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夏目漱石『行人』論 手紙の機能と物語内の時間

熊本大学文学部文学科
伊藤祥太

はじめに

 『行人』は漱石三部作の一つであり、修善寺の大観後の則天去私に至る過程における作品の一つとして読むことができる。「友だち」「兄」「帰ってから」「塵労」の四部構成となっているのだが、このうち前半三部と最後の「塵労」には形式的な相違があることは明白である。

 この「塵労」だけを違う構成にしたことには、物語上どのような効果があったのだろか。また、この小説における時間の流れはどうなっているのか。それらのことについて、適宜先達の考えを引用しながら考えていきたい。

手紙という形式について

 前半三部までは二郎を視点とした一人称小説であるが、「塵労」では語り手が一郎の友人Hに変わる。さらに特徴的なのは、後半部分が兄一郎の友人Hからの手紙という形式をとっていることである(注1)。この手法は、後期三部作として『行人』に続く『こころ』と似たような形式だと言える(注2)。『こころ』では先生に関する事象に重きが置かれていた。しかし、『行人』では実に巧みに主人が入れ替わっており、主人公が一人ではないということ事実には、読み進めていくうちに気付くこととなる。

 物語は初め、二郎とその友人三沢を軸にして進んでいく。兄一郎の登場までは、当然のことながら、一郎が介在することはない。ところが三沢と別れた後、次第に兄一郎に焦点が当てられるようになり、「塵労」にいたっては一郎の独壇場となってしまう。この主人公の入れ替えという荒業をスムーズに、読者に違和感を抱かせることなく行えた理由が、この手紙という形式にある。主人公の視点は確かに変わっている。しかし、形式的には視点が変わっていないというところに、この手法の妙がある。手紙を読んでいるのは二郎だと考えれば、固定焦点は守られている。ゆえに、私たちは視点が変わったということを感じないでいられる。

 この場面のスムーズな転換というのは、手紙という形式のみによって完成されるものではない。「兄」「帰ってから」を読めば、ここで二郎と一郎という二人の主人公が混じりあっており、これも主人公入れ替え装置の一つとして機能していることがわかる(注3)。この二人を繋ぐものはいったい何であろうか。勿論、同じ血が流れていることも理由の一つである。しかし、一郎の妻である直の存在はさらに大きい。絆ではなく、軋轢として二人を繋ぐ役割を彼女は果たしている(注4)

 この軋轢は、双方の主人公にとって重要な意味をもたらす。二郎については「友だち」から引きずっている男女間の問題をより一層浮き彫りにさせる。一郎に関しては、ある種の毒(注5)を持った近代的知に囚われた悩みをより一層深刻化させることになる。主人公が入れ替わることによって、私たちは二郎の悩みに親しく寄り添い、一郎の悩みにも「塵労」の部で深く感情移入することができる。

『行人』における時間

 次に、この小説に流れる時間の問題について見ていきたいと思う。この作品は、二郎の回想形式で書かれている。どうやら、全てのことが終わって、しばらく経った頃の二郎であるようだ。であるから、二郎は過去の自分を少し冷静に見ることができるようになっている。これが過去語りではなく、現在語りであったならばどうなっていただろう。きっと、友人三沢とのやり取りについてもっと感情的に描かれていたに違いない。しかし、作品中ではひどく自己分析的に書かれているし、また、他人のことについても考察した上で書かれていることがうかがえる。

 自分の「あの女」に対する興味は衰えたけれども自分はどうしても三沢と「あの女」とをそう懇意にしたくなかった。三沢もまた、あの美しい看護婦をどうする了簡もない癖に、自分だけがだんだん彼女に近づいて行くのを見て、平気でいる訳には行かなかった。そこに自分達の心づかない暗闘があった。そこに持って生れた人間のわがままと嫉妬があった。そこに調和にも衝突にも発展し得ない、中心を欠いた興味があった。要するにそこには性の争いがあったのである。そうして両方共それを露骨に云う事ができなかったのである。(「友だち」二十七)

 二郎の冷静さがわかる部分を引用した。文末は、全て過去形となっている。二郎が三沢を何故か快くないと思い、三沢も二郎のことを快くないと思っている。この事実は、二郎もこの時点で感じ取っていただろう。しかし、この時点では何故快く思っていないか、分かっていなかったに違いない。私にも身に覚えがある。家に帰ってみて、あるいは一週間経過して、そうかあれは嫉妬なのか、そうかあれは羨望なのかなどと、時間が経過してからその感情に名前をつけたり、説明したりすることができる。二郎もこれと同じだ。しかも、非常に高度な分析を行っている。ところで酒井氏はこの性の争いについて書かれた場面について次のように述べている。

