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特集☆院生インタビュー「文学は社会にどう資するか」

伊藤
さて、これも文学における永遠のテーマだと思うんですけど、文学は社会にどう資するか、影響するかということについて考えるところをお伺いしたいです。文学って、目に見える形で役に立つことが無いじゃないかという風に言われることは多くて。
森迫
一昨年の12月くらいに熊本県立大学で文学は何の役に立つのかっていうことについてのフォーラムがありましたね。……あ、そうか。「文学」が役に立つかということではなくて、「文学研究」が、役に立つかどうかってことですかね。
伊藤
まずは、「文学」についてお話をお聞きしたいと思います。
森迫
文学が社会にどう資するかっていうことになると……。例えば、すでに文学としての名前を与えられたものの話になると、色んな例がありますからね。
伊藤
例えばですけど、高校生が初めて国語の授業で『檸檬』をやったときに、その経験はどういう風に役にたつのか。
森迫
役に立つか役に立たないかっていう議論は、やりたいかやりたくないかっていう議論に過ぎないんだと思いますね。高校生でも良いですし、文学に理解のない大学生でもいいですけど、「文学が何の役に立つんですか」って言ってる人は自己批判的なものを含まなければ、「別に文学なんてやりたくねーよ」って言ってるのと一緒ですよね。と、自分は思ってるんですけど。文学が何か現代にとって影響することがあるのかどうかとか、そういうところに話を持っていくのであれば、文学作品の質にもよりますけど、大学院に入るときに伊原先生に言われたんですけど。文学は人を救えるかという話をしたんですけども。100人に一人か、1000人に一人か分からないけれども、文学は人を救えるんですよと言われたんですよね。それには、凄く感動しました。
伊藤
そういえば、魯迅も同じようなことを言っている気がします。医者をやめて作家になったのは、医者は一人ずつしか救えないけれど、作家は多くの人を救うことができる、みたいな。文学を読んで、変わる人というのを想定して、文学というものはあるんですかね。
森迫
いや、それは多分違うと思いますね。読み取ることと作ることっていうのは、つながっているようで実は断絶しているんじゃないですかね。書いてそれを発表した時点で、その作品っていうのは作り手の手から離れるんで。だから、「何か役に立つはずだ」って作品を書いて、役に立つこともあれば、役に立たないこともある。逆も然りですよね。ただ、自分は自分の芸術性を高めたいんだ、それを作品として残したいんだと思って、読者のことをあまり考えていなくても、読者をどこかへ導くことはありますよね。だから、もうすでに文学の名前のついたものって限定したのはそういうことで。今ある文学作品が読み手に渡ったときに、何か導いてもらったりとか助かったりとか、あると思います。書き手の話はまた別ってことで。
伊藤
人格形成に与える影響は確かに大きい気がします。僕も本を読んで逆に「こういう人間にはなりたくないな」というものもあったんですよね。アニメとか映画とかも同じだと思っていて、そこに登場している人物を見て「こういうやつになりたい、なりたくない」って考えることは重要なんじゃないかと思います。
森迫
結果として劇的な変化がなくても、何か人の心に残るようなものがありますよね。
伊藤
そうですよね、それは同感です。さて、「文学」についてはそのくらいで。では、「文学研究」の意味についてお伺いしたいと思います。
森迫
文学を研究する意味……。
伊藤
何故研究するのか、ということになりますかね。研究を仕事にすると、その対価としてお金を受けとるわけじゃないですか。社会から見ると、その研究に対してある程度成果がなければならない。と考えたときに、どう説明するのか。
森迫
これはメチャクチャ難しいと思うんですけど。例えば文学を歴史と絡めたりする。その作品がその時代いおいてどういう可能性を持っていたかということについて研究するとか。色々あるんですよね。メチャクチャたくさん文学の研究の方法やスタンスっていうのはあって。それが文学研究っていう風にひとまとめにして、それがどう役に立つかっていうと、これは非常に難しいんですよね。どういうスタンスかっていうのも問題がありますし。ただ、ジェンダー批評みたいなのが出てきたときに、それは男性中心の社会を捉えなおすという役割が出てきますよね。ジェンダー批評の立場からの文学作品の読み解きとか。文学作品を過去の社会に絡めて読んでみることによって、例えばそっくりの社会的状況が現代に再現されようとするときに、人文学系の研究っていうのは、ストッパーになり得るんですよね。だから、即物的な成果っていうのはあんまり見えないと思うんですよ。
伊藤
知識を集積させる感じだと捉えるといいのかもしれませんね。
森迫
で、然るべきときに、それを大学の研究者なりが発揮していく。今までの積み重ねの中で、「この状況は戦争前夜のあの状況と一緒じゃないか!」というよくあるような指摘が可能になる。その論が有効かどうかはさておき、自然科学とか世の中の役に立つと言われているものが車輪の一方だとすれば、それだけだとどんどん道を逸れていっちゃうわけですよ。だから、文系の研究っていうのは、もう片方の車輪なんじゃないかなって思うんですよ。
伊藤
ただ、そこでまた分からなくなるのが、人文系のと文学、その中での文学というものがあって。
森迫
文字媒体になっている芸術というものに、あまりこだわる必要はないんじゃないかと思います。人文系のというとまた区分けができちゃうんですけど、人間が何かやって残して来たものの一つが文学なわけで。やっぱ、厳密にスパンと割ることはできないですよ。だから、人間が残して来た大きなものの中の一つと考えるのが良いんじゃないかと。
伊藤
境界線はあやふやですけど、「この辺かなあ」くらいでわけるのが良いんですかね。
森迫
境界線をつくっちゃうと、「これは有効な手段だよね」っていう他のところから来る手がかりが遮断されちゃうから、あまり良くないのかもしれません。だから、文学研究っていうのは、文字媒体が残ったことについて、どういうことなんだろう、どういうことだったんだろう、そしてどういうことになるんだろう、というのを見ていく研究なんじゃないかなという気がします。
伊藤
なるほど、なんだかすっきりしました! ありがとうございます。
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「自殺と文学」レポート募集!




