの女性独白文体による文学を残した上に、「私は、ひとりになってもやはり、観念の女を描いてゆくだらう」(『女人創造』)とまで述べている。彼は、胸の奥にひそかな女性蔑視をいだきながらも、女性の文学を描くことは断ち切れないというジレンマ、あるいは矛盾に陥っていたのだ。

六、矛盾による「侘びしさ」

 おそらく、「自意識が分裂した」、「人間性、人格が解体した」ために、彼は何かべつの「人格」を作り、作中人物へ語らせることでのみ、太宰治は、太宰治として存在し得たのだ。作家としてのアイデンティティを得るうえで、もっとも語らせやすかったのが、「現実社会で敗者」であった市井の女性であったのだろう。

 しかし、いくら作家が自身を「現実社会で敗北者」であると自覚していようとも、彼はどうしたって男、つまり「女類」とは完全に「種属がちがふ」、「男類」なのだ。

 津島修治としての彼の生涯は、未だ男尊女卑の色濃く残る明治末に始まる。青森県弘前市、作家自身が作品の中で田舎だと語るそんな彼の故郷では、なおさら、家父長制度や女性蔑視が根付いていたことだろう。「男類」としての彼の胸裏には、いくらか自分が優位であると考える部分があったのではないだろうか。特に、『火の鳥』、『女人訓戒』、『女人創造』、『女類』には、彼の抱えてきた女性観が映し出されている。もう一度、『女類』を例にとろう。
・思考の方法も、会話の意味も、匂ひ、音、風景などに対する反応の仕方も、まるつきり違つてゐるのだ。女のからだにならない限り、絶対に男類には理解できない不思議な世界に女といふものは平然と住んでゐるのだ。(三五七頁)

・女類と男類が理解し合ふといふ事は、それは、ご無理といふものなんだぜ。(三五八頁)
 右にもみるように、「女類」を「男類」つまり作家にとってまったく意味のわからないものとして捉えていた。彼にとって「女類」あるいは「女性」とは、おなじ「敗者」であると同時に「理解できない不思議な」生き物でもあった。太宰治の女性観について、槌賀七代はこう触れる。

男にはない決意の仕方が、太宰をさらに揺るがす。その思考の方向があまりに違いすぎ、理解できないことが「男」である太宰に「不安」を与えるのかもしれない。 (『太宰治大事典』(18)一七四頁)
 後期の太宰治は、先ほどから例に挙げているように、「理解できない」女性を『男女同権』、『女類』、『人間失格』といった男性による独白の作品で次々に発表した。このことは作家太宰治と、彼の抱く「観念の女性」にどのような意味を暗示するのだろう。

 母親から遠かった幼少期、度重なる女性関係など、女性にある種のトラウマを抱きながら、女性を描こうとした、あるいは飾らず、偽らずに自身の主張、すなわち女性への「不安」を描こうとした作家の、初期のスタイルが、彼自身に「侘びしさ」、「苦しさ」を抱かせたというのは明らかであり、その心情が有明淑という女性の厭世、自意識への懐疑をつづった日記と出会ったとき、彼の中になにやら反応があって生まれたのが『女生徒』だったのだろう。太宰治は、『思ひ出』、『道化の華』において名づけかねていた感情に、「侘びしさ」、「苦しさ」という名前を、女性独白の作品において認識したのだ。

 彼は感情の名称を獲得したからこそ、漸く女性に紛れ込み、偽ることを離れて「理解できない」女性という生き物、すなわち「女類」に対しての「不安」を、書くことができるようになったのではないか。つまりは数々の女性独白文体による作品たちは、その前段階、言わば「不安」の繭の状態として書かれたものであった。

 彼は、実に多くの「道化」を書き残した。『思ひ出』では「十重二十重の仮面」をつけた少年に、『女生徒』では「ポオズをつくりすぎてポオズに引きずられている嘘つきの化けもの」へとなり、『人間失格』では「道化」によってわずかに人間とつながろうとする一人への男へとなる。太宰治は実に様々な役を、特に女性の役を好んで、原稿用紙の上で「道化」として演じて見せた。彼はあえて自らが「瞑想しない」、「号令しない」「創造しない」女へとなりきることで、女性の「理解できない」思考を再確認するように、自らが最も恐れる「女類」になろうとした。とくに『女生徒』で描き出された彼の内面は、「子供から大人へと移行する時期の内面を析出することが、そのまま前期から中期へと変貌していく太宰の姿と二重映しとなり」(19) 、やがて、太宰治の遺書ともされる『人間失格』において、「ツネ子」のまとう「侘びしさ」によって自らを自覚する「葉蔵」へとつながる予感すら感じられる。