 「友だち」の章では、後の章に頻出する「後から知って」(「兄」七)、「今から顧みると」(同・四十二)、「今になつて」(同)といった回想形式が導入されていない。つまり、「友だち」では、語っている時点の二郎による心理分析が施されていないのである。したがって、「自分達の心付かない暗闇」を析出するのは、二郎ではなく、作者であろう。

 つまり、酒井氏は私の述べていることの逆を述べていることになる。これに対する反論を、私の論を組み立てる足がかりとしたい。まず、「回想形式が導入されていない」からといって、「心理分析が施されていない」と結論づけるのは性急である。それは形式的な問題であって、文章の内容を捉えた内容となってはいない。確かに、「自分達の心付かない暗闇」というように、心理分析については曖昧な結果しか出ていない。しかしこれはむしろ、心理分析をしたうえで、それが曖昧な結果だとしても一応結果は出せたのだと解釈するべきだ。「性の争い」と二郎と三沢、二人の間にあるそれまでは曖昧模糊であった感情・現象に名前をつけていることが、分析が入った証拠である。

 また、私にはどうしても酒井氏の言う「『自分達の心付かない暗闇』を析出するのは、二郎ではなく、作者である」ということがわからない。読み手が析出するのなら分かる。テクスト論的な考え方になるが、作者の手から離れた瞬間、そのテクストは読者のものになる。この場面にどんな解釈を加えても、読み手の勝手である。しかし、作者が析出するとはどういったことであろうか。作者の考えはそのまま二郎に反映されているといってもいい。二郎、一郎は当然、漱石の分身である。いや、二人だけではない。『行人』に登場する人物は総じて漱石の分身でしかない。その意味において、二郎が析出できないものを作者漱石が析出できるとするのは、おかしなことなのである。従って、この「性の争い」に関わる部分でも、漱石の過去語りの効果は十分にある。他の部分の過去語りについては、酒井氏が指摘している通り明確に回想とわかる語が付随しているので、より読み取りやすくなっている。

終わりに

 さて、ここまで主人公の入れ替え、手紙、過去語りについて考察をしてきた。漱石は『草枕』や『虞美人草』では漢語表現を多用しているが、『行人』では平易な表現を用いて説明しようとしている。これは、漱石の後期三部作に共通していえる特徴である。修善寺の大観後の則天去私に至る過程の一つとしてこの『行人』があると考えれば、できるだけ平易な言葉で人間の深みをつかもうとする気持ちの表れであろうと推察することができる。言葉が重くなりすぎれば、内容はそれに伴わなくなってくる。漢文表現を使わなくなったことは漱石作品にとってプラスに働いている。言葉自体によって作品の質を保つのではなく、語り方の手法によって質を向上させ、作中人物の言動・心情がより伝わりやすくなっているからだ。




注1. 大久保氏によれば「この書簡体小説の方法を漱石は18世紀のイギリス小説から学んだ」という。

注2. 大橋氏は「結末のHの手紙も、例えば次作『こゝろ』の「先生の遺書」のような、視点人物である青年「私」と表面的には完全に別な世界を描き出している部分なのではなく、むしろ、二郎が「兄から今何う見られてゐるか、何う思はれてゐるか」知りたいという利己的な動機から、両親が心配しているからと「嘘」をついてHに書いてくれるように頼んだ結果であり(<塵労>二十二)、「塵労」とはただ一郎だけでなく、二郎にも、そしておそらくすべての人間にかかわっているのだ」と述べており、同じ手紙ではあるが、その中身には多少の差異があることを示している。

注3. ただし、二郎が下宿を借りてからは主人公が一郎一人のみとなる間がある。これも、一旦兄から離して、読み手の興味をそそる効果がある。

注4. 板垣氏は「弟(二郎・執筆者注)は言葉や心持に現わしはしなかったが、暗黙の間に、心のなかだけで不遇な嫂を温かく抱きとっていたといわれるかも知れない」と言う。北川氏も「二郎の回想という形で進むこの物語を読めば誰しも、無意識的なものであれ、二郎が直にどうしようもなく惹きつけられていることに気づくだろう」と指摘している。行動にこそ移さないものの、暗闇の中で嫂の姿にドキリとするなど、二郎にもやましい心がなかったわけではない。この気持ちが、三角関係を生む。