太宰は入水、三島は割腹、川端もガス自殺を遂げたと言われる。
海外を見てみても、自殺をした作家は少なくありません。また、作中で自殺をしたり、自殺を考えたりする人物が一定数いる。

日本では現在、三万人の人が毎年自らの命を断っています。これは、きっといけないことです。
しかし、どうして自殺がいけないことなのか、説明することは難しい。
文学の立場から、この閉塞感を打開することはできないだろうか?

そんな思いから、学生の皆様より「自殺と文学」に関するレポートを募集いたします。
作家論でも作品論でも、小説や詩歌の枠を飛び出して演劇やアニメ、サブカル批評でも構いません。それが「文学」の範疇にあるならば。

皆様のユニークなご寄稿をお待ちしております。



以下、募集要項。

●対象
自殺と文学に関するレポート。

「文学」の対象は古今東西問いません。あなたが文学と信じるものについて論じてください。

日本語で書かれたものに限ります。


●資格
日本の大学及びそれに類する高等教育機関に籍を置く学生。

既に発表したものの応募も認めますが、その際はその旨を記載してください。

●字数・条件
字数は2000字以上とします。また、参考文献を必ず二本以上つけてください。参考文献は末尾に記してください。


●要領
原稿は.docx形式で、メールに添付してご提出ください。

一枚目の冒頭にタイトル・所属(大学名等)・氏名(本名)を付してください。この情報は全て、レポートと共に公開されます。所属と氏名を伏せたい場合は、その旨記載してください。

また、メールタイトルを「自殺と文学応募」とし、メール本文にタイトル・所属(大学名等)・氏名(本名)を付してください。


●宛先
atohslit1113@gmail.com

 

・応募された作品を公衆送信する権利をLITECOは有するものとします。
・不掲載・リライトとなる場合があります。あらかじめご了承ください。
・校正作業後、校正稿を承認していただいて掲載となります。

