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LITECO×KMIT 連続寄稿企画「『文芸』は世界をどう変えるか」

LITECO×KMIT 連続寄稿企画 「文芸」は世界をどう変えるか  


「文芸」という単語を見て、何を想像するでしょうか? 小説を書くことだと答える人は、だいたい正解でしょう。詩や戯曲などにも言及できる人は、ほぼ正解といって良いと思います。評論もこの範疇に入ることがあります。映画や漫画は……さて、皆さんの文芸の定義ではどうですか?

日藝文芸学科の学生を中心として結成された、文芸サークル「KMIT」
彼らは一体どういう思想のもと、文芸活動に勤しんでいるのでしょうか?
また、彼らは文芸で何をしたいのでしょうか?

LITECOでは彼らに一つの問いをぶつけてみました。
「文芸」は世界をどう変えるか?

4つのエッセイは、その質問に対する答えです。
(それぞれのタイトルをクリックすると、記事ページに飛びます)


サイトウ 「合理性、非合理性」 

汐咲里乃 「世界の繋がりと広がり」

紀谷実伽留「小規模な世界における文学」
 
藍那   「届かないようで届く」



KMITのサイトはこちら! →KMIT
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特集☆院生インタビュー「最後の質問と、フリートーク」

伊藤
最後になるんですが、「朝から文学隊」というものを計画していると伺ったのですが、それはどのようなものなんでしょう?
森迫
いや、人が集まらないので、自分が勝手に勉強している感じになってるんですけど。あれは突発的にやっただけなんですけど。
伊藤
それをもし今後やるとしたら、どのような感じでやりたいと考えていますか?
森迫
一番いいのは、それぞれの研究のために基礎的な部分、文学を広く見るためにこれは見ておかなければいけないよねというところを押さえていくという勉強が一番理想的なんですけどね。ただ、さっきも言いましたけど、色んなこと言う人がいますからね。だから、難しいんですよ。最悪、自分が研究していることの発表会みたいな感じでも良いと思うんですよ。その勉強会があることによって、自分の時間の使い方を見直せるんじゃないかなと。一週間なら一週間で、その期間の研究の密度を濃くすることができるのではないかと思うんですよね。ただ、今のところ名乗り出てくれた人が一人しかいないので……しかも、その一人も教育実習があるということでなかなか忙しそうだし。文学隊の計画自体が、なかなか危ういところですね。
伊藤
僕も、計画に参加したいという気持ちはありますので、もしも実現することになりましたら、お声かけください!
伊藤
さて、用意してきた質問はこれで以上となるんですが、えーっと……何か言っておきたいことはありますか?
森迫
学部生にということであれば、一生懸命文学についての勉強をしたいのであれば、従来から名著と呼ばれているものは学部時代から読んでおくべきですね。それは、自分が後悔しているので。読んでおけばよかったなあって。
伊藤
僕ももう学部三年なわけですが、一年のときからああしておけば良かったなあと思うことはたくさんありますね……。
森迫
とりあえず、読んだっていう経験は作っておきなさいという感じですね。だから、夏目漱石の三部作とかも、読んだのって意外と最近なんですよね。
伊藤
うわあ、僕もまだ全部は読んでないんですよね(苦笑)
伊藤
なんか、不思議ですよね。文学って面白いはずなんですけど、読むのって結構苦しいところがあって。ソシャゲとかしてると、すぐに時間が経つじゃないですか。なのに、どうして僕らはそれをずっとやってるわけじゃなくて、文学に立ち向かうんだろうって思うんですよね。
森迫
なんでですかねえ。精神的な筋トレなんですかね。
伊藤
なんか、不思議だなあと思って。他の学部の人って、失礼な話ですけど割と言い訳できるところがあると思うんですよね。法学部の人とかは、就職があるから試験もキツイけど頑張ろう、みたいな気持ちの人もいるんじゃないかなと想像していて。文学部って、そういう言い訳があまりできない。