注5. この毒によって、一郎は言葉では説明できない存在の直に苛立ちを覚えることになる。その結果、彼はついに新しい宗教に向かうことになる。この転換を書き記したのが、「塵劫」の後半にある手紙だ。




参考文献
板垣直子『漱石文学の背景』 1984年 日本図書センター
大久保純一郎『漱石とその思想』 1974年 荒竹出版
大橋健三郎『夏目漱石 近代という迷宮』 1995年 小沢書店
北川扶生子『漱石の文法』 2012年 水声社 
酒井英行『漱石 その陰翳』 2007年 沖積社




(このレポートは、大学二年生時に課題提出用として執筆したものに若干の修正を加えたものです。)
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源氏物語翻訳についてー与謝野晶子の創作的な訳を通してー

熊本大学文学部文学科
伊藤祥太

はじめに

 初学の者にとって、『源氏物語』を原文で読むというのはハードルの高いことである。全文を通して把握しようとするならば、まずは現代語訳から読破する人も多いのではないだろか。これは、例えばロシア語で書かれた『罪と罰』を初めは日本語訳で読むのと変わらないであろう。古典作品の現代語訳と、外国語作品の翻訳とは、基本的に同じような問題を抱えているように思う。本稿では、古典作品における現代語訳の問題を、外国語作品の翻訳の話も多少交えながら探っていこうと思う。

現代語訳の分類

 『源氏物語』の現代語訳と言っても、その方法にはいくつかの類型がある。立石和弘氏 によれば、「ダイジェスト本」、「全訳本」「リライト本」の3つに分類することでができる。ダイジェスト本は抄訳と言ってもよく、エピソードや和歌、言葉の枝葉が削ぎ落とされている部分がある。「全訳本」はその名のとおり全訳あるが、必ずしも逐語的な訳になっているとは限らない。最後のリライト本はいわゆる「翻案小説」と呼ばれるもので、そこには翻訳者(翻案者)の創意が大いに含まれている。

 初学の者が原文で源氏を読むのは苦しいが、全訳でもやや苦しい。『日本古典文学全集』や『源氏物語評釈』なども全訳に含まれる。これらの本は源氏物語のそもそもの雰囲気を保とうとして、現代の日本人が文章を書いたり読んだりする感覚とは少し離れてしまっている(もちろん、そもそも訳された年代が古いという要因もある)。私が今回例にとる与謝野晶子『全訳源氏物語』も全訳に分類されるものである。源氏物語に書かれている情報をそのまま現代語訳に置き換えようとするから、このような感覚のズレが生まれてくる。これを現代の感覚に直そうと思えば、それは源氏物語の世界感や情報を保つことができなくなるかもしれない。このような問題は、上でも指摘したように外国語作品と共通する部分が大いにある。それでも良いから、とにかく源氏をある形で受容してもらいたいと考えて生まれたのが、「ダイジェスト本」や「リライト本」といった類のものなのだろう。

与謝野晶子の訳した源氏物語

 与謝野晶子は生涯に二度、源氏物語の訳を刊行している。最初の訳本は明治四十五~大正二年にかけて刊行された『新訳源氏物語』。二度目の刊行は、昭和十三~十四年にかけて出された『新新訳源氏物語』である。この二つの新訳はそれぞれタイプが異なっている。『新訳』の方はいわゆるダイジェスト本に分類されるもので、『新新訳』の方はそれよりも全訳に近いものとなっている。本稿では、この『新新訳』を例にとって、源氏物語の現代語訳の問題について考えていこうと思う。なお、私の手元にあるのは『新新訳』が文庫化された『全訳源氏物語』であるから、今後は一貫してこの本を『晶子全訳』と呼ぶこととする。

 与謝野晶子は十一、二歳の頃から『源氏物語』に親しんでいる。そんな彼女がこの全訳を完成させたのは六〇歳のときのことである。つまり、五十年も源氏を愛読した者が訳したのであるから、私の思い至らない深淵な思考が含まれているのだと推察する。しかし、源氏にあまり慣れ親しんでいるとは言えない私から見えることもまたあるのではないだろか。源氏物語を知らない者に対して、源氏物語への入口はどうあるべきか。『晶子全訳』は、果たして初学の者にも読める内容となっているのだろうか。

