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熊本大学文学部文学科
伊藤祥太
はじめに
初学の者にとって、『源氏物語』を原文で読むというのはハードルの高いことである。全文を通して把握しようとするならば、まずは現代語訳から読破する人も多いのではないだろか。これは、例えばロシア語で書かれた『罪と罰』を初めは日本語訳で読むのと変わらないであろう。古典作品の現代語訳と、外国語作品の翻訳とは、基本的に同じような問題を抱えているように思う。本稿では、古典作品における現代語訳の問題を、外国語作品の翻訳の話も多少交えながら探っていこうと思う。
現代語訳の分類
『源氏物語』の現代語訳と言っても、その方法にはいくつかの類型がある。立石和弘氏 によれば、「ダイジェスト本」、「全訳本」「リライト本」の3つに分類することでができる。ダイジェスト本は抄訳と言ってもよく、エピソードや和歌、言葉の枝葉が削ぎ落とされている部分がある。「全訳本」はその名のとおり全訳あるが、必ずしも逐語的な訳になっているとは限らない。最後のリライト本はいわゆる「翻案小説」と呼ばれるもので、そこには翻訳者(翻案者)の創意が大いに含まれている。
初学の者が原文で源氏を読むのは苦しいが、全訳でもやや苦しい。『日本古典文学全集』や『源氏物語評釈』なども全訳に含まれる。これらの本は源氏物語のそもそもの雰囲気を保とうとして、現代の日本人が文章を書いたり読んだりする感覚とは少し離れてしまっている(もちろん、そもそも訳された年代が古いという要因もある)。私が今回例にとる与謝野晶子『全訳源氏物語』も全訳に分類されるものである。源氏物語に書かれている情報をそのまま現代語訳に置き換えようとするから、このような感覚のズレが生まれてくる。これを現代の感覚に直そうと思えば、それは源氏物語の世界感や情報を保つことができなくなるかもしれない。このような問題は、上でも指摘したように外国語作品と共通する部分が大いにある。それでも良いから、とにかく源氏をある形で受容してもらいたいと考えて生まれたのが、「ダイジェスト本」や「リライト本」といった類のものなのだろう。
与謝野晶子の訳した源氏物語
与謝野晶子は生涯に二度、源氏物語の訳を刊行している。最初の訳本は明治四十五~大正二年にかけて刊行された『新訳源氏物語』。二度目の刊行は、昭和十三~十四年にかけて出された『新新訳源氏物語』である。この二つの新訳はそれぞれタイプが異なっている。『新訳』の方はいわゆるダイジェスト本に分類されるもので、『新新訳』の方はそれよりも全訳に近いものとなっている。本稿では、この『新新訳』を例にとって、源氏物語の現代語訳の問題について考えていこうと思う。なお、私の手元にあるのは『新新訳』が文庫化された『全訳源氏物語』であるから、今後は一貫してこの本を『晶子全訳』と呼ぶこととする。
与謝野晶子は十一、二歳の頃から『源氏物語』に親しんでいる。そんな彼女がこの全訳を完成させたのは六〇歳のときのことである。つまり、五十年も源氏を愛読した者が訳したのであるから、私の思い至らない深淵な思考が含まれているのだと推察する。しかし、源氏にあまり慣れ親しんでいるとは言えない私から見えることもまたあるのではないだろか。源氏物語を知らない者に対して、源氏物語への入口はどうあるべきか。『晶子全訳』は、果たして初学の者にも読める内容となっているのだろうか。
『晶子全訳』桐壺巻を例にして
さて、この『晶子全訳』と『源氏物語』とは一体どういう相違があるのか。また、その違いが一体どういう影響を及ぼしているのか。ここでは、「桐壺」巻を例にして考えてみることにする。
『源氏物語』『晶子全訳』両方の冒頭文を引く。
いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いと、やむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。(『源氏物語』)
どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣とかいわれる後宮が大勢いた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった。(『晶子全訳』)
この短い冒頭の一文だけでも、見えてくることがたくさんある。まずは、女御・更衣に関する記述。『晶子全訳』の方は、読者が女御や更衣を知らないだろうという前置きで書かれている。というのも、「女御”とか”更衣”とか”いわれる後宮」という風な書き方がなされているからだ。『源氏物語』は当たり前のことだが、平安朝の時代の人々に向けて書かれている。よって、女御とか更衣がどういったものなのかを知っているのはこれまた当たり前のことである。ここで、語り手の時間的位置が違うことが問題となってくる。『源氏物語』では「今」の視点からこの物語を書いているのに対して、『晶子全訳』の方では、「未来」の視点から物語を綴っていることになっている。時間的位置が違うとどのような問題があるだろうか。すぐに挙げられるのは、物語との距離が開いてしまうということだろう。私たちにしてみれば平安朝時代の出来事は過去のことなのであるが、それにもかかわらず現在のこととして書かれていることで、物語との距離を縮めることができるのではないか。このように名詞で説明が必要な部分は注などで補足する方が適当ではないかと感じる。ただ、『晶子全訳』においては、同じ「桐壺」巻の少し後の方で、語句について違った説明の仕方をしている。
御息所――皇子女の生母になった更衣はこう呼ばれるのである――はちょっとした病気になって、実家へさがろうとしたが帝はお許しにならなかった。(『晶子全訳』)
