忍者ブログ

LITECO

HOME > ARTICLE > レポート

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

『ドグラ・マグラ』における「脳髄論」および「胎児の夢」の解釈

比較文学専攻
マジマ


【はじめに】
 私は課題研究の際において、「『ドグラ・マグラ』に描かれるモノ」と称してその文学的価値、そしてその理由について研究し、発表した。私は、卒業論文においてもこの流れを汲み、『ドグラ・マグラ』という作品を研究したいと考えているのであるが、その前に当レポートで作品内容、とくに作品内において重要な位置づけを占める「脳髄論」、そして「胎児の夢」の内容を、一旦自分なりにまとめ直しておこうと思う。この内容に理解が及んでいないようでは、『ドグラ・マグラ』という作品をそもそも理解すること自体が困難であるし、そこから見えてくる新しい研究課題もあるかもしれないと考えたからである。このレポートの内容が少しでも私の卒業論文への足掛かりとつながることを、私自身のことながら切に願っている。また、今回のこのレポートにおいては作者、夢野久作そして『ドグラ・マグラ』そのものの紹介は省くつもりである。作者のプロフィールであるとか、『ドグラ・マグラ』の文体が特徴的である、などの内容は、わざわざ今回また紹介しなくても、以前のレポートや課題研究ですでに何度も述べていることであり、また単純にそのことに字数を割く余裕がないからである。ご留意頂けると幸いである。


1、 脳髄論
【脳髄は物を考える処に非ず】
 早速、本題に入らせて頂く。まずは「脳髄論」の解釈から始めてみたいと思う。この「脳髄論」という理論は、作品中で正木博士が提示したとされる架空の理論である。正木博士の説明によれば、そもそも「脳髄論」という名前の学術論文が存在するらしいのであるが、実際作品内に提示されているのは、その内容をわかりやすく解説した新聞記事、『絶対探偵小説 脳髄は物を考える処に非ず =正木博士の学位論文内容=』というものだけである。「脳髄論」の論文そのものは非常に難解で、一般人には読解することすらも及ばないからである、と作品中に説明がなされている。

 さて、それでは上記の『絶対探偵小説』の内容に乗っ取って、「脳髄論」という考え方をまとめたいと思う。まず、「脳髄論」の根本にある考え方は、『絶対探偵小説』のタイトルにもあるように「脳髄は物を考える処に非ず」というものである。我々は脳髄でものを考え、知覚しているように思っているだろうが、それは間違いであると正木博士は言うのである。それでは何処で我々は思考し、知覚するのかというと、身体中の細胞全てがその役割を担っていると彼は述べる。

 「われわれが常住不断に意識しているところのアラユル欲望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞいうものの一切合財は、われわれの全身三十兆の細胞の一粒一粒ごとに、絶対の平等さで、おんなじように籠っているのだ」(『ドグラ・マグラ』本文より引用)

 では脳髄とは何か、となると、正木博士は「電話交感局」に相当すると述べる。つまり、人間の意識や感覚、そして思考といったものは全身の細胞それぞれが独自に行っており、脳髄というものはただ単純に、その細胞の意識や感覚を反射し交感する仲介機能を持つ存在に過ぎない。こう述べているのが「脳髄論」の考え方なのである。


【脳髄局、ポカン式反射交感事務、加入規約】
 さて、「脳髄論」には上記の考え方に加えて脳髄が細胞の反射交感を行う際の条件、きまりのようなものも、『脳髄局、ポカン式反射交感事務、加入規約』というタイトルで同時に説明されている。これも「脳髄論」ひいては『ドグラ・マグラ』そのものに大きく関わってくる事柄であるので、まとめておきたい。

 「脳髄局、ポカン式反射交感事務、加入規約」、つまり「脳髄の反射交感作用のきまり」は、大きく分けて三つ存在すると本文中で述べられている。以下に、一旦それを本文のまま引用する。

◇第一条 脳髄局ヨリ反射交感シ来(きた)ル諸般ノ報道ハ、仮令(たとい)、事実ニ非(あら)ズトモ、事実ト信ジテ記憶スベシ。
◇第二条 脳髄局ヨリ反射交感シ来ラザル事ハ、仮令自身ニ行イタル事ト雖(いえど)モ、事実ト認ムベカラズ。記憶ニモ止(とど)ムベカラズ。
◇第三条 脳髄局ノ反射交感機能ニ故障ヲ生ジタル場合、ソノ故障ヲ生ジタル一個所ニ於テ反射交感サレツツアリシ或ル意識ハ、他ノ意識トノ連絡ヲ絶チ、全身ノ細胞各個ガ元始以来保有セル反射交感作用ヲ直接ニ元始下等動物ト同様ノ状態ニ於テ(脳髄ノ反射交感作用ト無関係ニ)使用シ、他ノ意識ニ先ンジテ感覚シ、判断シ、考慮シ、又ハ全身ヲ支配シテ運動活躍セシムルヲ得ベシ。

 まず一つ目は「脳髄から反射交感されてしまった情報は、たとえそれが真実でなくとも真実として記憶する」ということである。「泥棒の入った夢を見て、大声をあげて家中を呼び起こす」(『ドグラ・マグラ』本文より引用)という例が作品中では述べられているが、それを考えるとわかりやすい。

 二つ目は、「脳髄から反射交感されなかった情報は、仮にそれを実際に行ったとしても認知しない」ということ。一つ目とは真逆の内容である。「『昨夜、君の蒲団を引ったくった覚えはない』なぞと頑張る連中は、この第二箇条を厳守している正直者に相違ない。」(『ドグラ・マグラ』本文より引用)という例が本文中では述べられている。

 三つ目が少々わかりづらいのであるが、つまりは「脳髄の反射交感作用がなんらかの原因で故障した場合、脳髄を仲介する事なく、細胞同士で反射交感を行う」ということであり、脳髄のお陰で正常に作動していた反射交感作用が細胞同士で直接行われることで、その作用が正常に発揮しなくなると述べているのである。この三つ目の条件が重要で、脳髄の故障によって反射交感作用が正常に機能しなくなる状態、これが精神異常である、という方向に論は展開してゆくのである。

 以上が、『ドグラ・マグラ』本文で語られる限りの「脳髄論」の内容である。


2、 胎児の夢
【心理遺伝】
 次に、『ドグラ・マグラ』を支える、もう一つの大きな支柱である「胎児の夢」という考え方をまとめてみようと思う。「胎児の夢」は正木博士の卒業論文であるとして、「脳髄論」とは違い『ドグラ・マグラ』本文中にそのまま掲載されている。

 ではその内容であるが、この考え方はドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルの「反復説」を踏まえたものである。その「反復説」とは、簡潔に言ってしまえば、胎児は母胎内にいる10ヶ月の間に、単細胞生物→魚類→両生類→獣→人間という進化の過程を繰り返している、という内容である。だから尾てい骨などと言った進化の痕跡が、我々の身体に残っているというのである。