『晶子全訳』桐壺巻を例にして

 さて、この『晶子全訳』と『源氏物語』とは一体どういう相違があるのか。また、その違いが一体どういう影響を及ぼしているのか。ここでは、「桐壺」巻を例にして考えてみることにする。

 『源氏物語』『晶子全訳』両方の冒頭文を引く。

 いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いと、やむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。(『源氏物語』)

 どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣とかいわれる後宮が大勢いた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった。(『晶子全訳』)

 この短い冒頭の一文だけでも、見えてくることがたくさんある。まずは、女御・更衣に関する記述。『晶子全訳』の方は、読者が女御や更衣を知らないだろうという前置きで書かれている。というのも、「女御”とか”更衣”とか”いわれる後宮」という風な書き方がなされているからだ。『源氏物語』は当たり前のことだが、平安朝の時代の人々に向けて書かれている。よって、女御とか更衣がどういったものなのかを知っているのはこれまた当たり前のことである。ここで、語り手の時間的位置が違うことが問題となってくる。『源氏物語』では「今」の視点からこの物語を書いているのに対して、『晶子全訳』の方では、「未来」の視点から物語を綴っていることになっている。時間的位置が違うとどのような問題があるだろうか。すぐに挙げられるのは、物語との距離が開いてしまうということだろう。私たちにしてみれば平安朝時代の出来事は過去のことなのであるが、それにもかかわらず現在のこととして書かれていることで、物語との距離を縮めることができるのではないか。このように名詞で説明が必要な部分は注などで補足する方が適当ではないかと感じる。ただ、『晶子全訳』においては、同じ「桐壺」巻の少し後の方で、語句について違った説明の仕方をしている。

 御息所――皇子女の生母になった更衣はこう呼ばれるのである――はちょっとした病気になって、実家へさがろうとしたが帝はお許しにならなかった。(『晶子全訳』)

 この一文でも、語り手が「未来」の視点から物語を綴っている。しかし、ダッシュを使っての補足にしたことで、元々の文章の感覚を残せたのではないかと思う。この手法は、外国語文学の翻訳においてよく見られる。確かにダッシュによる補足が多いと読みにくくなってしまうが、適度に説明として入れるのは原型を留めることと現代の読者にわかりやすくすることの一つの妥協点ではないかと思う。

 さて、次に気になるのはこの一文である。

 同じほど、それより下臈の更衣たちは、まして、安からず。(『源氏物語』)

 その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬の焔を燃やさないわけもなかった。(『晶子全訳』)

 最初の一文が文字数としては然程変わらなかったのに対して、この一文は訳文の方で文字数が多くなっている。これは、古典作品の特徴である省略を補うためであるが、この省略を補うこともどこまで補えばいいのかということも問題である。特にこの文章で気になるのが最後の「安からず」である。これを晶子は「嫉妬の焔を燃やさないわけもなかった」としている。嫉妬の焔を燃やす、というのは言わずもがな比喩表現である。ここに、現代語訳の創意の側面が色濃く出ている。「安からず」というのは、普通に訳するならば「心穏やかでない」くらいに訳するのが適当であるだろう。

 しかし、晶子はその心情を「嫉妬」と読み替えている。無論、これは由なきことではなく、直前の「初めより、「我は」と、思ひ上がりたまへる御方々、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。」という一文を受けてのものである。ただ、嫉妬の「焔」としたのは明らかに創意の部分ということができる。この比喩表現は、いわゆる文学的表現というものだろう。日本語として味わい深く美しい文章である。しかし、美しいからこそ、この一文は不自然なのだ。他の箇所はほとんど直訳か補足を付け加えるだけで訳出しているところが多いので、ここに創意を加えたせいで、少し浮いてしまっている感がある。

 もちろん、それが故に晶子の訳が悪訳というわけではない。『源氏物語』との距離を保ちながら、現代の読者との橋渡しをしているのだと考えるならば、これは有効な手段だと言うことができるだろう。