森迫
だから、あまり馬鹿にできないのは、文学を読むというのは人間的な勉強というのもあると思うんですよね。
伊藤
うーん、そうですかあ。いや、最近本当に読めなくてですね。本を手にとって読み始めると、「うわっ、まだこんなにある」と絶望するというか。
森迫
それによって、自分が何か語る言葉が増えるっていうところはあると思います。漱石の作品の中で、例えば「こういう言い方に対しては、こういう見方がある」というものがあって。それが、「それって今はそうだよね」という風に言わせるための力になる。自分の直感に何か昔からそういう見方があるというな歴史と関連した根拠づけができたりはしますね。だから、もしも即物的に役に立つ役にっ棚井という話をすれば、そういうところもあると。何か自分が直観したこととか、全くなかった見解というものを取り入れることができる。しかも、それは論文調の何かではなく、「文学」という人間が必然的にというか、残せざるを得なかったものの中にそれを見る、というのが良いんじゃないでしょうか。
伊藤
だから、「親近感」というものはあるのかもしれないですね。論文で言われるとよくわからないけれど、文学作品の中に自分を落とし込んでみると、わかることがあるかもしれない。
森迫
そうですねえ。だから、年齢を重ねて見て『山月記』を読むと、非常に苦しいですよ。「俺は何をしてきたんだ!」みたいになるから。高校生のときには分からなかった苦しさがあの作品の中にありますよ。多分、今読むといいですよ。今三年生ですよね、今読んでみると、絶対に苦しい。
伊藤
うわあ、読みたくないですねえ。僕、話も筋もほとんど覚えていないので、なおさら怖いです。「その声は、わが友李朝ではないか?」しか覚えてないので。
森迫
五月の読書会(伊藤が主催しているネット読書会)の課題図書って『坑夫』ですっけ?
伊藤
はい、『坑夫』です。
森迫
次は『山月記』をやったら、色々なところから面白い意見が出てくるんじゃないかなと思うんですけどね。短いから読みやすいし。……そういえば、何か色々企画されてますよね?
伊藤
いやあ、なんか今のうちにやっとかないと駄目かなあと思って(笑)
森迫
いや、それ凄く大事だと思いますよ。
伊藤
僕は多分、このままいけば院に行かずに社会人になると思うんですよ。だから、社会人になる前に爪痕を残しとかないと、今後文学をやらないと思ってて。自分の中で、強制されないとやらないものなんですよね、文学って。僕の場合は、ですね。だから、やっとかなくちゃいけないなあと思って。
森迫
良いことだと思います、本当に。
伊藤
だから、僕は先輩方とも別の読書会をやっていてですね。
森迫
『御目出度き人』とか読んでみてればいいのに(笑)
伊藤
あ、それ積読してるかもしれないです(苦笑)先輩が研究していると知ってからは何作か読んでみたんですけど、さっきも言ったように名前にハードルがありますよね。
森迫
何これ、凄く厳めしい内容書いてあるんじゃないかみたいな想像もしちゃうし。とか思ったら、彼は言文一致の完成者なんて言われたりもしますからね。
伊藤
そういえば、この前ちょうど読書会で『浮雲』を読んだんですよ。あれ、面白かったですね。
森迫
自分はあまり面白いと思わなかったけどなあ。
伊藤
僕は、「あ、昔の人も冗談言うんだ、すげえ!」って思って。
森迫
彼らも、純文学って考えて書いてないんじゃないかと思いますけどね。もちろん、文学というものを意識して書いてはいたでしょうけど、今で言うところの格式の高い文学ということで書いたのではないでしょうね。
伊藤
そうですよねえ。僕らは昔のものを良いと捉える懐古趣味みたいなものからどうしても抜け切れないんですよね。読んでいるうちにそれはなくなっていくんですけど、でも、最初の方は「昔のものだから……」という感覚がつきまとう。
森迫
その当時の人たちは、ただ面白いから読んでたんだと思いますけどね。
伊藤
なるほど。……それでは、この辺で終わりといたしましょうか。本日は、本当にありがとうございました!