 この反復説に、「精神」、「心理」という概念を介入させたもの、つまりは、「精神もまたその進化の痕跡を残している」と述べたのが「胎児の夢」という論文である。そしてその論文の中において、「精神進化の痕跡」を「心理遺伝」と呼称している。この「心理遺伝」が「胎児の夢」の核となる考え方である。「心理遺伝」の具体例として挙げられているのが、まず「好戦的」「狩猟心理」「残忍性」等。これは我々が原始人であった頃の精神の「心理遺伝」であると述べられている。そして「群集心理」「流行心理」「野次馬心理」。これは原生動物時代の「心理遺伝」である。このように我々は、胎児であった頃に繰り返された過去の記憶、精神心理をいまでも密かに内在させている。これが「胎児の夢」の根本的な考え方である。


【夢】
 「胎児の夢」の中においては、上記のような「心理遺伝」の他に「夢」というものの正体についても論じられている。こちらの方も「胎児の夢」を構成する重要な要素であるため、まとめておきたい。
 
 そもそも夢というものは、人間の全身が眠っている間に、その体内の或る一部分の細胞の霊能が、何かの刺戟で眼を覚まして活躍している。その眼覚めている細胞自身の意識状態が、脳髄に反映して、記憶に残っているものを吾々は「夢」と名付けているのである。(『ドグラ・マグラ』本文より引用)

 ここで述べられている「細胞の霊能」とは、簡単に言うと一つの細胞が持つ記憶力のことであり、また本文の言葉を借りるならば、細胞における「相互間の共鳴力、判断力、推理力、向上心、良心、もしくは霊的芸術の批判力等」ということになる。つまり、「胎児の夢」において述べられる「夢」のメカニズムとは、我々が眠っている間に目を覚ましている細胞が受けている刺激の具象化ということに過ぎない、ということになるのである。これを「胎児の夢」中においては「換言すれば夢というものは、その夢の主人公になっている細胞自身にだけわかる気分や感じを象徴する形象、物体の記憶、幻覚、聯想の群れを、理屈も筋もなしに組み合せて、そうした気分の移り変りを、極度にハッキリと描きあらわすところの、細胞独特の芸術という事が出来るであろう。」(『ドグラ・マグラ』本文より引用)と表現している。

 以上の「心理遺伝」そして「夢」の解釈が、「胎児の夢」という論文で語られる内容である。


【結論】
 以上、『ドグラ・マグラ』において中核を担う二つの理論、「脳髄論」と「胎児の夢」の自分なりの解釈試みたのであるが、やはり驚嘆すべきは夢野久作の類まれなる教養、そして優れた発想力である。また、哲学者や思想家でもない、いち探偵小説家がこのような理論を考え付いたということにもカタルシスを感じざるを得ない。このような凡庸な探偵小説の枠に収まらないスケールの壮大さ。それもまた、『ドグラ・マグラ』のもつ大きな魅力の一つであろうと、私は考える。




【参考資料】
『ドグラ・マグラ(上)』夢野久作著 角川文庫 1976年
『ドグラ・マグラ(下)』夢野久作著 角川文庫 1976年
『鶴見俊輔書評集成』鶴見俊輔 つるみ書房 2007年
PR

『ドグラ・マグラ』に描かれるモノ 2

比較文学専攻
マジマ


【はじめに】
 『ドグラ・マグラ』。文学を多少嗜む人間ならば、一度は聞いたことのある名前ではないだろうか。夢野久作渾身の大傑作として日本探偵小説史上に燦然と輝くこの作品は、単なるエンターテインメントとしての「探偵小説」の枠に収まらないほどの幻想性をもち、未だに多くの謎に包まれている作品でもある。また、それゆえに作品解釈の幅は無限にあると言ってもよい。今回私は、当課題研究において『ドグラ・マグラ』という作品を、単なるエンターテインメント小説ではない「思想書」として解釈を試み、そしてそこから、夢野がこの作品に描き出そうとしたモノの正体を導き出し、『ドグラ・マグラ』の魅力を探求してみたいと思う。


【作者紹介】
 夢野久作(ゆめの きゅうさく) 1889(明治22)年、福岡市小姓町(現在の中央区大名)に、杉山茂丸と高橋ホトリの長男として生まれる。幼名は直樹。1911(明治44)年、22歳で慶応大学文科に入学するも、翌々年、父の命により学校を退学、家業である農家を継ぐ。しかし、久作自身は農作業が不得手であったため、2年で農業をやめて東京本郷の喜福寺において禅僧となり出家。この時に、名前を泰道(やすみち)と改める。その後、九州日報の記者となり、『白髪小僧』などの童話や『蝋人形』などの連載小説を紙面において執筆する。そして1926(大正15)年、〈新青年〉の創作探偵小説募集において『あやかしの鼓(つつみ)』で二等を獲得。夢野久作として作家デビューを果たす。公開された夢野の日記によればこの月、すでに『ドグラ・マグラ』の初稿である『狂人の解放治療』の執筆を開始している。その後、『氷の涯』(1933年)、『瓶詰の地獄』(同年)などの代表作の刊行の後に、1935(昭和10)年、『ドグラ・マグラ』を発表する。その翌年の1936(昭和11)年、47歳で死去。その他の代表作として、『少女地獄』(1936年 夢野の死後刊行)という短編集がある。


【書誌】
『日本探偵小説全集4 夢野久作集』夢野久作著 創元推理文庫 1984年
『知っ得 幻想文学の手帖』學燈社編集部 學燈社 2007年
『ドグラ・マグラ(上)』夢野久作著 角川文庫 1976年
『ドグラ・マグラ(下)』夢野久作著 角川文庫 1976年
『ドグラ・マグラの夢 覚醒する夢野久作』狩々博士著 三一書房 1971年
『鶴見俊輔書評集成』鶴見俊輔 つるみ書房 2007年


第一章『ドグラ・マグラ』について

○『ドグラ・マグラ』成立の過程
 前述した通り、『ドグラ・マグラ』の初稿は作家夢野久作としてデビューした当時に『狂人の解放治療』というタイトルですでに執筆が開始されている。ここから『ドグラ・マグラ』の刊行までには実に十年の歳月を要しており、相当な難産であったことが容易に推測される。また、作品の中には小難しく突飛な学説が多く登場するのであるが、夢野は百科事典を用いて当時の最先端科学を独学で学びながら執筆にあたったとされている(角川文庫 解説より)。この部分は詳しく後述する。

 また、『ドグラ・マグラ』はローベルト・ヴィーネ監督によるドイツ無声映画『カリガリ博士』(1920年 日本公開はその翌年)に強い影響を受けていると言われる。物語の世界観の酷似や、細かな事柄の一致がそこに見られる他、夢野自身が自分の日記に『カリガリ博士』を鑑賞したと記してあったこと(夢野久作「ドグラ・マグラ」 千年書房・九州の100冊西日本新聞 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/2006/03/post_7.shtmlより)から推測されるためである。

 さらに、『ドグラ・マグラ』は夢野のデビュー作である『あやかしの鼓』とも、「ある古道具の作用によって殺人が引き起こされる」という点において共通している。これは私の憶測なのであるが、『あやかしの鼓』を加筆、修正しきったものの結果として、『ドグラ・マグラ』が誕生したのかもしれない。