創作か逐語訳か

 現代語訳の問題に関して、晶子訳を通して考えたことについて私見を述べておきたいと思う。現代語訳をするにあたって大切なこととは一体何であるだろうか。そもそも、どうして人々は『源氏物語』の現代語訳をするのであろうか。それは、多くの人に源氏物語に親しんでもらうためだろう。その意味で、現代語訳の源氏物語はなるべく平易でなければならない。故に、完璧な逐語訳というのは不自然な日本語になってしまいがちなので、これにはあまり適していないと考える。そういうものは、中級の学習者が使うべきものである。つまり、源氏物語のある程度の物語像を把握した後に、原文を味わうための橋渡しとして使われるのが好ましい使い方だろう。

 では、初学の者はどういう物を読むのが良いだろうか。私はほぼ初学の者なので、その感覚でいくと、まずは創作的な物から読むのが良いのではないかと思う。『晶子全訳』も私の感覚では自然な文章と言えないが、それでも十分に初学の者に優しい。しかし、三種類の分類のうち「リライト本」に属する物が最も読みやすいのではないかと思う。源氏物語が様々な形態で世に送り出されているということは、今に始まったことではない。柳亭種彦『偐紫田舎源氏』、近松門左衛門『今源氏六十帖』など、江戸時代にも源氏を再構成しようとする試みを見ることができる現代では、映画やコミックなどで源氏物語を再構成するものがある。特にコミックは様々なものがでているが、最も有名なのは大和和紀氏の『あさきゆめみし』だろうか。この作品にも、少女漫画風にするために冒頭で多少の改変が加えられている。しかし、源氏物語全体の雰囲気を掴むためには読みやすくて便利ではないかと感じる。今後も、創作・翻案としての源氏物語が次々に生まれていけば、何年経っても『源氏物語』は絶えることなく後世の人々に語り継がれていくことになると思うので、原典だけではなく、創作・翻案の方にも注意をすることが大切なのだ。

結び

 恥ずかしながら、私は源氏物語を読破したことがない。原典としての『源氏物語』を読破したこともなければ、『晶子全訳』も「空蝉」巻まで読んだことがあるのみである。演習によって「絵合わせ」については知識がついたが、他の巻のことはわからない部分が多い。そんな源氏初学者の私が演習に際して最も頼りになると思ったのは、やはり現代語訳であった。注釈などはもちろん大切なのだが、物語全体を掴もうとするときに、不慣れな原文で読むと、どうしても内容の理解に時間がかかってしまう。まずは全体像、というときに現代語訳はとても便利だ。しかし、現代語訳に頼りすぎてはもちろんいけない。そういう考えがきっかけとなって、本稿では現代語訳の問題について一考してみることにした。現代語訳をうまく使いながら、原文の『源氏物語』の世界にこれから少しずつでも迫ることができれば良いと考えている。





参考文献
秋山虔『源氏物語の輪』2011年 笠間書院
小嶋菜温子・他編『源氏物語と江戸文化 可視化される雅俗』「柳亭種彦『偐紫田舎源氏』と源氏絵」佐藤悟執筆「元禄歌舞伎と『源氏物語』――近松門左衛門作『今源氏六十帖』における受容」2008年 森話社
立石和弘・安藤徹編『源氏物語の時空』「『源氏物語』の現代語訳」立石和弘執筆 2005年 森話社
与謝野晶子訳『全訳源氏物語』1971年 角川書店


(このレポートは、大学二年生時に課題提出用として書いたものに若干の修正を加えたものです。)

漱石、芥川、太宰ー三人の日本近代作家と、そこに息づく中国文学ー

熊本大学文学部文学科
伊藤祥太


 日本は古くから中国の影響を受けてきた。漢字は中国から輸入されてきたものだし、仏教も中国から入って来たとする説がある。遣隋使・遣唐使によって中国文化を積極的に受容し、武家社会になっても日宋貿易が行われていた。さらに鎖国中でも、中国との交流は続いていたのである。そんな中国であるから、文学においても中国文学と日本文学は相即不離の関係にある。本稿では、近代作家三人を取り上げ、各人の繋がりとそこに見える中国古典小説の影響について考察していく。

 先日、太宰治の「竹青」と「清貧譚」を読んだ。どちらも初読の時点で芥川を感じた。どうして芥川を感じたのであろうか。初収刊本においては削除されてしまったものの、「竹青」はその初出において副題を「新曲聊斎志異」としていた。「清貧譚」において、太宰は冒頭で「以下に記すのは、かの聊斎志異の中の一篇である。」と記しており、原作の『聊斎志異』に自分の思想を付け加えたことを明らかにしている。つまり、これらの作品は中国古典に題材を求めた翻案小説なのである。この、中国古典を改作するという点に芥川を強く感じるのである。