特集☆院生インタビュー「文学は社会にどう資するか」

伊藤
さて、これも文学における永遠のテーマだと思うんですけど、文学は社会にどう資するか、影響するかということについて考えるところをお伺いしたいです。文学って、目に見える形で役に立つことが無いじゃないかという風に言われることは多くて。
森迫
一昨年の12月くらいに熊本県立大学で文学は何の役に立つのかっていうことについてのフォーラムがありましたね。……あ、そうか。「文学」が役に立つかということではなくて、「文学研究」が、役に立つかどうかってことですかね。
伊藤
まずは、「文学」についてお話をお聞きしたいと思います。
森迫
文学が社会にどう資するかっていうことになると……。例えば、すでに文学としての名前を与えられたものの話になると、色んな例がありますからね。
伊藤
例えばですけど、高校生が初めて国語の授業で『檸檬』をやったときに、その経験はどういう風に役にたつのか。
森迫
役に立つか役に立たないかっていう議論は、やりたいかやりたくないかっていう議論に過ぎないんだと思いますね。高校生でも良いですし、文学に理解のない大学生でもいいですけど、「文学が何の役に立つんですか」って言ってる人は自己批判的なものを含まなければ、「別に文学なんてやりたくねーよ」って言ってるのと一緒ですよね。と、自分は思ってるんですけど。文学が何か現代にとって影響することがあるのかどうかとか、そういうところに話を持っていくのであれば、文学作品の質にもよりますけど、大学院に入るときに伊原先生に言われたんですけど。文学は人を救えるかという話をしたんですけども。100人に一人か、1000人に一人か分からないけれども、文学は人を救えるんですよと言われたんですよね。それには、凄く感動しました。
伊藤
そういえば、魯迅も同じようなことを言っている気がします。医者をやめて作家になったのは、医者は一人ずつしか救えないけれど、作家は多くの人を救うことができる、みたいな。文学を読んで、変わる人というのを想定して、文学というものはあるんですかね。
森迫
いや、それは多分違うと思いますね。読み取ることと作ることっていうのは、つながっているようで実は断絶しているんじゃないですかね。書いてそれを発表した時点で、その作品っていうのは作り手の手から離れるんで。だから、「何か役に立つはずだ」って作品を書いて、役に立つこともあれば、役に立たないこともある。逆も然りですよね。ただ、自分は自分の芸術性を高めたいんだ、それを作品として残したいんだと思って、読者のことをあまり考えていなくても、読者をどこかへ導くことはありますよね。だから、もうすでに文学の名前のついたものって限定したのはそういうことで。今ある文学作品が読み手に渡ったときに、何か導いてもらったりとか助かったりとか、あると思います。書き手の話はまた別ってことで。
伊藤
人格形成に与える影響は確かに大きい気がします。僕も本を読んで逆に「こういう人間にはなりたくないな」というものもあったんですよね。アニメとか映画とかも同じだと思っていて、そこに登場している人物を見て「こういうやつになりたい、なりたくない」って考えることは重要なんじゃないかと思います。
森迫
結果として劇的な変化がなくても、何か人の心に残るようなものがありますよね。
伊藤
そうですよね、それは同感です。さて、「文学」についてはそのくらいで。では、「文学研究」の意味についてお伺いしたいと思います。
森迫
文学を研究する意味……。
伊藤
何故研究するのか、ということになりますかね。研究を仕事にすると、その対価としてお金を受けとるわけじゃないですか。社会から見ると、その研究に対してある程度成果がなければならない。と考えたときに、どう説明するのか。
森迫
これはメチャクチャ難しいと思うんですけど。例えば文学を歴史と絡めたりする。その作品がその時代いおいてどういう可能性を持っていたかということについて研究するとか。色々あるんですよね。メチャクチャたくさん文学の研究の方法やスタンスっていうのはあって。それが文学研究っていう風にひとまとめにして、それがどう役に立つかっていうと、これは非常に難しいんですよね。どういうスタンスかっていうのも問題がありますし。ただ、ジェンダー批評みたいなのが出てきたときに、それは男性中心の社会を捉えなおすという役割が出てきますよね。ジェンダー批評の立場からの文学作品の読み解きとか。文学作品を過去の社会に絡めて読んでみることによって、例えばそっくりの社会的状況が現代に再現されようとするときに、人文学系の研究っていうのは、ストッパーになり得るんですよね。だから、即物的な成果っていうのはあんまり見えないと思うんですよ。
伊藤
知識を集積させる感じだと捉えるといいのかもしれませんね。
森迫
で、然るべきときに、それを大学の研究者なりが発揮していく。今までの積み重ねの中で、「この状況は戦争前夜のあの状況と一緒じゃないか!」というよくあるような指摘が可能になる。その論が有効かどうかはさておき、自然科学とか世の中の役に立つと言われているものが車輪の一方だとすれば、それだけだとどんどん道を逸れていっちゃうわけですよ。だから、文系の研究っていうのは、もう片方の車輪なんじゃないかなって思うんですよ。
伊藤
ただ、そこでまた分からなくなるのが、人文系のと文学、その中での文学というものがあって。
森迫
文字媒体になっている芸術というものに、あまりこだわる必要はないんじゃないかと思います。人文系のというとまた区分けができちゃうんですけど、人間が何かやって残して来たものの一つが文学なわけで。やっぱ、厳密にスパンと割ることはできないですよ。だから、人間が残して来た大きなものの中の一つと考えるのが良いんじゃないかと。
伊藤
境界線はあやふやですけど、「この辺かなあ」くらいでわけるのが良いんですかね。
森迫
境界線をつくっちゃうと、「これは有効な手段だよね」っていう他のところから来る手がかりが遮断されちゃうから、あまり良くないのかもしれません。だから、文学研究っていうのは、文字媒体が残ったことについて、どういうことなんだろう、どういうことだったんだろう、そしてどういうことになるんだろう、というのを見ていく研究なんじゃないかなという気がします。
伊藤
なるほど、なんだかすっきりしました! ありがとうございます。