○『ドグラ・マグラ』の文体
 さて、『ドグラ・マグラ』では、主人公「わたし」の目線から情景を描写した一人称形式と、資料をそのまま地の文として配置した書簡体形式とが混在して用いられている。特に書簡体形式は、前述の『瓶詰の地獄』や『少女地獄』中の作品などにも登場する夢野久作独特の手法である。『ドグラ・マグラ』においては、この書簡体形式が文章全体の半分以上の分量を占めている。(資料①) そのため、読書に親しみのない人間にとっては非常に読み辛い文章となっているのであるが、一旦この文体に慣れ親しんでしまえば、主人公「わたし」と同一の目線でもって作品を堪能することができる。そのため、より深く物語の世界に入り込むことが可能になるのである。


○『ドグラ・マグラ』への評価
 この作品は、小栗虫太郎(おぐり むしたろう)『黒死館殺人事件』(1934年)、中井英夫『虚無への供物』(1964年)と並んで日本探偵小説三大奇書に数えられる。「奇書」というのはもちろん「奇妙な書物」ではなく、「優れた書物」という意味である。また、「これを読むものは一度は精神に異常をきたす」とも称されている。これは前述した独特の文体による当時としては常軌を逸した作風、および、それにより物語に没頭し過ぎてしまうがゆえの評価である。

 以上のように現在においては抜群に高い評価を得ている本作品であるが、『ドグラ・マグラ』がこのような評価を受け始めたのは第二次世界大戦後のことであり、発表当時の評価は芳しいものではなかった。(資料②) これは、当時としては内容があまりにも斬新、そして難解であったこと。そして、この作品を「探偵小説」として見たときに、当時の主流であった、江戸川乱歩などのいわゆる「探偵が難事件を名推理で解決する探偵小説」とのギャップがあまりにも大きかったことに起因する。(資料③) 要するに、時代がまだ『ドグラ・マグラ』に追い付いていなかったのである。


第二章『ドグラ・マグラ』に描かれるモノ

○思想書としての『ドグラ・マグラ』
 本論に移りたいと思う。まず私が述べたいのは、夢野は恐らく単なるエンターテインメントとして『ドグラ・マグラ』を執筆したわけではない、ということである。まず、夢野は「探偵小説」というものに対して、「過去の一切の芸術を圧倒し、圧殺するもの、新しい芸術の萌芽でなければならない」と述べている。(資料④) 夢野は「探偵小説」というジャンルを、「単に探偵が事件を解決する過程を楽しむ娯楽」という狭い枠に収まるものであるとは捉えていないのである。また、夢野は『ドグラ・マグラ』を、前述の通り十年の歳月をかけて構想した上で執筆し、「これを書くために生きてきた」(角川文庫背表紙より)とも述べている。つまり、言ってみれば『ドグラ・マグラ』という作品は作家夢野久作の集大成であり、そのような作品が単なるエンターテインメントの枠に収まるものであるとは、私には考えにくいのである。

 それでは、『ドグラ・マグラ』が単なるエンターテインメント小説でないとすれば何なのか。私は、思想書、哲学書の類であるのではないかと考える。作中には、「脳髄とは物を考えるところではない」と述べる「脳髄論」(資料⑤)、「人間は、胎児である時に母の胎内で人間になるまでの生物進化の過程を夢に見ている」と述べる「胎児の夢」(資料⑥)、「現在生きている我々の意識の中にも祖先の記憶が遺伝して受け継がれている」と述べる「心理遺伝」(資料⑦)、といった三つの学説が登場する。前述の通り、夢野は最先端科学を独学で研究しながら『ドグラ・マグラ』を執筆したのであるが、研究を行っているうちに、前述の三つの説を考え付いたのではないだろうか。そしてそれを発表する媒体として無限の芸術の可能性を秘めた(と夢野は考えた)「探偵小説」を利用したのではないだろうか。プラトンの『パイドン』やニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』などと同様に、夢野は自らの考えを、若林や正木といった登場人物の口を通して語らせることで自らの思想を表現したのである。上記の二作品は、現在では立派に思想書と呼称されている。それならば、『ドグラ・マグラ』を思想書と捉えても問題はないだろう。

 以上が、私が『ドグラ・マグラ』を単なるエンターテインメント小説ではなく、思想書であると述べる根拠である。


○「自分とは何か」という問い
 さて、『ドグラ・マグラ』が夢野の思想書であるとして、そこに込められた思想は上記の「脳髄論」および「胎児の夢」、そして「心理遺伝」だけであろうか。私はそうではないと考える。もちろん、この三説も夢野が発表したかった考えには間違いないだろう。しかし、それが『ドグラ・マグラ』の中心を成すもの、および直接の執筆動機ではないということは、夢野本人が明言している。(資料⑧)によれば、『ドグラ・マグラ』は一貫して「自分(という人間)とは何か」ということを描いた作品であるという。

 「自分とは何か」という問いを描いた作品である、ということを念頭に置いて改めて本文に触れてみると、作品中において夢野は、幾度となく我々にその問いを発しているということがわかる。


1. 「脳髄論」、「胎児の夢」、「心理遺伝」の役割
 まず、上記三つの学説。これらは全て「自分と他人との境界」について述べられたものであると言い換えてよい。これら三つの学説が正しいものであるとすれば、我々の意識の中には「別の人間」が存在するということになり、いったい自分の意識のどこまでが「自分自身」で、どこからが「他人」の意識であるか、その境界が曖昧になってしまう。ここで我々は「自分とは何か」という問いと対峙せざるを得ない。このように、「脳髄論」、「胎児の夢」、「心理遺伝」は、夢野の提示したい思想でありながらも、「自分とは何か」という問いへ、読者を導く材料である。これが、上記三説のもつ真の役割ではないだろうか。


2. 主人公「わたし」の設定(資料⑨)
 次に、主人公「わたし」の設定の意義について。通常「自分とは何か」という疑問は、普通の人間ならば脳裏に浮かんでも、たちどころに消え去ってしまう些細なものであろう。しかし『ドグラ・マグラ』の主人公、「わたし」のように一切の記憶を喪失した人間であれば、「自分とは何か」という問いは深刻な問題として迫ってくる。さらには、もしかしたら自分が重大事件の真犯人「呉一郎」であるかもしれない。このような状況に置かれた「わたし」にとって「自分とは何か」という問いは、もはや「考えなくてはならない」必須事項となってしまう。つまり夢野は主人公を記憶喪失に設定、さらには「呉一郎」というエッセンスを加えることで、『ドグラ・マグラ』という作品の中において「自分とは何か」という問題を考えてもおかしくない、むしろ考えなければならない状況を意図的に作り上げたのである。

 以上のように、一見荒唐無稽で、夢野の思い付きをそのまま叩き込んだようにも思える作品設定も、実はすべて「自分とは何か」という問いを指し示しており、その問題へと読者を導くための道しるべとして機能していると考えることができるのである。とくに「脳髄論」をはじめとした三学説は物語の根幹を成すものとして、最後の最後までその存在を消すことはない。このことから私は、夢野が「幾度となく我々にその問いを発している」と考えるのである。
 