 芥川は多読の作家であった。同時代の多くの作家たちが自分の体験をもとにした私小説的なものばかりを書いていたのに対して、芥川はその著の多くで古今東西の古典に着想を得ている。「芋粥」、「鼻」、「地獄変」が日本の説話に題材を求めた好例である。また、彼はいくつか中国古典に着想を得た小説を書いている。例えば「酒虫」は『聊斎志異』の中の同名作品の改作であるし、「黄粱夢」は唐代伝奇『枕中記』を簡略化して語り、結末部分を変えたものである。「杜氏春」が鄭還古の「杜氏春伝」の翻案であることも有名である。つまり、冒頭に掲げた二作品に芥川を感じたのは、「中国古典小説の翻案」という共通項があったからなのである。

 太宰は十六歳頃から芥川作品に親しむようになり、心酔のあまり芥川と同じ一高から東大に進学するコースを目指して勉強していたという。太宰の高等学校時代のノートには、芥川龍之介の辞世の句である「自嘲 水洟や 花の咲きだけ暮れのこる」が何か所にも落書きされていた。太宰は間違いなく芥川の影響を強く受けており、後年に芥川龍之介賞が作られた際に、その栄光にあずかりたいと考えるのは当然のことであったろう。このような芥川への思いが、太宰に「竹青」や「清貧譚」などの翻案小説を書かしめたと言うことができるのではないだろうか。少なくとも、無関係であると一笑に付すことはできない。

 関口氏によれば、芥川龍之介は十歳頃に「『西遊記』の翻案『金比羅利生記』や、帝国文庫本の『水滸伝』を愛読」しており、中国古典に早い時期から触れていたことがわかる。ここに芥川の中国古典趣味は端を発しているのだろう。しかし、その師夏目漱石の影響も多分にあるのではないかと考えることができる。漱石と芥川の親交はそれほど長い期間続いたわけではない。芥川が漱石山房に通うようになってわずか一年後には漱石がこの世を去ってしまうからである。しかし芥川は漱石のことを尊敬していたと見える。海老井氏によれば、「この雑誌(第四次『新思潮』―執筆者註)の創刊についても、文壇を相手にするよりも、「漱石を第一の読者」として予定していたと言われ、自分達の書くものを漱石に読んでもらうに際し、「ナマの原稿」では失礼になるからということで、活字印刷にして雑誌の形にしたものであったとも言われている」。漱石を含めた第四次『新思潮』同人たちがいかに漱石に対して強い思いを抱いていたかがよくわかる。

 漱石といえば留学経験からイギリスとの関係が取りざたされがちであるが、漱石は非常に漢籍に通じた人であり、作品に多く漢語表現を使っている。私の読んだ範囲では『草枕』や『虞美人草』に漢語表現が頻出し、非常に読みにくいという印象を受けた。そもそも、日本は古来より大陸の影響を受けて来た。『竹取物語』には中国の蓬莱山が登場し、『源氏物語』には白居易の詩句が引用される。時代は飛んで江戸時代になっても、通俗小説は唐代伝奇の影響は大きい。江戸に生まれて、維新直後の時代を生きて来た漱石に漢籍の素養があるのは、むしろ当然のことといえるのではないか。中国文化は古い時代から日本人の教養の根幹を成す部分として深く根付いてきたのである。

 太宰の小説からこの論考は出発し、芥川を経由して漱石に着地した。この三人の中に直接的・間接的な関わりを通じて、中国古典小説の息吹が脈々と受け継がれている。日中政府間は領土問題などで現在緊張状態にあるが、文化面では親密な関わりがあるということを忘れないようにしたい。この思いを本稿の結びとして、筆を置く。



参考文献
関口安義 『芥川龍之介とその時代』 1999年 筑摩書房
山内祥史編 『太宰治全集第四巻』「清貧譚」 1989年 筑摩書房
山内祥史編 『太宰治全集別巻』 1992年 筑摩書房
有精堂編集部編 『時代別日本文学史事典 近代編』 海老井英次執筆「芥川龍之介と第四次『新思潮』」 1994年 有精堂出版株式会社