特集☆院生インタビュー「文学とは何か」

伊藤
さて、いよいよ終わりの方に近づいてきましたが。そして、あまりにも漠然とした話になるんですけども。果たして「文学」はどうあるべきか、ということについてお聞きしたいと思っております。まずは、ご自分の中で「文学」とはどう定義されるものかについてお聞きしてもいいですか?
森迫
「文学」はどう定義されるかということについては、自分は色々考えるところがあってですね。文学の定義って、昔は「これは文学だ、これは文学じゃない」みたいな分け方があったんですけど。文学の定義は多分無い、と思っています。何故かって言うと、例えば『万葉集』が文学になったのっていつだろうっていうことを考えてみる。『万葉集』に載っている歌を詠んだ人っていうのは、別に文学ということを考えていなかったですよね。でも、それは文学になったわけで。自分が思うままに詠じた歌が後々に文学として認められた。そういうのをずっと辿っていくと、近代の初期も夏目漱石なら夏目漱石の作品で、文学になったのはいつなんだろうって思うんですよね。そういう風に考えると、今我々の周りにあるものも、いつかは文学になる可能性があるんですよね。武者小路とかはその話が当てはまるんですけどね。例えば、文学研究を考えるときに、昭和頃武者小路がなんて言われたのかっていうと、「なんだ武者か」っていう。そういう風に言われてた時代があったらしくて。武者小路作品っていうのは、読まれるけれども、研究に値するものではないと言われていた時代があって。でも、それは違うなあって、やっぱり自分は思うんですよね。だから、文学っていう定義は多分できないんですよね。残っていくもの、もしくは人に影響を与えて長く読み継がれるものが文学になっていくっていうだけなんですよね。だから、たまに文学作品として武者小路作品ってどうなんですかねえという話が出てくるんですけど。「じゃあ、あなたは文学作品は何だと思ってるんですか」と尋ねたい。文学作品っていう何か基準があって、そこから演繹することは多分できないと思うんですよね。
伊藤
なるほど……。
森迫
それで、これはお世話になってる先生から聞いたんですけど、ちょっと前……我々からするとずっと前だと思うんですけど。ちょっと前までは、文学っていう名目で授業を作っている大学で、近代文学なんてものを取り扱っているところはなかった。でも今は、「昔からやってますよ」って顔して近代文学の授業ってありますよね。そんなことを、その先生はお話してくださったんですよ。だからもう少ししたら、「昔からやってましたよ」っていう感じでアニメ研究の授業をする大学が出てくるかもしれないってその先生はおっしゃってて。
伊藤
でも、もうちょろちょろアニメ研究は出てきてますよね。文学の領域で行われているのかどうかはわかりませんが。ラノベはもう、そこそこ知名度を得てきていて。で、これまでは文学って文字の話だったじゃないですか。文字だけのメディアを扱ってきていた。今アニメの話が出ましたけど、アニメについてはどう思われますか? アニメ、映画も含めて。演劇とかは、文学に含まれることもあるじゃないですか。そういう視覚的な要素も含めた芸術に関しても、文学の範疇に含めてもいいんですかね?
森迫
それを含めないって言っちゃうと、そういうものを研究しているところもあるので怒られちゃいますし。それは、大いに範疇に入ると思います。むしろ、そういう枠組み時代が機能しなくなるような、もっと新しい枠組みを作らなくちゃいけない日が来るんじゃないでしょうか。
伊藤
僕が最近少し思うのは、Twitterとかも文学になりうるんじゃないかなって。
森迫
それも多分、出てくるんじゃないですかね。
伊藤
文学として研究するのかというと、また分からないところですけど。
森迫
ちょっと前に人工知能で話題になったやつがありますよね。女性の形したお掃除ロボット。でも、それはどうなんだっていう批判がありまして。これは正確な記憶じゃないんですけどね。掃除ロボットみたいなやつが、女性の形をしていたと。で、それは当然批判にさらされるわけですよ。そしたら、Twitterとかで批判が上がったものを人工知能の雑誌が「Twitterにおける批判のあり方」みたいな感じで取り上げていたんですよね。だから、研究対象としてTwitterとか公開されているSNSの情報とかが研究対象になるっていうのは、出てきていますよね。
伊藤
何と言うか、情報量が増える気がしますよね。僕らは、明治とかの情報を調べるためには、活字になったものを調べるしかなかったわけじゃないですか。でも、現代のものって恐らく膨大な量の情報が残っていくと思うんですよ。この先どうなるかはわかんないですけど。
森迫
まあ、膨大になるか、ある程度の区切りをつけて、「こういう発言が多かった」というものから出発して、確実に言えるところを論述なりに含めていくという方法になるんじゃないですかね。膨大すぎると、扱いきれなくなりますからね。
伊藤
なるほど……。