【結論】
 『ドグラ・マグラ』に描かれるモノ、その正体は「自分とは何か」という問いである。人間が記憶や意識、その他自分の環境を取り巻くもの全てを一切合財取っ払ってしまったときに、人間はどのように「自分」というものを確立すればよいのか。このことを夢野久作は『ドグラ・マグラ』を通して幾度となく問いかけてくる。

 「自分とは何か」。この悪夢のような問いに対し、作品中の主人公「わたし」は最終的に自己を確立する術を見つけることができずに奈落へ落ちてしまう。しかしその問いは、作品内だけで完結するものではなく、『ドグラ・マグラ』を読破したのちも読者の脳内に残留し続け、場合によっては「精神に異常をきたしてしまう」かもしれない。この、物語が現実の我々にも浸透してくる感覚。これこそが、『ドグラ・マグラ』の恐ろしさであり、魅力であり、日本三大奇書とまで称されて称賛される所以なのではないだろうか。



【参考資料】
『日本探偵小説全集4 夢野久作集』夢野久作著 創元推理文庫 1984年
『知っ得 幻想文学の手帖』學燈社編集部 學燈社 2007年
『ドグラ・マグラ(上)』夢野久作著 角川文庫 1976年
『ドグラ・マグラ(下)』夢野久作著 角川文庫 1976年
『ドグラ・マグラの夢 覚醒する夢野久作』狩々博士著 三一書房 1971年
『鶴見俊輔書評集成』鶴見俊輔 つるみ書房 2007年


【参考WEB】
とある元映写技師の日常 『ドグラ・マグラ』私的覚書
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/1552/dogura-magura.html
松岡正剛の千夜千冊『ドグラ・マグラ』夢野久作
http://1000ya.isis.ne.jp/0400.html
夢野久作「ドグラ・マグラ」 / 千年書房・九州の100冊 / 西日本新聞
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/2006/03/post_7.shtml

『ドグラ・マグラ』に描かれるモノ

比較文学専攻
マジマ


【はじめに】
『ドグラ・マグラ』は、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』と並んで日本探偵小説三大奇書に数えられる、夢野久作の代表作である。私自身その存在自体は以前より存じており、また興味もあったため、今回当レポートを執筆するにあたって『ドグラ・マグラ』を読了させて頂いた。その結果私の感じた、夢野久作がそこに描いたモノの片鱗を、僭越ながら当レポートを用いて考察したいと思う。


【『ドグラ・マグラ』について】
 『ドグラ・マグラ』は前述したように、夢野久作によって書かれた日本探偵小説の大傑作である。夢野久作が作家として活動を始めて間もないころに発表した小説『狂人の開放治療』を下地としており、その構想、および執筆に10年以上の歳月をかけたとされている。タイトルの「ドグラ・マグラ」という文言は、本文中において「キリシタンの呪術を表す九州地方の方言ではないか」という説明が一応はなされているものの、明言されてはいない。文体は、主人公「わたし」目線から描かれた一人称と、資料をそのまま地の文として配置する書簡体形式とが混在しており、そのため描写の把握が難しく、非常に読み難い文章となってしまっている。このような文体形式を採った小説は発表当時(1935年)としては大変珍しい、というよりむしろ奇々怪々なものであったため、「本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来たす」などと称された。また、これは私感であるが、便宜上「探偵小説」とカテゴライズされてはいるものの、そのような矮小な枠組みでは到底捉えられないような作品である。単なる「探偵が難事件を推理する」ようなエンターテインメント作品ではないのである。この点に関しては、詳しく後述する。さて、この項において『ドグラ・マグラ』のあらすじを軽く記載するべきなのだろうが、当作品においてはその内容が非常に複雑かつ難解で、あらすじを4000字程度でまとめるなど私の技量では到底不可能であるので、誠に勝手ながら割愛させて頂く。


【『ドグラ・マグラ』の魅力】
 まず本論の『ドグラ・マグラ』に描かれるモノの正体を考察する前に、私自身がこの作品に感じた魅力を軽く論述してみたいと思う。まず一つはなんと言ってもその計算し尽くされた作品構成である。見事な伏線の配置とその鮮やかな回収。前半などは、その全てが伏線であると言っても過言ではない。さらにそのように複数の伏線を巧みに回収しながらも、内容そのものの追求に関しては読者を煙に撒いてしまう。すなわち、本作で語る内容をはっきりと述べず、読者の考察の余地を無限に広げているのである。私自身、はっきりと真相が明かされないような小説は、作者が「逃げ」に走ったような印象を受けてしまい、どちらかというと苦手である。しかし、この『ドグラ・マグラ』には、その完璧な構成と伏線回収、そして人並み外れた文章能力により、そのような負の印象を一切もたらさぬ、強烈な力が込められている。読者の考察する余地を広げて「くれている」、というように読者に解釈させる。そのような力がこの小説には込められているのである。この手腕には感嘆せざるを得ない。

 また、もう一つの魅力はその読了感にある。『ドグラ・マグラ』を読み切ったぞ、という一つの達成感である。本作が一人称、そして書簡体形式を用いた複雑にして珍妙な文体によって描かれているということは前述した通りであるが、その読みづらさときたら並大抵のものではない。特に書簡体部分の資料は文語体で書かれていたり、韻文のように書かれていたりと、いちいち頭を切り替えながら読まねばならず、読了するのに大変な労力を要する。しかし、その苦難とも呼べるような前半部分を読解した暁には、後半部分の展開が滑るように頭の中へ入ってくる。そして次々と二転三転する事実に揺さぶられながら、読者は息つく間もなく最終局面まで引きずり込まれるのである。ここで得られる達成感は、なかなか得られるものではない。ほぼ言文一致体で描かれる小説でありながら、古文の大長編を読了したかのような達成感が、本作に存在しているのである。

 要するに、現代小説でもなかなかお目にかかれないような、作品発表当時としては恐ろしいほどに卓越した構成能力と、その複雑で珍妙不可思議な、読者に比類なき達成感を与えてくれる文章形式が、私の感じた『ドグラ・マグラ』の魅力である。さらに述べるならば、これは私だけに限定された魅力ではなく、恐らく大半の人間の『ドグラ・マグラ』に対する魅力の中核を為すものであるのではないだろうか。


【本論―『ドグラ・マグラ』に描かれるモノ―】
 『ドグラ・マグラ』に、夢野久作が描いたモノ。それは私が考えるに、平々凡々な探偵小説に描かれるような「難事件の犯人が誰なのかを解き明かすエンターテインメント」では決してない。実際本作においても事件は存在して、その犯人もたしかに判明するのであるが、そこは『ドグラ・マグラ』の中核ではなく、むしろ外装と言ってもいいような部分である。なぜならば、『ドグラ・マグラ』においては主人公の主観で描かれる「本文」と呼ばれるモノにはほとんど意味のない可能性があるからである。ここを詳しく説明するとあらすじを紹介せねばならず、そうなるとやはり文字数が足りなくなってしまうので誠に勝手ながら省略するが、早い話が、主人公が精神喪失状態にある可能性が本文で示唆されており、そうなると彼の語る風景や会話の描写が、その意味を丸ごと失ってしまうのである。そうなってしまうと、もはや誰が犯人であるかなどは、まったくもって無意味な問題と帰してしまう。単なる精神異常者の戯言へと、話は帰着してしまうわけである。だから、一般的な探偵小説としてのエンターテインメントを本作に求めると、それはまるっきり見当違いな見解であると言わざるを得ない。