(このエッセイは、大学二年生時に課題提出用に書いたものに若干の修正を加えたものです。)

「花より男子」から、物語のセオリーについて考える

熊本大学文学部文学科
伊藤祥太


 私が日本ドラマの「花より男子」を観ていたのは小学校6年生の頃だったと記憶している。中学生になってから、映画版の「花より男子」も観に行った。原作の漫画も二回読み、私はとにかく「花より男子」が好きだった。

 しかし、年月を経て改めて見てみると、いわゆる少女漫画お決まりの展開に終始していると感じた。「お金持ち」だとか「いじめ」という単語は、少女漫画の専売特許と言ってもいいくらいだろう。今回見た第一回目は、勧善懲悪的な傾向があった。まあ、善の側のつくしが行動を取るのに少し時間がかかったということはあるが。それでも、悪のF4と善のつくしという図式が成り立っている。悪の方に、どっちつかずの人(花沢類)がいるのも、物語をつくる上で一つのセオリーとなっているように感じる。そして、この善と悪が次第に混じっていくというのも、お決まりの展開だ。最終的に道明寺とつくしがくっついてしまうのだから、変な話だ。私がつくしだったならば、受けた屈辱を忘れずに末代まで祟ってやるところなのだけど。

 少女漫画やドラマというのは、「お決まり」「ベタ」「セオリー」というものを観察するのに適していると思う。物語にはオリジナリティーが必要というが、ある種の予定調和が必要な場合がある。セオリー通りに進むことによって、少し退屈ではあるにしても読者は安心して読むことができる。島田雅彦氏は『小説作法ABC』の中で、このように予定調和に向かっていく物語を「ロマンス」と分類している。もともと、ロマンスといえば騎士道小説のことを指す。この騎士道物語が、強きをくじいて弱きを助け、姫を助けて永遠の愛を誓うという一定のパターンを踏襲していた。しかし、例えば、同じストーリーの上で遊ぶロールプレイングゲームや、日本における水戸黄門なども同じようなパターンを繰り返すという意味で、ロマンスと呼ぶことができる。ロールプレイングゲームや水戸黄門などが多くの人に受け入れられているのは、同じような筋書きを踏襲し続けているからなのだ。

 『花より男子』、ひいては少女漫画が絶大な人気をもって人々に受けいれられているのは、このようにロマンスの形を取っているからである。そのパターンに飽きて、たまに全く新しい形を生み出すストーリーテーラーも存在するが、その人もパターンがあってこそそこから外れることができるというのは考えなければならない。また、その人の書いたものが、新たなパターンの基準となるかもしれない。ここには、サブカルチャーがメインカルチャーへと変わっていく過程が示されているともいえる。



参考文献
島田雅彦 『小説作法ABC』 2009年 新潮社



(このエッセイは、大学二年生時に課題提出用として執筆したものに若干の修正を加えたものです。)

映画「トランスアメリカ」に見るアメリカ的家族の在り方

熊本大学文学部文学科
伊藤祥太


 「トランスアメリカ」は監督ダンカン・タッカー、主演フェリシティ・シェフマンの2005年に公開されたアメリカ映画である。性同一性障害を抱えるブリーの元にニューヨークから一本の電話があったことからこの物語は始まる。彼女の息子が拘置所にいて、“父親”に会いたいと言っているらしい。ブリーは彼を迎えに行く。そうして二人の旅が始まり、お互いの秘密を知り、それを一つひとつ受け入れながら親交を深めていく物語である。

 この映画のタイトル「トランスアメリカ」は「トランスジェンダー」にかけてある。そのタイトルからもわかる通りこの映画の主題は性同一性障害なのであるが、バイセクシュアルであるトビーやその他周囲の人の存在もあり、「性とは何か」という問題全体を考えさせる内容になっている。

 さて、性の問題についてはもちろんなのだが、私はこの映画の中での家族の在り方に注目したい。アメリカを含め欧米は個人主義の文化を持ち、日本は集団を大事にする文化を持つとしばしば言われる。家族の在り方についても同じことが言える。例えば、アメリカにおいては中流階級の家庭であれば、乳幼児の頃から部屋を与えて家族それぞれ別々の部屋で過ごす。一方、日本では乳幼児、ひいては小学生くらいまでは親と一緒の部屋で寝るのが普通だ。中根千枝氏は『適応の条件』の中でイギリス式住居と日本式住居の違いについて述べている。ここでイギリス式住居とは、広く欧米の住居を指して言っている。彼女の説明によると、イギリス式住居では一人ひとりが自分だけの場(城)をもっており、家族共通の場と個室をくらべると、後者の方が重要な部分を占めている。一方、日本式住居において家族構成員が別々の部屋にいることは少なく、各部屋の仕切りが弱くて家全体が共通の場を形成している。