 作家、太宰治のデビュウ作となる『晩年』(20) 、その冒頭に記された『葉』にはこうある。
撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり
    ヴエルレエヌ
 『思ひ出』にもあるように、ぼんやりとした「えらく」なれる自信と、一方での「自意識」「人格」の「解体」不安の間で、作家は「創造」することによってアイデンティティを得ようとした。時には「理解できない」、「女類」になりきってまで、である。

 「理解できない」ものを、「不安」やおそれを抱きながら演じるということは、その行為自体に矛盾を孕んでいるとは考えられないだろうか。彼は、「一刻一刻」を身軽に移り変わる女性の身軽さに、男性として憧憬を抱き、また「不安」を抱いたからこそ、矛盾をかかえつつ女性独白の物語を書いたのである。作家自身の描く人々同様、自らを偽り、「女類」の「道化」を演じていたのだ。それは太宰治による、彼自身への芝居であり、それが「苦肉の芝居」、「最後の求愛」といった形で現れ、「道化」なくしては生きられない作家、そして作家自身の描き出す彼らの「侘びしさ」、「苦しさ」を招く。

 『女生徒』における、生々しいまでの「侘びしさ」の表現はおそらく、「侘びしさ」、「苦しさ」を自らの胸中に認め、そうして的確に言い当てる言葉を抽出することができた、初期から中期への過渡期にあったからこそできたのであろう。

 彼の作品を物語る登場人物たちは、「道化」なしには生きてゆけない。しかしそれは特別なことでなく、私たちのすぐそばにあることなのだ。彼らは、心の中に矛盾を抱えて生きることに耐え切れずにいる。彼らは弱いというのでなく、ただ少しばかり「理解できない」ものを恐れているだけなのだ。その臆病な性格はまさしく、「道化」に対して敏感な作家自身の、少し大げさな自己投影と考えてもよいのではないだろうか。





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『太宰治全集3 小説2』筑摩書房 一九九八年
同右
太宰治『女生徒』 角川書店 一九五四年 
『太宰治全集2 小説1』筑摩書房 一九九八年 
佐藤泰正 佐古純一郎『漱石・芥川・太宰』朝文社 二〇〇八年
『太宰治全集3 小説2』筑摩書房 一九九八年
『太宰治全集6 小説5』筑摩書房 一九九八年
『太宰治全集3 小説2』筑摩書房 一九九八年
『太宰治全集4 小説3』筑摩書房 一九九八年
『太宰治全集11 追想』筑摩書房 一九九九年
志村有弘・渡辺芳紀・『太宰治大事典』勉誠社 二〇〇五年
大屋幸世・神田由美子・松村友視『スタイルの文学史』 東京堂出版 一九九七年
『太宰治全集2 小説1』筑摩書房 一九九八年
『太宰治全集10 小説9』筑摩書房 一九九九年
同右 回想・同時代評 臼井吉見「『人間失格』をめぐって」より引用
『太宰治全集9 小説6』筑摩書房 一九九八年
『太宰治全集10 小説9』筑摩書房一九九九年
志村有弘・渡辺芳紀『太宰治大事典』勉誠社 二〇〇五年
鶴屋憲二「女生徒」『別冊国文学 no.47 太宰治事典』学橙社 一九九四年五月
『太宰治全集2 小説1』筑摩書房 一九九八年

戯曲の文学性/演劇性 ~別役実の『友達』批判をめぐる問題~

比較文学専攻
ツキミ

1 はじめに

 本論文では、1970~72年に発表された別役実「演劇における言語機能について―『友達』より」を題材に、安部公房『友達』が戯曲として抱える問題点とその評価の困難性について考察する。まず戯曲『友達』が発表されるに至った経緯を辿る。次に、「演劇における言語機能について―『友達』より」で指摘されている様々な問題の中から「善意」の侵入/「悪意」の侵入に触れた部分に着目し、別役が何を問題視しようとしていたのかを整理する。最後に、岡田利規の演出による『友達』上演時に出されたコメントから、戯曲の文学性/演劇性という対立軸を演出が乗り越える可能性を検討する。