 では、結局のところ夢野久作は何を描いたのか。私もはっきりとそれが判明したわけではないので、明言は難しいのであるが、少なくとも「精神病への対応に対する批判」はそこに含まれているのではないだろうか。本作中に提示される資料の中に『キチガイ地獄外道祭文』という30ページ強に渡る経文があるのであるが、そこに描かれている内容は、現在の精神病院は精神病の治療にまったく役に立っていないばかりか、精神病患者を閉じ込めて嬲り殺しにしてしまう悪魔の施設であり、さらには、健常な精神をもつ者も金次第でいとも簡単に「精神病」と認定し、治療の名の下に社会的抹殺を行ってしまうような場所でもあるというもので、精神病院への痛烈な批判である。この『外道祭文』内の主張は本作の中で幾度となく登場し、さらにはその他の資料も大半は、当時における現代の脳科学、あるいは精神病医学への批判である。そのためこの主張は読者の脳に強烈に刷り込まれる。この「精神病院への批判的メッセージ」を、『ドグラ・マグラ』の執筆動機として捉えても差支えないのではないだろうか。

 しかし、それすらも外装に過ぎないのではないかという不安が、私の中にはある。さらに深淵なメッセージが、『ドグラ・マグラ』には込められているのではないだろうか。物語終盤において、私の心に突き刺さった箇所がある。登場人物の一人の精神科学者が自殺を決意するのだが、その時、彼は自殺に至る心境をこう語る。

 「正直なところを言うと吾輩は人間が嫌になったのだ。こんな研究(精神科学)でもしていなければ、ほかに頭の使い道のない人間世界の浅薄、低級さに、たまらないほどうんざりさせられてしまったのだ」――『ドグラ・マグラ 下』角川文庫 312ページより一部補完して抜粋――

 ここに、夢野久作の描きたかったモノがあるのではないだろうか。ひたすらに意味のない研究、あるいは仕事、というものに骨身を削って生きていかなければならない人間の無意味さ、辛さ。そこから発展して、「人間が生きる」とはどういうことなのか。『ドグラ・マグラ』を通して夢野久作が描いたモノはそのようなことではないのだろうか。いや、もしかすると、そのような無意味な事を為して生きているような人間を、夢野久作はあざ笑っているのかもしれない。さらに言うならば、この『ドグラ・マグラ』のような奇妙な本と何の意味もないのに真面目に格闘し、それを読解しようとする人間を。そのように、私は思えてならないのである。


【結論】
 『ドグラ・マグラ』において夢野久作が描いたモノ。それをはっきりこれだと断定するのは、現段階では非常に困難である。どの結論を出しても底の浅いモノに思えて仕方がなく、さらに深淵な意味があるような気がしてくるのである。しかし、そのように読者を思考の迷宮へと誘う魔力。それも含めて、『ドグラ・マグラ』を名著と言わしめる所以であるのかもしれない。

 また、今回のレポートでは、根拠に乏しい部分が数多くある。次回研究を試みる際には、そこのところを充分に掘り下げて、以降私の研究課題となるように努力してゆく所存である。




【参考資料】
『ドグラ・マグラ(上)』夢野久作著 角川文庫 昭和51年出版
『ドグラ・マグラ(下)』夢野久作著 角川文庫 昭和51年出版

『四谷怪談』を描いた作品たち

比較文学専攻
マジマ


【はじめに】
『東海道四谷怪談』、通称『四谷怪談』。日本人ならば、怪談と聞いて真っ先にその名前を連想する人は多いのではないだろうか。江戸の狂言作家、鶴屋南北晩年の大傑作であり、幾度も様々な媒体によって現代まで脈々と語り継がれている『四谷怪談』。今回私はその『四谷怪談』を題材として描いた映画、アニメーションといった様々な作品群の検討、そして原作との比較を試みることで、それぞれの作品における表現の特色、そしてなぜこれほどまでに『四谷怪談』という物語が語り継がれるのか、その魅力を明らかにしていきたいと思う。


【作者紹介】
 四世鶴屋南北 1755年(賽暦5年)、江戸の日本橋、新乗物町に、紺屋の型付職人の息子として生まれる。幼名は源蔵。新乗物町は、中村座、そして市村座という江戸三座のうちの二つに隣接しており、そのことが彼の人生観に影響を与えたと考えられる。家業を捨て、芝居の世界へ飛び込んだのは南北21歳の年。その翌年に彼の名前(当時の名前は櫻田兵蔵)が初めて、櫻田治助の弟子として市村座の番付に並ぶことになる。その後、彼は師を離れ、名前を澤兵蔵、勝俵蔵と改めた後、1811年(文化8年)に57歳で四世鶴屋南北を襲名することになる。彼が立作者となるのは1801年(享和元年)、河原座において。その4年後、彼は河原座の夏興業において、出世作『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』を発表。この作品は江戸で大評判を呼び、彼は立作者としての地位を不動のものとする。その後、当時としては奇抜な技巧や、刺激的な描写を得意とした彼は、厳しいリアリズムを追求した狂言、「生世話狂言」というジャンルを確立。そして1825年に晩年の大傑作『東海道四谷怪談』を発表するのである。その他、晩年の傑作品としては、『獨道中五十三次』、『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』などがある。1829年(文政12年)、死去。最後の作品は『金幣猿島都(きんのざいさしまだいり)』であった。


【書誌】
『東海道四谷怪談』河竹繁俊校訂 岩波文庫 1956年
『日本怪談劇場』東京12チャンネル(現テレビ東京)制作 監督:堀内真直 1970年
『怪 〜ayakashi〜』東映アニメーション制作 監督:今沢哲夫 2006年

【使用テキスト】
『東海道四谷怪談』河竹繁俊校訂 岩波文庫 1956年

第一章『東海道四谷怪談』について



○『東海道四谷怪談』と『忠臣蔵』

 そもそも四世鶴屋南北が最初に描き、上演された『東海道四谷怪談』は独立した単体の作品ではなく、当時絶大な人気を誇っていた歌舞伎狂言『忠臣蔵』、その合間に挿入された物語として『忠臣蔵』と抱き合わせて二日に分けて上演された作品であった。具体的には第一日目、『忠臣蔵』を大序から六段目まで見せ、その後『四谷怪談』の三幕目までを見せた。続く第二日目に『忠臣蔵』七段目以下、そして『四谷怪談』三、四、五幕目を見せたのち、終わりに『忠臣蔵』討入の場面を置く、という構成であった。そのため『東海道四谷怪談』には、『忠臣蔵』との関係性を匂わせるような場面や人物が幾度か登場する(資料①)。