この一文でも、語り手が「未来」の視点から物語を綴っている。しかし、ダッシュを使っての補足にしたことで、元々の文章の感覚を残せたのではないかと思う。この手法は、外国語文学の翻訳においてよく見られる。確かにダッシュによる補足が多いと読みにくくなってしまうが、適度に説明として入れるのは原型を留めることと現代の読者にわかりやすくすることの一つの妥協点ではないかと思う。
さて、次に気になるのはこの一文である。
同じほど、それより下臈の更衣たちは、まして、安からず。(『源氏物語』)
その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬の焔を燃やさないわけもなかった。(『晶子全訳』)
最初の一文が文字数としては然程変わらなかったのに対して、この一文は訳文の方で文字数が多くなっている。これは、古典作品の特徴である省略を補うためであるが、この省略を補うこともどこまで補えばいいのかということも問題である。特にこの文章で気になるのが最後の「安からず」である。これを晶子は「嫉妬の焔を燃やさないわけもなかった」としている。嫉妬の焔を燃やす、というのは言わずもがな比喩表現である。ここに、現代語訳の創意の側面が色濃く出ている。「安からず」というのは、普通に訳するならば「心穏やかでない」くらいに訳するのが適当であるだろう。
しかし、晶子はその心情を「嫉妬」と読み替えている。無論、これは由なきことではなく、直前の「初めより、「我は」と、思ひ上がりたまへる御方々、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。」という一文を受けてのものである。ただ、嫉妬の「焔」としたのは明らかに創意の部分ということができる。この比喩表現は、いわゆる文学的表現というものだろう。日本語として味わい深く美しい文章である。しかし、美しいからこそ、この一文は不自然なのだ。他の箇所はほとんど直訳か補足を付け加えるだけで訳出しているところが多いので、ここに創意を加えたせいで、少し浮いてしまっている感がある。
もちろん、それが故に晶子の訳が悪訳というわけではない。『源氏物語』との距離を保ちながら、現代の読者との橋渡しをしているのだと考えるならば、これは有効な手段だと言うことができるだろう。
創作か逐語訳か
現代語訳の問題に関して、晶子訳を通して考えたことについて私見を述べておきたいと思う。現代語訳をするにあたって大切なこととは一体何であるだろうか。そもそも、どうして人々は『源氏物語』の現代語訳をするのであろうか。それは、多くの人に源氏物語に親しんでもらうためだろう。その意味で、現代語訳の源氏物語はなるべく平易でなければならない。故に、完璧な逐語訳というのは不自然な日本語になってしまいがちなので、これにはあまり適していないと考える。そういうものは、中級の学習者が使うべきものである。つまり、源氏物語のある程度の物語像を把握した後に、原文を味わうための橋渡しとして使われるのが好ましい使い方だろう。
では、初学の者はどういう物を読むのが良いだろうか。私はほぼ初学の者なので、その感覚でいくと、まずは創作的な物から読むのが良いのではないかと思う。『晶子全訳』も私の感覚では自然な文章と言えないが、それでも十分に初学の者に優しい。しかし、三種類の分類のうち「リライト本」に属する物が最も読みやすいのではないかと思う。源氏物語が様々な形態で世に送り出されているということは、今に始まったことではない。柳亭種彦『偐紫田舎源氏』、近松門左衛門『今源氏六十帖』など、江戸時代にも源氏を再構成しようとする試みを見ることができる現代では、映画やコミックなどで源氏物語を再構成するものがある。特にコミックは様々なものがでているが、最も有名なのは大和和紀氏の『あさきゆめみし』だろうか。この作品にも、少女漫画風にするために冒頭で多少の改変が加えられている。しかし、源氏物語全体の雰囲気を掴むためには読みやすくて便利ではないかと感じる。今後も、創作・翻案としての源氏物語が次々に生まれていけば、何年経っても『源氏物語』は絶えることなく後世の人々に語り継がれていくことになると思うので、原典だけではなく、創作・翻案の方にも注意をすることが大切なのだ。
結び
恥ずかしながら、私は源氏物語を読破したことがない。原典としての『源氏物語』を読破したこともなければ、『晶子全訳』も「空蝉」巻まで読んだことがあるのみである。演習によって「絵合わせ」については知識がついたが、他の巻のことはわからない部分が多い。そんな源氏初学者の私が演習に際して最も頼りになると思ったのは、やはり現代語訳であった。注釈などはもちろん大切なのだが、物語全体を掴もうとするときに、不慣れな原文で読むと、どうしても内容の理解に時間がかかってしまう。まずは全体像、というときに現代語訳はとても便利だ。しかし、現代語訳に頼りすぎてはもちろんいけない。そういう考えがきっかけとなって、本稿では現代語訳の問題について一考してみることにした。現代語訳をうまく使いながら、原文の『源氏物語』の世界にこれから少しずつでも迫ることができれば良いと考えている。
参考文献
秋山虔『源氏物語の輪』2011年 笠間書院
小嶋菜温子・他編『源氏物語と江戸文化 可視化される雅俗』「柳亭種彦『偐紫田舎源氏』と源氏絵」佐藤悟執筆「元禄歌舞伎と『源氏物語』――近松門左衛門作『今源氏六十帖』における受容」2008年 森話社
立石和弘・安藤徹編『源氏物語の時空』「『源氏物語』の現代語訳」立石和弘執筆 2005年 森話社
与謝野晶子訳『全訳源氏物語』1971年 角川書店
(このレポートは、大学二年生時に課題提出用として書いたものに若干の修正を加えたものです。)