2 『友達』の成立過程

 『友達』は平凡な男の部屋にある日突然見知らぬ「家族」たちが侵入してくる不条理劇である。『友達』のプロットは初期短編「闖入者」をもとにしている。「闖入者」と『友達』の関係について安部公房はエッセイ「友達―「闖入者」より」で以下のように語っている。

「闖入者」を「友達」という、いささかトボケた題名に変えることによって、私は疑似共同体のシンボル(明治百年、紀元節の復活、等々)に対する、われわれの内部の弱さと盲点を、その内部からあばいてみようと考えてみたわけである。(安部,1967,pp.418)

 1951年に発表された短編小説「闖入者」は、「誤解された民主主義、もしくは多数という大義名分の機械的拡大解釈に対する、風刺がそのテーマの中心」(安部,1967,pp.417)に置かれていた。しかし、安部は戯曲化にあたり扱うテーマの方向性を変えている。1960年後半、明治百年礼賛に対してどのような反応をとるかが政治と文化との接点における一大争点であった。安部はこの頃の「新ナショナリズム」を「多数原理から民主主義のオブラートをはぎとった、むきだしの共同体原理の強調」(安部,1967,pp.417)だと考えていた。そこで、安部は「闖入者」のプロットを借りてテーマを「現代の内部にうずく、共同体復活へのプロテスト」(安部,1967,pp.420)へと変えたのだ。

 安部公房と演劇のつながりを考えると、1950年代後半における安部のミュージカルに対する取り組みも重要である。東欧旅行時に鑑賞した芝居の影響でミュージカルに強い関心を抱くことになった安部は、1955年半ばからミュージカルの制作を目指す〈零の会〉を結成、1957年には総合芸術を指向する〈記録芸術の会〉の会員にもなっている。安部はミュージカルとドキュメンタリーを群衆や街や労働といった現実の再構成という点で結びつけて考えていた。つまり、現実をパーツに分解し、意識的に再構築するという発想でミュージカルを捉えていた。鳥羽耕史は、この発想が後の安部公房スタジオにおける俳優の動きすべてを分解し、すべての動きを意識的に演じさせるという稽古の発想まで連続していると指摘している。(鳥羽,2007,pp230)

 なお、『友達』は1967年に初演され、同年に第三回谷崎潤一郎賞を受賞している。

3 演劇的/文学的という問題

 『友達』に対する反応として劇作家の別役実による批判的論考「演劇における言語機能について―『友達』より」は重要である。なぜなら、別役は『友達』への批判を通して戯曲における演劇性/文学性とは何かを考察しているからである。論考では演劇性と文学性の混合を主な批判対象にしており、それがもたらす作品の瑕疵について多岐にわたって論じられている。ここでは特に「侵入」を論じた部分を中心に、別役の演劇性と文学性についての議論を追うことにする。

 別役は議論を組み立てる際に「悪意」による侵入と「善意」による侵入をメカニズムが違うものとして論じている。別役は舞台空間を物理的空間と心理的空間の二重構造として捉え、演劇的手法における「侵入」を二重構造の揺らぎとして描いている。「悪意」による侵入では侵入者と被侵入者という心理的関係は安定しており、物理的空間の変質によって日常生活の破壊が表現される。対して「善意」による侵入では物理的空間は安定している。日常性の中にある心理的な不安定さを表出することによって、観客が日常人の中に侵入者を見出していくのだ。

 『友達』について、別役は明らかに「善意」による侵入のパターンを保有しているにもかかわらず「悪意」による侵入のパターンと混合しているために混乱が生じていると指摘している。例えば、男が警察に通報するか否か葛藤する場面。「家族」の長男が通報の是非について多数決を採ろうと提案をするが、父は「結果の分かった勝負じゃ、ゲームのスリルもない」と言い多数決の提案を退ける。この場面では、本来「善意」の侵入であるはずのものが侵入者と被侵入者の立場を守ったままの攻防という「悪意」の侵入のようなかたちになってしまっている。別役は多数決の提案をそのまま採用していれば、圧倒的な効果があっただろうと指摘している。「善意」による侵入の場合、侵入者は侵入している意志を被侵入者に感じさせるような言動をとらない。されに、多数決の結果は観客にはおおよそ見当がつくが「善意」の侵入者たる「家族」たちは「皆目見当がつかない」はずなのだ。その分、多数決が実行され、結果が出たときのインパクトも大きい。