 もちろん、このような構成は当時としても珍しく、また冒険的な試みであった。このことから、南北がいかに『四谷怪談』という己の新作狂言に自信を持っていたかを窺い知ることができよう。


○『東海道四谷怪談』の下地

 『東海道四谷怪談』は当時市井において話題となっていた様々な噂話や説話などを骨組み、下地として構成されている。それらの主なものをまとめると、以下のようになる。

1) 四谷左門町に住んでいた田宮又左衛門伊織の娘、お岩がその婿、伊右衛門と彼らの仲人秋山長左衛門に騙されて、その嫉妬のために憤死。以後怨霊となったお岩が両者の親族、家族を祟り殺してその血を根絶やしにしてしまったという説話。

2) 当時、ある旗本の妾(めかけ)がその家の奉公人と不貞を為していることが露見。その罪によってその男女は戸板の裏表に打ち付けられ、嬲り殺しにされた挙句、神田川へ流されたという噂話。

3) 砂村の隠亡堀に、身体を結び合った心中者の死体が流れ着き、それを鰻取りが発見して大騒ぎになった事件。
これらの話を、『謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちょっととくべえ)』、『法懸松成田利剣(のちかけまつなりたのりけん)』などの南北自身の怪談作品を基盤に据えて盛り込み、アレンジを加えた結果完成したのが『東海道四谷怪談』であると言われている。言うなれば『四谷怪談』は、南北怪談劇の総決算と言っても過言ではないのである。


○『東海道四谷怪談』に取り入れられている手法

 さて、『四谷怪談』が人気を博したのは筋書そのものの完成度の高さもさることながら、当時としては画期的な、今日で言うところのSFX的な演出手法が用いられたことにも起因している。それらの手法のいくつかをここで紹介しておきたい。

1) 「髪梳き」(資料②) 第二幕にて、毒を飲んだお岩が櫛で髪を梳くと、髪が抜け落ち、顔も崩れていく仕掛け。不気味な造形を表現するため、本来頭皮の地肌を表現するものとして用いる羽二重(はたぶえ)の鬘が用いられた。

2) 「戸板返し」(資料③) 第三幕にて、戸板の裏表に張り付けられて、伊右衛門への恨み言を吐くお岩と小平の二役を一人が演じるための仕掛け。それぞれの役の衣裳があらかじめ戸板の裏表につけられており、戸板に空けられた穴から顔だけを出せるようになっている。

3) 「仏壇返し」(資料④) 第五幕にて、伊右衛門の友人で彼をそそのかした秋山長兵衛が、お岩によって仏壇に引き込まれる際の仕掛け。仏壇の後ろに水車のような装置があり、それを利用することで、長兵衛が消えると装置は一回転して元の仏壇へと戻る。

4) 「提灯抜け」(資料⑤) 第五幕にて、燃え上がる提灯からお岩の幽霊が出現する際の仕掛け。提灯が燃えつきようとする瞬間に、お岩役の俳優が箸箱のような装置に乗って押し出されてくる。これによって、観客からは、お岩が提灯の中から出てきたように見える。


○お岩さんの「祟り」

 『四谷怪談』を語る上で避けて通れない要素の一つとして、「お岩の祟り」がある。ことの発端はやはり『東海道四谷怪談』の初演。これが上演されて五年のうちに南北本人、その息子夫婦、親族を含む芝居関係者11人が次々と死を遂げている。それ以降『四谷怪談』を上演するたびに、それに関わった演者に怪我や死が相次ぐようになり、いつしか『四谷怪談』を上演する際には四谷にあるお岩稲荷にお参りをしなければ祟られるという噂が流布するようになった。ただし『四谷怪談』は、それに用いられる仕掛けが技巧を凝らしたものであるという性質上、演者が怪我しやすいということもあり、その事実も多少は起因していると考えるべきであろう。また『四谷怪談』は芝居だけでなく、講談でも語られるようになったが、その第一人者である講釈師、柳亭一竜斎貞山は、『四谷怪談』を開始してからというもの怪異に苛まれ、昭和41年に「お岩さま」とうわごとを言いながら悶死している。「祟り」というものが果たして存在するのかどうかは私には判断しかねることであるが、『四谷怪談』の裏にはこのような薄気味の悪い出来事が起こっているという事実に関しては否定のしようがない。

第二章 『日本怪談劇場』における『四谷怪談』



○概要

 この作品は、テレビドラマ作品として制作されたもので、前篇『四谷怪談 稲妻の巻』と後篇『四谷怪談 水草の巻』から成る。映像時間はそれぞれ約47分。脚本は成澤昌茂氏が、監督は堀内真直氏が務めている。
 

○あらすじ

・『四谷怪談 稲妻の巻』
 主人公、民谷伊右衛門は傘張をして生計を立てている御家人崩れの浪人。過去に色町で働いていたお岩という美しい女性を妻にもっているが、伊右衛門はそんなお岩に愛想が尽きかけている様子。とうとう伊右衛門はお岩を突き飛ばし、彼女を流産に追い込んでしまう。そのような折、伊右衛門はその友人でやくざ者の直助権兵衛とともに、町で金持ちの商家である伊藤家の娘、お梅を暴漢から助ける。しかし、その暴漢は実は伊右衛門と伊藤家に繋がりをもたせるために直助の仕向けた者であった。直助の計略通りにお梅は伊右衛門に惚れ込み、その父親伊藤喜兵衛は伊右衛門に縁談を持ち込む。伊右衛門はお岩を捨てるという良心の呵責に耐えきれず、縁談を一旦は反故にしかけるものの、お岩の妹、お袖の旦那、小平と不貞を犯していると直助に吹き込まれてその心は揺らぐ。さらに直助は妙薬と偽って毒の塗り薬を按摩の宅悦を使って、お岩に送り届ける。薬と信じたお岩はそれを服用。醜く顔が崩れてしまい、その時偶然一緒にいた小平もろとも、伊藤家から帰ってきた伊右衛門に斬り殺されてしまう。


・『四谷怪談 水草の巻』
 小平とお岩を惨殺した伊右衛門の前に、タイミングよく直助が現れる。直助はことが露見してはマズイと伊右衛門を追い立てたのち、二人の死体を戸板の裏表に張り付け、水草生い茂る川へと流してしまう。伊右衛門の方はというと、無事伊藤家にお梅の婿として迎えられるものの、その初夜お梅の顔がお岩に、喜兵衛が小平に見え、狂乱した伊右衛門は二人を斬り殺してしまう。茫然とする伊右衛門の耳に届く、お岩の恨み言。それによって伊右衛門は小平との不貞が自分の誤解であったことを知り、お岩に許しを乞うのであった。一方、宅悦からお岩と小平が切り捨てられたことを聞いたお袖の前にもお岩と小平の怨霊は姿を現し、その恐怖からお袖は働いている遊郭の常連客、佐藤与茂七と再婚する。その後二人は民谷の屋敷へ弔いに赴くが、その先ですっかり意気消沈した伊右衛門に会う。伊右衛門は小平とお岩を斬り殺したことを二人に告白したのち、全ては自分の誤解、誰かの策略に嵌められたと語る。その後、覇気の抜けた伊右衛門がふらふらと徘徊して辿りついたのは、直助が死体を流した例の川。そこで戸板に縛り付けられたお岩と小平の幽霊から、全ての黒幕は直助権兵衛であると知らされた伊右衛門は、その川で直助を待ち伏せる。はたしてやってきた直助を無事に斬り殺してお岩の仇を取った伊右衛門は、自ら割腹してその命を絶つ。そこへ駆けつけたお袖と与茂七は、お岩と伊右衛門の冥福を祈りながら、静かに手を合わせるのであった。