特集☆院生インタビュー「学部生時代との違いとは?」

伊藤
さて、先ほども少しお聞きしましたが、今度は現在と学部時代との違いについてお聞きしたいと思います。時間の使い方や時間割も変わると思うのですが、その辺りについてお聞きしたいと思います。
森迫
それは、環境的な違いですか?
伊藤
そうですね。それでは、まずは環境的な違いからお伺いしたいと思います。
森迫
環境的といえば、やっぱり授業数が少ないことが挙げられますよね。必要単位もものすごく少ないので。だから、学部から上がって院に進学とかだったら、時間の余裕は非常にありますね。
伊藤
余った時間を自分の研究に充てるという感じで?
森迫
そうですね。10コマ取ったら、とても多いくらいで。
伊藤
10コマで多いんですか。
森迫
だから、社会人の人とかだと、それくらいで丁度いいのかなっていう設定なんですけど。だから、時間があるから……まあ、無い人もいますけど。時間があるから、「明日やればいいや」みたいな誘惑を受けることがあるので。やる気とかにもかかわってくる感じですけど。
伊藤
手法とかは、特に変わらないんですかね?
森迫
特にないんじゃないですかね。ただ、読むもの、論文の数とか論文の範囲の広さ、経験によって、物の見方がどんどん広がっていくということはありますね。だから、基本的なスタンスは自分の中では変わらなかったですね。
伊藤
なるほど、あまり変わらないんですね……。
森迫
ただ、院まで来たんだからっていう意識はちょっと違うかもしれないですね。やっぱり、自分が文学を勉強したくて来てるので。自分に戒める形で「お前、院まで来たのにそんなところまででいのか!」みたいなことは言い聞かせてますね。だから、最近は特に読む本の量も増えましたし、考えることも増えましたし、前までつけてなかった研究ノートとかもつけてます。武者小路以外の本についても、考えたこととか読んでわからなかったこととかを書いてます。まとめて漠然とほったらかしにしないというだけでも、随分と違う気がしますね。
伊藤
ちなみに、年間でどれくらい本を読まれるんですか?
森迫
冊数じゃなくなったので、よくわからないですね。全集だとかを読むので。冊数に換算できない部分がわからないので。ただ、自分はあまり読む本が多い方ではなくて。「もっと読めよ」という感じなので。ただ、空いてる時間は常に何か読むようにしてますね。
伊藤
凄いですよね。最近、僕はだんだんと物が読めなくなってきちゃって。
森迫
今は、『レトリック感覚』というものを読んでいます(本を取り出しなが)
伊藤
(本の表紙を見ながら)『レトリック感覚』……。作者は佐藤信夫さん、ですか。
森迫
この人は何の人かよく知らないんですけど。なんで読んでるのかっていうと、これは勧められたんですよ、大学の先生に。「これは名著だ」っていう風に言われて。とりあえず、何でも摂取しようかなと思って。
伊藤
文学以外の本も読まれたりしますか?
森迫
なんというか、「文学」以外ってどこまでかってなるんですけど。たとえば、歴史学とか社会学とか、全然別のことをやっているはずなのに、自分の研究とつながってくるから。ぽんぽんと飛び石みたいな感じで読んだものが、あるときつながったりはするので。特に「これは文学だし、これじゃ文学じゃないし」ということでわけて読むことはないですね。
伊藤
そうですか……。あ、例えば、図書館には分類があるじゃないですか。僕ら文学を学ぶ者は900番台の棚から書物を探すことが多いと思うんですけど。そこ以外の本棚を見て学ぶこともあるんですかね?
森迫
いや、申し訳ないけど、あまり文学以外の棚に行ったことがないので(笑)探す本が、やっぱり文学以外のところにあることが多くて。
伊藤
僕は、なんか逆にあの辺りがあまり好きではなくて。全集とかみると「うっ……」って感じになるので。
森迫
でも、全集とかは便利で。「あ、これについて見てみたいな」っていうときにすぐに参照することができるので。
伊藤
そうですよね、全集って全部読む必要はないんですよね。