特集☆院生インタビュー「文学とは何か」

伊藤
さて、いよいよ終わりの方に近づいてきましたが。そして、あまりにも漠然とした話になるんですけども。果たして「文学」はどうあるべきか、ということについてお聞きしたいと思っております。まずは、ご自分の中で「文学」とはどう定義されるものかについてお聞きしてもいいですか?
森迫
「文学」はどう定義されるかということについては、自分は色々考えるところがあってですね。文学の定義って、昔は「これは文学だ、これは文学じゃない」みたいな分け方があったんですけど。文学の定義は多分無い、と思っています。何故かって言うと、例えば『万葉集』が文学になったのっていつだろうっていうことを考えてみる。『万葉集』に載っている歌を詠んだ人っていうのは、別に文学ということを考えていなかったですよね。でも、それは文学になったわけで。自分が思うままに詠じた歌が後々に文学として認められた。そういうのをずっと辿っていくと、近代の初期も夏目漱石なら夏目漱石の作品で、文学になったのはいつなんだろうって思うんですよね。そういう風に考えると、今我々の周りにあるものも、いつかは文学になる可能性があるんですよね。武者小路とかはその話が当てはまるんですけどね。例えば、文学研究を考えるときに、昭和頃武者小路がなんて言われたのかっていうと、「なんだ武者か」っていう。そういう風に言われてた時代があったらしくて。武者小路作品っていうのは、読まれるけれども、研究に値するものではないと言われていた時代があって。でも、それは違うなあって、やっぱり自分は思うんですよね。だから、文学っていう定義は多分できないんですよね。残っていくもの、もしくは人に影響を与えて長く読み継がれるものが文学になっていくっていうだけなんですよね。だから、たまに文学作品として武者小路作品ってどうなんですかねえという話が出てくるんですけど。「じゃあ、あなたは文学作品は何だと思ってるんですか」と尋ねたい。文学作品っていう何か基準があって、そこから演繹することは多分できないと思うんですよね。
伊藤
なるほど……。
森迫
それで、これはお世話になってる先生から聞いたんですけど、ちょっと前……我々からするとずっと前だと思うんですけど。ちょっと前までは、文学っていう名目で授業を作っている大学で、近代文学なんてものを取り扱っているところはなかった。でも今は、「昔からやってますよ」って顔して近代文学の授業ってありますよね。そんなことを、その先生はお話してくださったんですよ。だからもう少ししたら、「昔からやってましたよ」っていう感じでアニメ研究の授業をする大学が出てくるかもしれないってその先生はおっしゃってて。
伊藤
でも、もうちょろちょろアニメ研究は出てきてますよね。文学の領域で行われているのかどうかはわかりませんが。ラノベはもう、そこそこ知名度を得てきていて。で、これまでは文学って文字の話だったじゃないですか。文字だけのメディアを扱ってきていた。今アニメの話が出ましたけど、アニメについてはどう思われますか? アニメ、映画も含めて。演劇とかは、文学に含まれることもあるじゃないですか。そういう視覚的な要素も含めた芸術に関しても、文学の範疇に含めてもいいんですかね?
森迫
それを含めないって言っちゃうと、そういうものを研究しているところもあるので怒られちゃいますし。それは、大いに範疇に入ると思います。むしろ、そういう枠組み時代が機能しなくなるような、もっと新しい枠組みを作らなくちゃいけない日が来るんじゃないでしょうか。
伊藤
僕が最近少し思うのは、Twitterとかも文学になりうるんじゃないかなって。
森迫
それも多分、出てくるんじゃないですかね。
伊藤
文学として研究するのかというと、また分からないところですけど。
森迫
ちょっと前に人工知能で話題になったやつがありますよね。女性の形したお掃除ロボット。でも、それはどうなんだっていう批判がありまして。これは正確な記憶じゃないんですけどね。掃除ロボットみたいなやつが、女性の形をしていたと。で、それは当然批判にさらされるわけですよ。そしたら、Twitterとかで批判が上がったものを人工知能の雑誌が「Twitterにおける批判のあり方」みたいな感じで取り上げていたんですよね。だから、研究対象としてTwitterとか公開されているSNSの情報とかが研究対象になるっていうのは、出てきていますよね。
伊藤
何と言うか、情報量が増える気がしますよね。僕らは、明治とかの情報を調べるためには、活字になったものを調べるしかなかったわけじゃないですか。でも、現代のものって恐らく膨大な量の情報が残っていくと思うんですよ。この先どうなるかはわかんないですけど。
森迫
まあ、膨大になるか、ある程度の区切りをつけて、「こういう発言が多かった」というものから出発して、確実に言えるところを論述なりに含めていくという方法になるんじゃないですかね。膨大すぎると、扱いきれなくなりますからね。
伊藤
なるほど……。