 安部が『友達』の多数決の提案の場面で演劇的効果を減ずるような流れにしたのは、多数原理を全面に押し出す展開を恐れたからではないかと考えられる。小説「闖入者」では闖入した「家族」たちが多数決を行うことにより男への暴力が合理化されている。しかし、『友達』は「非情な多数決原理で襲いかかった「闖入者」たちが、こんどは(・・・・)、親愛なる同朋として、「友情」の押し売りをはじめた」(安部,1967,pp.418,傍点引用者)という認識に基づいて構想されている。安部は友達(=「家族」)たちの原理を「協調と連帯と和解」と規定している。そのため、多数決が採用されるのが「善意」の侵入のパターンにとって自然な場面においてもテーマとの整合性を考慮して使わなかったとの推測が成り立つ。このことから演劇的効果と物語との整合性よりもテーマと物語との整合性を優先させる安部の態度が窺える。これは、ミュージカルに現実の分解と再構成を求めた態度と同根のものだ。別役が安部の演劇観と鋭く対立するのはまさにこの点である。

 別役は「あるがままのものに意味を与え、文明的な論理構造の中に植え込もうとする方法」を「文学的」、「意味ありげに見える閉鎖的な日常性の中から、本来的な実在性を開発する」方法を「演劇的」と表現している。(別役,2007,pp.47-8)そして、『友達』の中にある文学的な要素が演劇的ダイナミズムを殺していると批判している。以下の文章における対比はそのまま別役と安部の演劇観の対立にも通じる。

作者にとっては一つのモチーフを舞台化(・・・)すると云う事が舞台空間においてそれを体験すると云う事(=「演劇的」)でなく、舞台空間に物理的に構図すると云う事(=「文学的」)で認識されていたのである。(別役,2007,pp59,括弧内引用者)

 別役は『友達』で描かれるアパートの扉が侵入者と被侵入者を分ける意味で使われていることに対して「既に答えの分かっている事を、舞台空間に於て「絵」に見せているに過ぎない」(別役,2007,pp60)と批判している。別役は、安部が演劇の手法として採用した現実の分解/再構築という「文学的」なスタイルは戯曲の演劇性を損ねるという批判を行っているのである。

3 戯曲の評価と演出

 別役は戯曲『友達』を精読することにより演劇における文学性と演劇性を考察し、文学性が演劇性を損なってしまう状況を批判した。しかし、論考「演劇における言語機能について―『友達』より」はあくまで戯曲『友達』に対する批判であり、上演された『友達』に対する批判とは位相が異なることには注意が必要である。劇の評価は戯曲だけではなく、演出や役者の演技も密接に関わってくるからである。

 2008年、劇作家の岡田利規の演出によって『友達』が上演された。岡田は別役の『友達』批判に対してほぼ全面的に同意している。その上で批判が全て戯曲のテキスト内の問題であるとし、実際に俳優が立った時に機能する戯曲の力強さは別問題だとしている。岡田は役者の身体性に着目しつつ別役の批判に対して以下のように切り返す。

別役氏の批判は、おそらく正しい。でもそれを些細な問題にしてしまうことはできるのだ。身体とは、かくも圧倒的である。戯曲が説明的である必要などない、なぜなら役者の身体の存在が、それだけでじゅうぶんに情報を提示するのだから、……というのと同じ理屈で、戯曲がいくら説明的であっても、きっと、構わないのだ。役者の身体は、それを凌駕して、その戯曲の上演を直接性をもつものにしてしまえる。(岡田,2013,pp.136-7)