 このような欧米と日本の考え方の違いにプラスして、アメリカは自由の国である。周りとの関係を気にするよりも、個人の考え方を重用視する風潮はより強い。なので、私は性同一性障害や性転換にも寛容な考え方を持っているのかと考えていた。しかし、この映画を見るとどうもそんなことはないようである。ブリーの母も父もそして妹も、女性の姿をしたブリーに対して嫌悪感を露わにしている。彼女が性同一障害であることは以前から知られていたことのようであったから、彼女は長年理解を得られなかったということになる。私の思い描いていたアメリカと違うと感じた。アメリカでは家族でも個人と個人は別だという考え方があり、すぐに受け入れられるのではないかと考えていたからだ。ブリーが両親の家を久しぶりに訪問するシーンで、玄関先のブリーに対して母親は“Get in here before the neighbors see you!”と言っている。近所の人に見られたら恥ずかしいという思いがあっての発言だろう。世間体気にするこのような風潮は日本と全く変わらない。もっと堂々とマイノリティを主張できるのがアメリカ社会だと思っていたし、アメリカの家族というのはそういうこともすぐに受け入れるものだと思っていた。

 とすると、家族よりも個人を尊重する考え方は、最近出てきたものではないだろうか。私はそう考えた。『事典現代のアメリカ』の「アメリカン・ファミリー」の項ではアメリカにおける家族の在り方の変遷が説明してある。それによると、1950年代のアメリカは家族主義の時代であった。その年代における代表的ホームドラマ「パパは何でも知っている」や「うちのママは世界一」などに見られるような家族がその時代のアメリカ人の理想家族であって、「家族のために消費することが社会の安定と正当性を証明する手段であると考えられるようになった(p.874)」。

 このような家族の形態は伝統的な日本の家族の形態と大きな違いが見られないように思う。このような時代を生きてきたブリーの母親は息子が大きく変貌してしまったことを受け入れられなかったのではないだろうか。一方で、個人かが進む現代のアメリカを生きてきた妹のシドニーは、最初こそ嫌悪感を示していたものの、母親に比べればすんなりと姉になった兄の存在を受け入れたように感じる。同事典において、「個人主義国であるアメリカにおいて、家族というものは本質的に矛盾を孕んでいる。(p.873)」という指摘もある。1950年代のアメリカン・ファミリーの在り方はアメリカの土壌にそぐわないものであり、現代に至る過程の中で今のような個人主義の形態ができてきたと考えられる。

 しかし、家族というのが逃れ難いものであることもまた事実である。その点は、現代過去欧米日本という区別を超えて同じである。それは若い世代であるトビーがブリーに抱く感情を見ていくことで浮き彫りになる。ブリーにペニスがついているのを発見した後のトビーがブリーに対して性交渉を迫るシーンがある。彼は男娼をしつつも少女とキスをしているシーンもあるので、彼はバイセクシュアルだと考えられる。であるからして、彼がブリーを男と知りつつ性交渉を迫るところに特に疑問を挟む必要はないだろう。ブリーは、性交渉を断る理由として自分がトビーの父親であることを明かす。これまで信頼関係を築いていたにも関わらず、彼はすぐにブリーから離れてしまった。ラストシーンで二人はまた親交を深めることになるが、何故トビーはこれほどまでに心的距離を離したがったのか。“家族であること”、これは本当に重要ない意味を持つということの現れだ。

 「トランスアメリカ」を観て感じたアメリカの家族の在り方について考察してきた。確かに、日本とアメリカで家族の在り方に違いはある。しかし、日本との違いや年代による違いこそあれ、アメリカにおいても家族というものが個人に与える影響というのは小さいものではないと感じた。


※参考文献
中根千枝 『適応の条件』1972年 講談社
小田隆裕・他編 『事典現代のアメリカ』2004年 大修館書店
(このレポートは、大学一年生時の講義で提出課題用に書いたものに若干の修正を加えたものです)