特集☆院生インタビュー「学部生時代との違いとは?」

伊藤
さて、先ほども少しお聞きしましたが、今度は現在と学部時代との違いについてお聞きしたいと思います。時間の使い方や時間割も変わると思うのですが、その辺りについてお聞きしたいと思います。
森迫
それは、環境的な違いですか?
伊藤
そうですね。それでは、まずは環境的な違いからお伺いしたいと思います。
森迫
環境的といえば、やっぱり授業数が少ないことが挙げられますよね。必要単位もものすごく少ないので。だから、学部から上がって院に進学とかだったら、時間の余裕は非常にありますね。
伊藤
余った時間を自分の研究に充てるという感じで?
森迫
そうですね。10コマ取ったら、とても多いくらいで。
伊藤
10コマで多いんですか。
森迫
だから、社会人の人とかだと、それくらいで丁度いいのかなっていう設定なんですけど。だから、時間があるから……まあ、無い人もいますけど。時間があるから、「明日やればいいや」みたいな誘惑を受けることがあるので。やる気とかにもかかわってくる感じですけど。
伊藤
手法とかは、特に変わらないんですかね?
森迫
特にないんじゃないですかね。ただ、読むもの、論文の数とか論文の範囲の広さ、経験によって、物の見方がどんどん広がっていくということはありますね。だから、基本的なスタンスは自分の中では変わらなかったですね。
伊藤
なるほど、あまり変わらないんですね……。
森迫
ただ、院まで来たんだからっていう意識はちょっと違うかもしれないですね。やっぱり、自分が文学を勉強したくて来てるので。自分に戒める形で「お前、院まで来たのにそんなところまででいのか!」みたいなことは言い聞かせてますね。だから、最近は特に読む本の量も増えましたし、考えることも増えましたし、前までつけてなかった研究ノートとかもつけてます。武者小路以外の本についても、考えたこととか読んでわからなかったこととかを書いてます。まとめて漠然とほったらかしにしないというだけでも、随分と違う気がしますね。
伊藤
ちなみに、年間でどれくらい本を読まれるんですか?
森迫
冊数じゃなくなったので、よくわからないですね。全集だとかを読むので。冊数に換算できない部分がわからないので。ただ、自分はあまり読む本が多い方ではなくて。「もっと読めよ」という感じなので。ただ、空いてる時間は常に何か読むようにしてますね。
伊藤
凄いですよね。最近、僕はだんだんと物が読めなくなってきちゃって。
森迫
今は、『レトリック感覚』というものを読んでいます(本を取り出しなが)
伊藤
(本の表紙を見ながら)『レトリック感覚』……。作者は佐藤信夫さん、ですか。
森迫
この人は何の人かよく知らないんですけど。なんで読んでるのかっていうと、これは勧められたんですよ、大学の先生に。「これは名著だ」っていう風に言われて。とりあえず、何でも摂取しようかなと思って。
伊藤
文学以外の本も読まれたりしますか?
森迫
なんというか、「文学」以外ってどこまでかってなるんですけど。たとえば、歴史学とか社会学とか、全然別のことをやっているはずなのに、自分の研究とつながってくるから。ぽんぽんと飛び石みたいな感じで読んだものが、あるときつながったりはするので。特に「これは文学だし、これじゃ文学じゃないし」ということでわけて読むことはないですね。
伊藤
そうですか……。あ、例えば、図書館には分類があるじゃないですか。僕ら文学を学ぶ者は900番台の棚から書物を探すことが多いと思うんですけど。そこ以外の本棚を見て学ぶこともあるんですかね?
森迫
いや、申し訳ないけど、あまり文学以外の棚に行ったことがないので(笑)探す本が、やっぱり文学以外のところにあることが多くて。
伊藤
僕は、なんか逆にあの辺りがあまり好きではなくて。全集とかみると「うっ……」って感じになるので。
森迫
でも、全集とかは便利で。「あ、これについて見てみたいな」っていうときにすぐに参照することができるので。
伊藤
そうですよね、全集って全部読む必要はないんですよね。

特集☆院生インタビュー「武者小路実篤について」

伊藤
さて、その純文学の中で、実篤を専門的にやろうと考え、今も取り組まれていますよね。修士論文も、もちろん実篤で?