○作品の特徴

 『日本怪談劇場』で語られる『四谷怪談』の特徴は、高い特撮技術を駆使したお岩のメイク、登場人物の設定がほぼ一新していること(資料⑥)、そして全ての黒幕が直助権兵衛に帰着しているということである。この作品には左門が登場しないため、伊右衛門は能動的に殺人を犯してはいない。この作品中の殺人は全て直助の悪巧みに操られた結果で、伊右衛門は根っからの悪人ではないということになっている。なので、この作品は原作のようなお岩の怨霊の恐怖ではなく、どちらかというと伊右衛門の心理描写などといった部分にややウェイトが置かれた構成になっている。それによって恐怖感は若干薄れるものの、作品そのものが直助権兵衛に代表される人間の醜い部分を描いた勧善懲悪ドラマとして十分完成されているため、エンターテインメントとして大変面白く見ることができる。つまり、『四谷怪談』の魅力というのは単に「恐怖」だけに集約されているのではなく、その背景の人間ドラマの深淵さもそこに含まれているということが、この作品によって窺い知ることができるのではないだろうか。

第三章 『怪 〜ayakashi〜』における『四谷怪談』



○概要

 この作品は2006年に東映アニメーションによって制作されたアニメーション作品。「序の幕」、「二の幕」、「三の幕」、「大詰め」の四話から構成される。映像時間はそれぞれ約23分。脚本は小中千昭氏が、監督は今沢哲男氏が務めている。また、鶴屋南北を語り手として物語に登場させ、毎回冒頭に『四谷怪談』の裏話や南北自身の歴史を語る構成になっている。


○あらすじ

・「序の幕」
 原作『東海道四谷怪談』第一幕、第二幕序盤とほぼ同等の内容。お岩のもとに劇薬が届けられるまでを描く。冒頭で鶴屋南北が語るのは『忠臣蔵』との関連性。

・「二の幕」
 『東海道四谷怪談』第二幕とほぼ同等の内容。錯乱した伊右衛門がお梅と伊藤喜兵衛を斬り殺すまでを描く。冒頭では四谷怪談の下地となった噂話が語られる。

・「三の幕」
 『東海道四谷怪談』第三幕、第四幕とほぼ同等の内容。川での戸板返しの場面から、直助が自らがお袖の実の兄だと発覚して自害するまでを描く。冒頭で語られるは四谷のお岩稲荷に伝わる、お岩が良妻の鑑であったという伝承。

・「大詰め」
 『東海道四谷怪談』第五幕とほぼ同等の内容。お岩の幽霊との七夕の一夜から、伊右衛門が与茂七に討ち取られる終末までを描く。今回に限り、冒頭の語りは無し。その代わり、最後に『四谷怪談』の祟りや怪異の紹介と考察について語られた。


○作品の特徴

 この作品『怪 〜ayakashi〜』は、原作『東海道四谷怪談』を相当忠実になぞっている。「髪梳き」や「戸板返し」といった、『四谷怪談』ならではの見せ場もしっかりと用意されている。もちろん原作との差異が全くないわけではないが、それは差異というよりは省略に近いものであり、そこに脚本家の意図が絡んでいるとは思えない。言うなればこの『怪 〜ayakashi〜』は『四谷怪談』を忠実に簡略化したものであり、『四谷怪談』の筋を追うだけならば一級品とも言える代物である。では、この作品の特徴はどこにあるのか、というとやはり「鶴屋南北の語り」という目線から物語が進行していく点にあるのではないだろうか。南北自身の解説により、『四谷怪談』の本質がひも解かれていくという構成には、私自身ある種の新鮮味を感じた。そして、その南北の解説は最終的に「お岩さんの祟り」へと帰着する。なぜ現代においてもなお「お岩さんの祟り」は生き続けるのか。作中においてそのような問いに南北は、「観客がお岩の祟りが続くことを望んでいるのだ。いつしか『四谷怪談』は、単なる虚構の物語としてだけの存在でなく祟りそのものになっているのだ」と答える。『四谷怪談』の「祟り」はこの作品にとって重大な魅力の一つであると、『怪 〜ayakashi〜』は南北の口を通して伝えているのである。


【結論】
 現代に至るまで幾度となく作品化されてきた『四谷怪談』。なぜこれほどまでにこの物語は語り継がれるのか。その魅力は恐らく、お岩の怨念の恐ろしさという怪談的魅力もさることながら、人間の醜い部分を克明に描き出した優れた人間ドラマとしての完成度、そしてその物語の背後におどろおどろしく憑いて回る「お岩さんの祟り」というオカルティックな魅力。これらの要因が絶妙に絡み合うことで、『四谷怪談』という物語は今でもなお多くの人々を惹きつけてやまないのではないだろうか。今回の研究では時間や資料の都合上、数少ない資料によって底の浅い見解を導くことしかできなかったが、次の機会にはさらに内容を深め、完成度の高い研究にできたらと、切に願う所存である。




【参考資料】
『東海道四谷怪談』河竹繁俊校訂 岩波文庫 1956年
『日本怪談劇場』東京12チャンネル(現テレビ東京)制作 監督:堀内真直 1970年
『怪 〜ayakashi〜』東映アニメーション制作 監督:今沢哲夫 2006年
『まんがで読破 四谷怪談』バラエティ・アートワークス 2011年出版

【参考WEB】
歌舞伎への誘い『東海道四谷怪談』
http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/5/5_04_27.html
歌舞伎の基本,舞台演出,知らざぁ言って聞かせやしょう!歌舞伎の基本
http://www.sen-nen-bi.com/100/115/

映画における表現規制について

比較文学専攻
マジマ


・はじめに
 今回当レポートにおいて私が「比較文学演習の授業を通して学んだこと」として記したいもの、それは授業中に見た映画の内容、とくにその表現技法についてである。平成の世に生まれ、戦後の名作映画と呼ばれる作品群はおろか、モノクロ映画すらも鑑賞した経験のなかった私にとって、授業中にとりあげられた作品の数々は非常に強く印象に残るものであった。とくに、その中で用いられる様々な表現技法は、昨今の映画にはなかなか見られないものも多くあった。今回私はその衝撃を受けた表現技法を、とくに「表現規制」の観点から注目して述べていきたいと思う。