 岡田は、別役の批判から着想を得て部屋のセットの壁を取り払い、一幕一場を結末に入れ替えている。しかしそれ以外はほぼ戯曲を忠実になぞり、台詞もほぼ変更を加えていない。岡田は戯曲の文学性と演劇性の議論に対して「上演が演劇性を持っていればそれでよい/直接性の付与は、演出によって可能」(岡田,2013,pp.136)という見解を示している。しかし、テキスト外の演出という要素を重視する姿勢は、一方で戯曲の評価を困難にする面を持つ。演出によって戯曲を「文学性から離陸させ、演劇的に立ち上げることができる」(岡田,2013,pp.135)のであれば、戯曲というテキスト内での演劇的/文学的という議論がどれだけの説得力を持ちうるのかが問題となるからだ。

4 まとめ

 本論文では『友達』の成立過程を辿り別役の批判を整理することで、『友達』には安部の分解/再構築的な演劇観が反映されていること、別役が『友達』の演劇性と文学性の混合を批判し、その批判が安部の演劇手法に及ぶものであることを考察した。さらに岡田のコメントから戯曲における演劇的/文学的という議論は、演出という要素を重視することによって乗り越えられうるということが示された。

 しかし、本稿では充分に触れられなかった論点も多い。例えば、『友達』の改訂版に対してどう評価するかという問題がある。1974年の『友達』改訂版では登場人物の改変がいくつかあり、細かい台詞の異同もある。この改訂版が、別役の批判に応えたものになっているかどうかについて十分な検討が行えなかった。また、三島由紀夫の激賞が谷崎潤一郎賞に貢献したようであるが、その他の文学者の評価がどのようなものであったのかは気になった。今後の課題としたい。






〈参考文献〉
安部公房(1999)『安部公房全集 003』,新潮社
安部公房(1999)『安部公房全集 020』,新潮社
安部公房(1999)『安部公房全集 025』,新潮社
岡田利規(2013)『遡行 変形していくための演劇論』,河出書房新社
苅部直(2012)『安部公房の都市』,講談社
鳥羽耕史(2007)『運動体・安部公房』,一葉社
別役実(2012)『ことばの創りかた』,論創社
野村萬斎監修(2009)『SPT05 特集 戯曲で何ができるか?』,工作舎

聖書と『神曲』における地獄観の違い

熊本大学文学文学科
西浦


1.はじめに

 『神曲』における地獄(inferno)の特徴を明らかにするに当たって、まずキリスト教全体における地獄観との比較が必要ではないかと思い至った。そこで今回は、主として聖書を参考にしながら「聖書の中の地獄」と「inferno」を比較していく。

2.聖書の中の地獄とダンテの描いた地獄

 ヘブライ語聖書のギリシャ語翻訳版とされるThe Septuagint with Apocrypha では、「αδης」と「γαιεννα」という二つの語が地獄を指すとされる。しかしながら教派によって諸説あるものの、多くの場合この二つは厳密には意味が異なる。また、ギリシャ語聖書Novum Testamentum Graece の日本語訳である新共同訳聖書においても、「αδης」が陰府、γαιενναが地獄といったように、明らかな表記の違いが見られる。では、「αδης」と「γαιεννα」の違いは何だろうか。

2-1 「αδης」の特徴

 旧約聖書に初めて「αδης」という語が登場するのは創世記37:35のことである。以下は新共同訳(2008)からの引用である。
37:35(前略)「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下っていこう。」父はこう言って、ヨセフ のために泣いた。

 これはヤコブが愛する息子ヨセフの死を嘆く場面である。タナハではこの陰府が「שאול」と表記され、日本では一般的に「シェオル」と言われる。「שאול」が「αδης」と訳されてるということは言うまでもない。この場面において「αδης」はヨセフの下った場所、つまり死者のある場所を指している。

 では「αδης」は死者のみが行く場所なのかというと、そう簡単に断言することはできない。民数記16:32-33がその例である。
16:32地は口を開き、彼らとコラの仲間たち、その持ち物一切を、家もろとも呑み込んだ。16:33彼らと彼 らに属するものはすべて、生きたまま、陰府へ落ち、地がそれを覆った。(新共)

 ここでも使われているのは「αδης」だが、人々が「生きたまま」陰府に落ちていく場面が描かれている。つまり、陰府は地上で死んだ者のみが行くという訳ではないのである。このことから、「αδης」は死者および生者が落ちる所であると分かる。