森迫
そうですね。


伊藤
ですよね。卒論からずっとやられていたと思うんですが、実篤との出会いからお聞きしたいと思います。実篤作品を始めて読んだ時期、何を読んだのかをお聞きしたくて。


森迫
あの、実は、武者小路実篤との関わりっていうのは、思い返せば実はものすごく深いんですよ。何でかって言うと、自分は宮崎県出身なんですよ。宮崎県には、「新しき村」っていう武者小路がつくった共同体があって。それ関連の施設に幼稚園生か小学校低学年の頃に行ったことがあるんですよ。そのことは、大学に入るまですっかり忘れてたんですけど。そういう縁もあってか、丁度日本文学特殊講義のときに、1910年代くらいまでの文学作品を自由に論じなさい、というのがあって。「どうしよう、興味のある作品が、うーん……」みたいな感じで。「あ、『友情』薄いな」って。


伊藤
なるほど(笑)


森迫
これならずっと積読にしてたしいけるかもしれないと思って読んだら、そのときは武者小路の「む」の字も知らないような、作品も全然読んだことなくて、凄く堅そうな感じだなあと思ってて。


伊藤
武者小路は名前凄いですもんね。


森迫
そう、名前が凄い。


伊藤
それは、学部何年のときですかね?


森迫
二年のときだったかな。二年の後期。で、そのときに『友情』を手に取ってレポートのために読んでみたら、凄く感動して。ラストの見開き一ページ分にびっくりしちゃって。だって、自分が好きになった女の人がいて、その女の人との恋愛を成功させるために親友にもお願いして。応援してもらうけど、親友とヒロインがくっついちゃって。で、親友とヒロインがやり取りしたラブレターをまざまざと見せつけられて。もう、鬼畜の所業みたいな(笑)そんな過酷な試練を与えられたのに、普通だったらへこむはずなのに、立ち上がろうとするっていうのが本当に衝撃的で。


伊藤
なかなか現代では有り得ない発想ですよね。みんなへこみますよね。


森迫
だから、レポートのために「友情」を読んで感動して。もっと他のものを読んでみようと思ったのが初めです。


伊藤
なるほど。実篤は独特なところがありますよね。世界観というか、倫理観といった方が近いのかもしれませんが。僕は短編小説集を少し読んだだけなのですが、うーん……違いますよね(苦笑)


森迫
色々研究を進めていく、彼が何を考えていたのかとか、なんでこういう作品になったのかということのルーツが見えてきたんですよね。そこも面白いところではありました。最初は何故この作品が面白いのかってことでレポート書いただけだったんですけどね。でも、7000字書きましたねえ。


伊藤
7000字もですか! 多分、指定は4000字以上とかですよね?


森迫
そのときは3000字だったかな。だから、面白くて。今見ると論証を緻密にやっているわけではなくて、内容の要約みたいな部分もあったんですけど、やっぱりそれだけのものを……やっぱり、最初3000字ってきついじゃないですか。


伊藤
きついです(笑)


森迫
きついのに、書かせてくれた「友情」という作品の力。


伊藤
本当にすごいと思います。僕は、レポート書くときいつも文字数ギリギリになっちゃうので。実篤の作品に出てくる主人公・キャラクターがそういうキャラクターなわけじゃないですか。何にもへこたれないというか。ちょっと違いますかね。ある特殊な倫理観を持っているというか。


森迫
まあ、武者小路自身の分身だと言われることは多いですよね。


伊藤
その登場人物たちが、森迫さんにとってヒーロー的な存在なんですかね?


森迫
いや、それはちょっと違うかな。


伊藤
ヒーローではない?


森迫
ヒーロー、ではないですね。ヒーローっていうと全面的な信頼を置く感じですけど、そうではなくて。まずは「自分を生かすんだ!」っていう人物たちが武者小路作品には出てきますよね。自分が生きて、それでいて他人も生きる道を探るっていうのが、武者小路の主人公たちなんですけど。自己否定的だった自分がいて、特に二年生のときはそれが強かったんですけど。自己否定が強すぎて、授業があってる教室にいられなくなっちゃうくらいの。授業開始五分前とかに、そこに座っていられなくなって教室を出ちゃうみたいな。こんな状態で自分が授業を受けるなんて、みたいな。そう思ってた時期があって。でも、武者小路は「俺は自然に生かされているんだ!」って感じがして、自己肯定感に溢れている。しかも、それは自分の中にしっかりと根拠がある。そういうところに助けられたというか。それは、武者小路たちの主人公に感謝したいところですね。


伊藤
ヒーローではなく……。完全にその人物になりたいというわけではないんですね。


森迫
そうですね。恋愛観とかにしても、それはダメだろうみたいなところはありますよね。


伊藤
「えー!」って思うところありますもんね。