・「差別用語」、「放送禁止用語」
 現在の、小説、漫画、アニメーション、映画などの各メディア媒体には、「差別用語」あるいは「放送禁止用語」と銘打たれた「言葉」が存在する。「キチガイ」、「めくら」、「おし」などの言葉である。これらの言葉は、それが作品内に存在するという理由だけで、その作品を放送禁止、放映禁止、さらにはお蔵入りに押やってしまうほどの力を、少なくとも今現在のメディア界の中では持っている。私たちの世代からしてみれば、それが至極当たり前のことであり、そういうものであるという認識を持って、各メディア作品を鑑賞してきた。そんな私にとって、戦後映画の台詞が放つ「言葉」の衝撃は非常に大きいものであった。「差別用語」、「放送禁止用語」など、まるで「普通」の言葉であるかのように、非常に軽く、作品内の演者の台詞から発せられるのである。とくに「キチガイ」という言葉に関しては、もはや何度聞いたか勘定のしようがないほどよく使われていた印象がある。

 これは、昨今の映画作品では到底考えられない事態であり、私は非常に強い衝撃を受けた。それと同時に、どうして現在は「差別用語」が規制されているのだろうという考えに至った。あまりにも軽くそれらの用語が発せられているからである。「差別用語を発することによって、被差別者への差別意識が高まるからだ」等の返答は容易に予測できる。しかし、本当にそうなのだろうか。少なくとも私は、むしろ「差別用語」というものが存在するからこそ、被差別者の方々が禁忌の向こうに押やられてしまっているように思えてならない。戦後映画で軽く発せられる「キチガイ」という言葉を聞いていると、「キチガイ」という存在を非常に身近なものとして感じられる自分がいるのである。むしろ、「キチガイ」という言葉を必死にひた隠しにしようとすればするほど、それはどんどん触れてはいけない存在となっていってしまい、逆に「差別意識」が芽生えてしまうのではないだろうか。戦後映画の「差別用語」が頻繁に使われている場面を見ると、私はそう思えてならない。

 さらに、こと映画表現という場に限って述べるのであるならば、「差別用語」および「放送禁止用語」という存在は単純に、扱える言葉の幅を狭くしている。つまり表現の幅を狭くしてしまっていると言えるのではないだろうか。表現規制に染まった昨今の映画に名作が存在してはいない、等ということを言うつまりは毛頭ないが、戦後の映画と比べて、言語表現の幅が非常に狭い中で作成されたものであるということは否定のできない事実である。とすれば、昨今の映画において戦後映画以上のものが存在できる可能性は限りなく少ないのである。

 以上のことを考えると、被差別者の方々に対して、禁忌感という新たな差別意識を植え付けてしまうだけでなく、単純にメディア表現の幅を限りなく狭めてしまう「差別用語」、「放送禁止用語」という存在に、私は疑問を抱かざるを得ないのである。


・「精神病院」という禁忌
 もう一つ、作品中に頻発される「差別用語」と同等程度に、私にとって衝撃的だった場面がある。それは映画版「裸の大将」に登場する「精神病院」のシーンである。そもそもこの映画はあまりにも原作を忠実に再現した主人公「山下清」のキャラクターからしても非常に危ないのであるが、この精神病院内が描かれるシーンはそれにも増してあまりにも衝撃的であった。上記で散々述べた通り、ただ台詞として発言されるだけでも規制の対象となってしまう「キチガイ」がこのシーンには直接映像として描写されているのである。それも、あまりにも現実的に。しかし、私はこのシーンに大変な感銘を受けた。映像として「キチガイ」を描写した、という事実もたしかに素晴らしいのであるが、当然それだけではない。「裸の大将」という作品における主人公「山下清」のキャラクター性、そしてその舞台が戦後の日本であるという実情を鑑みたときに、どうしても「精神病院」はそこにいなくてはならない存在なのである。昨今のドラマ版「裸の大将」ではもちろんそんな描写などあるはずもなく、そのことは非常に不自然な図として我々の目に写ってしまう。この辺りの感覚をよく理解して、「精神病院」の描写を作品内に入れ込んだ脚本家の姿勢は、私は非常に素晴らしいものであると考える。

 さて、前述した「差別用語」、「放送禁止用語」も現在においてはかなり危険な表現なのであるが、この「精神病院」はそれにも増して規制の危険性の高い存在である。「精神病院」という言葉自体はもちろん、「精神病院」を作品内に映像として描こうものなら、現在ならば確実に規制の対象となってしまう。しかし、規制が発令される前に作成された「精神病院」をテーマにした作品群には傑作と呼ばれるものが少なくない。

 例えばザ・クランプスの精神病院ライブは、20分という短い映像ながらも、まさに「ロックンロールがこの世に生まれた瞬間」の再現とも呼べる、非常に高揚感を持った映画である。しかし現在、この作品は一応DVDソフト化はなされているものの、もはや入手は困難であり、テレビで放映される機会などは今後おそらく、ない。また、「怪奇大作戦」というドラマの中の「狂鬼人間」というエピソード。これも子ども向けの特撮ドラマでありながらも、精神疾患者と認定されれば犯罪者が無罪放免となってしまう「刑法第39条」の在り方について真正面から取り上げ、世の中に矛盾に対する強い抵抗を描いた非常に上質な人間ドラマであるのだが、これに至っては一度本放送において放映されたのみで、DVDどころか、ソフト化すらなされていない。これらの作品として完成度の高い作品群が表現規制の名の下に封印されてしまい、一部の好事家以外の人間には二度と日の目を浴びることのないという事実は、個人的に非常に物寂しいものがある。

 「精神病院」という媒体は、たしかにデリケートな存在であり、おいそれと気軽に弄繰り回していいものではないのかもしれない。そのような作品群は、たしかに規制されて然るべきであろう。しかし、「精神病院」というワードだけで過剰に反応して。片っ端からそれを取り扱った映像作品を規制してしまう現在の状況はいかがなものであろうか。「精神病院」という素材は、上手く扱えば、現代社会の抱える大きな矛盾や、徹底したリアリティを克明に描き出すことのできる非常に優秀な素材であり、それゆえ、上記のような傑作が生みだされやすいという可能性を秘めている。そのような映像作品として描く上でたいへんに価値のある素材を、非常に扱いにくくしてしまっている現在の状況は大変に心苦しいものである。これでは、表現規制のなかった戦後映画を超える完成度をもつ映像作品など生まれようがないではないか、と声を大にして訴えたい次第である。それほどに、「精神病院」という素材は、映像作品を制作する上において素晴らしく優秀なものであると、私は考えるのである。


・おわりに
 比較文学演習という授業において、戦後の映像作品を鑑賞させて頂いて学んだこと、それは、現在制作することのできる映像作品の表現の幅は、戦後のそれと比べると非常に狭いものとなってしまっているということである。その分、我々の目に戦後映画が魅力的に映ることができるということは、たしかに一つの事実ではあるのだが、同時に、現在の世を生きる我々にとっては、今の表現規制された映像作品の現状に一抹の「寂しさ」のようなものを感じざるを得ない、ということもまた事実である。近い将来、これらの表現規制が見直され、戦後映画と同じ表現の幅において、現在の技術を駆使した映像作品が誕生してくれることを、私は願ってやまない。