 また、興味深いのは詩編86:13である。ここでは『あなたの慈しみは私を超えて大きく/深い陰府から/私の魂を救い出してくださいます。』(新共)と謳われている。陰府(αδης)は神の手による救いが存在する場所なのである。これは『神曲』においてイエスの恵みが受けられ得る唯一の場所、地獄の第1層リンボと似通っている。
 以上をまとめると、「αδης」は死者も生者も落ちるが、神の救いにあずかる可能性のある場所であることが分かる。

2-2 「γαιεννα」の特徴

 「γαιεννα」はヨシュア記において初めて登場する。しかしこの時、「γαιεννα」は地獄という意味ではなく、「ヒンノムの谷」という地名を表す言葉である(ヘブライ語では「גי-הינום」と書かれており、この音訳であると考えられる)。しかしながら新約聖書で「γαιεννα」は総じて「地獄」の意味で用いられる。この時の地獄は死者のみが落ちるものであり、『神曲』の地獄と近い。また、「γαιεννα」から救い出されるという言葉は見受けられないため、『神曲』の地獄の第2層~第9層とその性質を同じくしている。「γαιεννα」は新共同訳において地獄と訳されるが、『神曲』に描かれる地獄「inferno」はラテン語の「 infernus(低い)」に由来し、言葉そのものからは「γαιεννα」と「inferno」が同一であると断言することはできない。

2-3 まとめ

 ここまで分かったことを以下の一覧にまとめた。



 このことから「inferno」の第1層リンボの様相は「αδης」を参考にして描かれ、第2層~第9層は「γαιεννα」を参考にして描かれたものと考えられる。

3.地獄の位置

 ダンテは『神曲』の中で『淨火の山、イエルサレムの反對面にあり 』(山川丙三郎訳)と書いている。つまり煉獄と対をなすinfernoは、エルサレムの下に位置するはずである。
 しかしながら先述した民数記16:32-33の場面は、明らかにエルサレムの下ではない。これはどうしてだろうか。地獄の位置について、エマヌエル・スヴェーデンボルイは『天界と地獄』(スヴェーデンボルイ原典翻訳委員会訳)の中で以下のように説明している。

 地獄は山の下にも、丘や岩山の下にも、平地や谷間の下にも、どこにでも存在します。山・丘・岩山など の下にある地獄の場合、その入口または門は、見たところ洞穴か岩の裂け目のようで、広くあいているも の、細くて狭いものなどもありますが、たいていはみすぼらしく見えます。(中略)地獄がそれぞれどこに 位置しているのか、だれも知りません。天界の天使たちも知りません。主だけがご存知です。

 彼によると、地獄はどこにでも存在するが、具体的な位置は誰も知らないという。このような地獄観は仏教と似たところがある。いずれにせよ、エルサレムの下にあると書いたダンテの思惑は不明だが、infernoにおける最大の特徴の一つと言っても過言ではない。

4.おわりに

 infernoの特徴は、①死者のみが行き②リンボにはイエスの救いがあり③その位置はエルサレムの下であるという点であるということが分かった。これらの情報を元に、今後は仏教や神道など他宗教との比較を進めていきたい。







参考文献
1.Biblia Hebraica Stuttgartensia, R.Kittel他, Deutsche Bibelgesellschaft(1967/77)
2.The Septuagint with Apocrypha: Greek and English 10th printing, Lancelot C. L. Brenton, Zondervan Publishing House(1980)
3.Nestle Aland Novum Testamentum Graece : Read NA28 online, Deutsche Bibelgesellschaft(http://www.nestle-aland.com/en/read-na28-online/、 2014年2月20日閲覧)
4.『天界と地獄 原典訳』 スヴェーデンボルイ著、スヴェーデンボルイ原典翻訳委員会訳、アルカナ出版(1985)
5.『聖書 新共同訳』共同訳聖書実行委員会訳、日本聖書協会(2008)
6.『ダンテの地獄を読む』平川祐弘、河出書房新社(2000)
7.『梅原猛著作集4 地獄の思想』梅原猛、集英社(1981)
8.『死の比較宗教学』J・ボウカー著、石川郁訳、玉川大学出版部(1998)
9.『神曲 上・中・下』ダンテ著、山川丙三郎訳、 岩波文庫(1952)